005 ひとつの布団で
2階建てのハイツの前で、タクシーが止まった。
「降りるぞ」
「うん……」
車内で二人は、外の景色を見つめ無言だった。
ルームミラーで二人を見ながら、運転手は「喧嘩中かな」そう思った。
タクシーから降りた大地は、階段で2階に上がり部屋の鍵を開けた。
「入れよ」
大地の声に小さくうなずき、中に入る。部屋は10畳のワンルームだった。
最初に目についたのは、部屋の大半を占めているダブルのベッド。あとは衣服のケース、ラックとテレビ。整頓された小綺麗な部屋だった。
「適当に座ってろ」
フローリングにクッションとテーブルを置き、大地はケトルの電源を入れた。
「コーヒーと紅茶、どっちが好きだ?」
「あ、うん……じゃあ紅茶で」
「分かった。ティーバッグしかないけど我慢してくれ」
そう言って海にカップを渡し、ベッドに腰を下ろした。
「……あったかい」
「ちょうど茶葉を切らしててな、そんなんで悪い。てか、寒いのか? 暖房入れるか?」
「ううん、そういう意味じゃなくてね。大地の気持ちがあったかくて、少しほっとしてるの」
「……そうか」
照れくさそうにそう呟き、額を掻く。
「それでどうだ? 少しは落ち着いたのか?」
「うん……ありがとう」
そう言ったまま、海は口をつぐんでうつむいた。
室内に重い空気が広がる。大地は立ち上がり、風呂場に向かった。
「……大地?」
「今お湯をはるから、用意が出来たら入れ。今日はまあ……色々あった訳だし、お前も疲れただろ」
「お風呂なら、先に大地が」
「いいから先に入れ。あ、でもあれだぞ? 俺に気を使って湯船に入らない、なんてのはなしだからな。ちゃんと肩までつかって、しっかり体を暖めるんだ」
そう言って再びベッドに腰を下ろし、ゆっくりと背伸びした。
「……色々あったって言うなら、大地もでしょ」
「ん? ああそうだな。何しろ特急に飛び込もうとした時に腕をつかまれて、ここは私に譲れって見知らぬ女に詰め寄られて」
「そうじゃなくて……それもなんだけど、そうじゃなくて……頬、大丈夫なの?」
「ああこれな。殴られるのは慣れてるからな、大丈夫だ。心配すんな」
「心配……するわよ! 何よあんた、さっきから大丈夫大丈夫ってばっか言って! グーで殴られて、その後引っぱたかれて……大丈夫な訳がないじゃない!」
「まあ、慣れてるって言っても最近ご無沙汰だったしな、確かに少し痛かったよ。喧嘩なんてのも久し振りだったし」
「なんで? どうして私をかばったの? 私たち、ちゃんとお別れしたじゃない。それに大地、あの時泊めてって言ったら断ったくせに」
「正直なところ、俺にもよく分からん。なんでお前の後をつけたのか、俺が聞きたいくらいだ」
「だったら」
「ただ」
「……」
「別れる時のお前の顔が、妙に頭に焼き付いててな。お前、自殺に失敗した割には明るくて、初めは正直戸惑った。何なんだこいつ、こんな軽い気持ちで死ぬやつなんているか? そう思った。そんな適当なやつに俺は自殺を邪魔されたのか? そう思って苛ついた。
でもな、お前が死にたい理由を話している時、少しだけ本音が見れた気がしたんだ。そしてさっきまでの無駄に明るい言動、それが強がりなんだと感じた。
まあ、人間ってやつは矛盾をごちゃまぜにした生き物だからな、全部お前だって言ったらそうなんだろう。ただ少なくとも、今の本当は俺に『寂しい』と言った時のお前、そう思ったんだ。だから気になってな、後をつけたんだ」
「……」
「そうしたらお前、本当に見知らぬ男に声をかけていやがった。誘ってやがった。それは別にいい。お前も立派な大人なんだし、自分がしたいと思うことをすればいい。でもな、あの男に触れられて笑ってるお前の顔、あれは嘘の顔だった。心が死んだやつの笑顔だった。だから止めた。声をかけた」
「……なんで……なんで今日会ったばかりの人に、そんなこと言われなくちゃいけないのよ……なんであんたの方が、私のことを分かってるのよ……」
