006 また朝を迎えてしまった
枕元の時計を見ると、朝の8時だった。
もう二度と、迎えることがないと思っていた朝。
ため息を吐き、頭を掻いた。
「あいつは……」
隣で寝ていた海がいない。
もう出ていったのか? そう思い起き上がった大地の背後から、海の声がした。
「おはよう」
「……」
振り返ると、コーヒーカップを持った海が自分を覗き込んでいた。
笑顔で。
「……おはよう。もう起きてたのか」
海からカップを受け取り、一口飲む。
「……うまいな。コーヒー淹れるの、得意なのか?」
「裕司が好きだったからね。結構練習した」
「……そうか」
「うん、そう」
「よく眠れたか?」
「うん。大地のおかげ」
「何もしてないと思うけど」
「一緒に寝てくれたじゃない」
「間違ってはないんだけど……人が聞いたら誤解されそうだな」
「困る?」
「いや……どうでもいいよ」
「裕司がいなくなって2か月。ずっと一人で過ごしてきたの。本当、寒くて寂しくて辛かった」
「そうなのか? 俺はてっきり、昨日のように毎晩男を漁ってたんだと」
「見境のない女みたいに言わないで。あんな風に声をかけたの、昨日が初めてだったんだから」
「じゃあ、これまでずっと我慢してたのか」
「そうだよ。死んで裕司の元に行くんだから、それまでは操を守るって決めてたの」
「じゃあなんで、昨日はその誓いを破ったんだよ」
「あれはその……仕方ないじゃない。死ぬ決意が揺らいじゃったんだから。これから決心がつくまで、また一人で寝なくちゃいけないんだって思ったら耐えられなくて」
「まあどっちにしろ、死んでまでして会いたい男への操なんだ。守れてよかったな」
「大地のおかげだけどね」
「そうだな、だから感謝しろ。そして二度と、ああいうことはしないでくれ」
「なんで大地、そんなに気遣ってくれるの?」
「嫌なんだよ、そうやって自虐的に抱かれる女が。それって自傷行為みたいなもんじゃないか」
「ふふっ」
「なんでそこで笑う」
「ごめんなさい。でも、ふふっ……大地、面白いなって思って」
「芸人を目指してるつもりはないんだが」
「そういう意味じゃなくて。どうせ死ぬ私のことなんか、放っておけばいいのに」
「ただの他人なら、こんなこと思わないよ」
「他人でしょ? 私たちお互い、名前と年齢しか知らないんだし」
「それと、お互い死にたがってる馬鹿ってこととな」
「違いない、あははっ」
「ははっ」
海が遮光カーテンを開けると、部屋が一気に明るくなった。
「いい部屋ね」
「そうか? 普通だろ」
「私が前住んでたところは、向かいがオフィスビルだったの。カーテンを開けたままだと丸見えだから、ずっと閉めてたの」
「ここは国道沿いだからな。車の音がうるさいのが困るけど」
「でも本当、気持ちいい。ねえ、ちょっとだけ窓、開けていい?」
「いいよ。たまには空気も入れ替えないとな」
窓を開けると、大地が言ったように車の音が耳に響いた。
「ここに引っ越した頃は、この音が嫌いだったんだ」
「今は?」
「嫌いなのは変わらない。でもまあ、慣れたって感じだな」
「そうなんだ。私は結構好きだな。誰かと繋がってるって感じで」
「どんだけ寂しがりなんだよ、お前は」
「仕方ないじゃない、寂しいのは本当なんだから」
そう言って大きく伸びをした。
「お腹、空いてない?」
「朝は食わない派なんだ」
「……大地って本当、コミュニケーションをとる努力を放棄してるよね」
「なんでだよ。朝食わないのは本当なんだし、何も悪くないだろ」
「私がこう聞いたのは、一緒に食べようって誘ってるからでしょ? それぐらい分かりなさいよ」
「だから俺は食わないんだって。食いたきゃ一人で勝手に食えよ。冷蔵庫に何かあるだろ」
「だーかーらー、もう用意してるんだってば」
「作ってるのかよ」
「そうよ。大地の分もね。それでどうなの? 食べる? 食べない?」
「いや、その……作ってくれてるんだったら食べるよ。ここでいらないって言うほど、俺も空気読めない訳じゃないから」
「よかった。じゃあテーブル出してて。持ってくるから」
それでか。さっきからいい匂いがすると思ってたんだ。
そう思い、テーブルを出してから洗面台に向かった。
「……」
顔を洗い鏡を見る。
情けない面だな、お前。
死地に向かったにも関わらず、またこうして一日を始めようとしている。
昨日出会ったばかりの、おかしな女と一緒に。
昨日思ったよな。こうして顔を洗うのも、これで最後なんだって。
どれだけ自分との誓いを破るんだよ、俺は。
「冷蔵庫の中、卵とベーコンしかなかったから」
テーブルに並んだ二枚の皿。
それを見て。大地は自虐的な笑みを浮かべた。
笑うしかないよな、こんなの。
これまでの人生、女に飯を作ってもらったことなんかなかった。
一夜を共にした女もいない。
死ぬと決めてから、こんな初体験をしてる馬鹿がここにいる。
本当、馬鹿げてる。
でも。
不思議と気持ちが軽くなっていた。
海の笑顔に、心が癒されている。
もうすぐ死ぬ俺に、必要のないひと時。
神がいるならこんな時間、もっと必死に生きてるやつに譲ってやれよ。
そう思い、笑った。