002 袖振り合うも
改札を出た二人は、そのまま全速力で走った。
息が続かなくなり振り返る。
駅員の姿はなく、何とか逃げ切れたようだった。
男は安堵の息を吐き、膝に手を当て息を整えた。
「……お前なあ!」
男が憮然とした表情で女を怒鳴る。しかし女の方は、まだ肩で息をしていた。
「全く……」
「ちょ、ちょっと待って……言いたいことはいっぱいあるけど、とりあえずタイムで……」
そう言って咳き込む女に、男は呆れ気味に大きなため息をついた。
「落ち着いたか?」
「駄目、無理……とにかくちょっと、休みたい……」
「休みたいってお前……はあっ、分かったよ。そこの喫茶店にでも入るか?」
「ええ、そうする……お願い、ちょっと肩貸して……」
もう一度大きく息を吐くと、男は女の手を取り喫茶店へと入っていった。
「全力ダッシュなんて、高校以来だよ」
アイスティーを一口飲み、ようやく女がほっとした表情を見せた。
「俺だってそうだよ。でもお前、せいぜい25、6歳だよな。その歳でその体力のなさはどうなんだ」
「おおっ、当たってる当たってる。私、25歳だよ」
「いや、そこじゃないから」
呆れ気味にそう呟き、コーヒーを口にする。
「で? 落ち着いたところで聞きたいんだけど、なんで俺の邪魔したんだよ」
「邪魔したのはそっちでしょ。あんたがいなければ、今頃私はあの世に逝けてたんだからね」
「お前なあ……それはこっちのセリフだよ」
「ところで。さっきから気になってたんだけど、初対面の女相手にお前を連呼する男ってどうなの?」
「お前だって俺のこと、あんた呼ばわりしてるじゃねえか。大体今から死のうとしてるやつ相手に、敬意もクソもねえだろ」
「あんた、絶対モテないでしょ」
「ほっとけ」
「ふふっ」
そう言って女はもう一口アイスティーを飲み、一息吐くと男に言った。
「私は海、星川海よ。苗字より名前で呼ばれる方が好き」
「なんで唐突に自己紹介が始まるんだよ」
「それぐらいいいじゃない。袖振り合うも他生の縁って言うでしょ? それにこんな馬鹿げた出会い、そうそうあるものでもないし。まあカウントダウンの人生、最後の出会いってことでさ」
「何なんだよお前」
「う・み。海よ」
「……分かったよ、海」
「よろしい」
そう言って笑顔を向ける海に、「こいつ、本当に死のうとしてたやつなのか?」そう思いため息を吐いた。
少し明るめのブラウンの髪はふわふわで、肩甲骨の辺りまで伸びている。綺麗な髪だ。
小さな顔に大きな瞳、小動物みたいなやつだな、そう思った。
「星の川に海……なんか全然脈絡ないな」
「ひっどーい! 私、この名前気に入ってるのにー」
口を尖らせて腕を組む。
そんな海にまたため息が出る。
なんで俺、こんな女とお茶してるんだ?
こいつが言うように、本当なら今頃俺は、ただの肉塊に変わってたはずなのに。
「で? 人の名前にケチつけるぐらいなんだから、さぞかしあんたは立派な名前なんでしょうね」
「いや、だから……どうでもいいだろ」
「あなたねえ、私の話聞いてた? こういう小さな縁を大切にしないと、友達なんて出来ないよ」
「今から死のうとしてるやつに、友達なんていらないだろ」
「いいから答えなさいよ。私ばっかりずるいじゃない。それとも実は、あなたこそ変な名前だとか?」
「んなこたねえよ。教えるのが面倒なだけだ」
「じゃあ私、あなたのことをなんて呼べばいいのよ」
「いやいや、今ここだけの縁なんだから、どうだっていいじゃねえか」
「教えなさいよ。教えないとここで泣くわよ」
「なんだよその脅迫は。子供か」
「いいから。ね? 教えて」
「ったく……」
たった今会ったばかりの女。もう二度と会うことのない女。
飛び込む邪魔をした女。
そんな女になんで自己紹介しなくちゃいけないんだ、そう思った。
だが愛玩動物のような視線を向ける海を見て、このままだと解放されそうにない、そう思い観念した。
「……大地だ」
「大地ね。苗字は?」
「清水。清水大地だ」
「清水大地……あははははははっ」
「なんでそこで笑う」
「だって……あははははははっ。清い水に大地って、あんたも脈絡ないじゃない」
「ほっとけ」
そう言ってカップを取り、コーヒーを飲み干した。
「歳は?」
「歳まで言わなきゃいけないのかよ」
「私の歳を知った訳だし、ここは等価交換ということで」
「何の交換だよ、全く……32歳だ」
「おじさんだ」
「うっせえ」
そう呟き、カップを持つ。
そして中身がないことに気付き、もう一度ため息をついた。