「そんなもん、見れば分かるだろ。お前、今まで人間観察してこなかったのかよ」
「何よそれ……」
そう言ってクッションに顔を埋め、肩を震わせた。
「ちなみにそのクッション、座布団の代わりに出したやつだ。いつもは俺が尻に敷いてる」
「……馬鹿……」
「ほら、風呂の用意が出来たぞ。泣くなら風呂場で泣いてこい」
そう言ってカップを取り上げ、海の手を取った。
海は小さくうなずいて立ち上がり、風呂場に向かった。
「着替え、用意しておくから」
そう伝えると、中からシャワーの音がした。そして同時に、海の嗚咽が聞こえてきた。
大地は頭を掻き、「泣け泣け。全部吐きだせ」そう呟いた。
風呂上がり。海は大地のジャージを着ていた。
「ぶかぶか……」
「男物だからな、我慢してくれ」
「というか大地、随分背が高いけど、身長いくつなの?」
「俺か? 180ちょっとだ」
「そうなんだ……」
「だからまあ、ぶかぶかな服しかなくて悪い。何なら明日、着替えとか買ってこいよ」
「着替えって、明日も泊まっていいの?」
「いいの、じゃなくてさ。そうしないとお前、またさっきみたいに男に声をかけるんだろ? あんな現場見ちまったら、泊めるしかないだろ」
「なんで……どうしてそこまでしてくれるのよ」
「お前には大切な男がいた。その男が死んで、辛くて寂しくて死のうと思った。そうだな?」
「うん、そう……」
「だったら自分を大事にしろよ。見ず知らずの男に体を売って、自分を穢すようなことはするな。それはお前の彼氏に対する侮辱だぞ」
「……」
「それにお前、まだ死ぬつもりだろ?」
「……そうだけど」
「今日は失敗した。折角の覚悟が台無しになった、そう言ったよな」
「うん……」
「だったら覚悟が決まるまで、ここにいていいよ。俺も本意ではないといえ、お前と関わっちまったんだ。最後まで面倒みるよ」
「でも……それだと大地、私が死ぬまで死ねないじゃない」
「俺の中で死ぬことは決まってる。別に焦らなくても、お前が死ぬまでぐらいなら待ってやるよ。それにお前、俺が先に死んだら困るだろ?」
「……」
「と言う訳で、今日はお互い散々な一日だった訳だ。そろそろ寝よう。海はベッド使っていいぞ。俺は床で寝るから」
「そんな、いいよ。大地がベッド使ってよ」
「女は男の見栄を尊重するんだろ? 女を床に寝かす男なんて、聞いたことがない」
「そうなんだけど、それもなんだけど……お願い、聞いてほしいの」
「なんだ、言ってみろ。無茶な要求でなきゃ聞いてやる」
「その……一緒に寝てほしいの」
「はいアウト!」
「そうじゃなくて」
「そうも何もない。それをしたらあの男と一緒じゃねえか。俺がここに泊める意味がなくなっちまう」
「何もその……抱いてほしいだなんて言ってないの。ただその……温もりが欲しいって言うか……とにかく私、寂しいのは嫌なの」
「死んだ男の代わりって訳か」
「……」
「分かったよ」
「え……」
「この問答、どれだけ続けてもお互い納得する結論は出そうにない。だったら俺が折れるしかないだろ」
「いいの?」
「ああ、添い寝ぐらい別にいいよ。でもな、変なところ触ってくるなよ。俺も男だし、あんまり誘われたら襲ってしまうかもしれないからな」
「分かった……ありがとう、約束する」
「じゃあ寝るか」
一緒に布団にもぐり、電気を消す。大地は海に背を向けた。
「……背中……触ってもいい?」
「……ああ」
その言葉に安堵し、海が大地の背中を抱きしめた。
「……まあ……これぐらいなら許してやる」
「ありがとう、大地……」
大地の鼓動が聞こえる。
海の目から、涙が溢れてきた。
張りつめていた糸が切れたように、感情が昂っていく。
「……」
大地の背中が涙で濡れる。
大地は振り返ることなく、海に囁いた。
「体温ぐらいなら分けてやる。好きなだけ泣け。それから……ゆっくり寝ろ」