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012 幸不幸の境界線

 


「では海さん、こちらを外のテーブルにお願いします」


 浩正(ひろまさ)がそう言ったトレイには、ティーカップとゼリーの2セットが乗っていた。


「わ、分かりました」


 外のテーブルには車椅子の山田と下川、そしてストレッチャー型の車椅子で横になっている男性、中山がいた。


「すいません、おまたせしました」


 海がぎこちない笑顔を向ける。


「そんなに緊張しなくていいよ。大丈夫、ここのテーブルの人は優しいから」


「あら大地ちゃん、中の人は意地悪?」


 そう言って下川が笑う。


「いやいや下川さん、いじめないでくださいって。勿論みなさん優しいですよ。その中でも下川さんたちは、特別優しいってことで」


「うふふふっ、ありがとう」


「あ、あの、その」


 海が緊張気味にトレイを見つめる。

 どちらのカップにも紅茶が入っている。でも一客にはスプーンが差してあって、色が少しくすんでいた。この違い、一体どういうことなの?

 そしてこのテーブルには3名の利用者がいる。それなのに2セットしかない。意味が分からず狼狽(うろた)え、不安な視線を大地に向けた。

 そんな海に大地がうなずく。


「それでいいんだよ。分からないことは確認する、勝手に判断しない。今の海の行動、何も間違ってないから」


 大地の言葉にほっとした表情を浮かべ、海もうなずいた。


「この子は大地ちゃんのいい子かい?」


「いやいや山田さん、若い女ってだけでそこに結び付けないでよ」


「うふふふふっ、ごめんなさいね。でもね、この歳になるとそういうお話に縁がなくなるもんだから、ついついお節介焼きたくなっちゃうの」


 山田の言葉に苦笑し、大地が海に伝える。


「スプーンの入ってない方がこちらの山田さん。入ってる方が下川さん」


「分かった。すいません山田さん、下川さん。おまたせしました」


「ありがとう。海ちゃんって言うのね」


「は、はい、海です」


「可愛いお名前ね。お父さんとお母さんに感謝しないとね」


「ありがとうございます」


「ゼリーは、何もされてない方が山田さんで、刻んであるのが下川さんだ」


 後から聞いた話だが、スプーンの入っている紅茶にはとろみがついていたらしい。下川は嚥下(えんげ)の状態が悪く、水分を摂る時にこうしてとろみをつけているのだそうだ。そうしないと誤嚥(ごえん)、誤って気管に入ってしまう恐れがあるとのことだった。

 現に下川は以前、誤嚥性肺炎(ごえんせいはいえん)を患って生死の境を彷徨(さまよ)ったことがあるらしい。


「それでその……大地、そちらの方には」


 海がそう言って、何も提供されていない中山を見つめた。


「中山さんは、何も口に出来ないんだ」


「え……」


 二人の会話を聞いていた中山が、笑顔で自分の服をまくって海に見せた。


「……これって」


 中山の腹部には、プラスチック製のボタンのようなものがついていた。


「ありがとう、中山さん」


 大地がそう言って頭を下げると、中山は手を振って応えた。


嚥下(えんげ)の状態が悪くなると、中山さんのように口から何も摂れなくなる場合があるんだ」


「何も飲めないし、食べられない……」


「そういう人たちの医療行為として、ここから胃に直接栄養を入れることがあるんだ。胃ろうって、聞いたことないか」


「胃ろう……」


「だから残念なんだけど、中山さんはここで何も口に出来ないんだ。申し訳ないと思うんだけどな」


 大地がそう言うと、中山が大地の頭に手を乗せ、乱暴に撫でた。


「ははははっ、ありがとう中山さん」


 そして中山は海にも視線を向けた。


「中山さんは脳梗塞も患ってて、左半身が麻痺してるんだ。そして声も出せなくなってる。でも本当、いい人なんだよ」


 中山が海を見つめ、親指を立てて微笑む。


「何も口にすることが出来ない。でも中山さん、このとまりぎのファンでね、来るのを楽しみにしてくれてるんだ。いつもは動くことも出来ず、ずっと部屋で寝たきりだからな。

 でも体調を崩されていて、しばらくここに来れてなかった。2か月ぶり、でしたっけ? だから俺も嬉しくてな」


 話を聞いている内に、海は知らぬ間に肩を震わせていた。

 私は昨日まで、ずっと死ぬことを考えていた。

 愛する人を失い、この世界に絶望していた。

 でも。

 この人たちを見ていると、自分程不幸な人間はいない、そう思っていたことが誤りじゃないかと思えてきた。

 山田さんたちにしてもそうだ。自分の脚で立つことも、歩くことも出来ない。中山さんに至っては、飲むことも食べることも出来ない。

 それなのに、みんな笑顔だ。

 この限られた時間の中で、こんなささやかな幸せを満喫している。


 それなのに。

 私は。


 私は贅沢なんだろうか。

 自分の脚で立ち、歩いて。誰の手も借りずに生活出来て。

 好きな時に好きなものを食べている。

 それはこの人たちにとって、二度と手に入らない幸せだ。

 その幸せを当たり前に思い、感謝することもせず、あまつさえ自分は世界一不幸な人間だと思っている。

 青空(そら)さんが今日、ここに私を連れてきた理由。ひょっとしたらそれは、私の中にある甘えを見抜いたからじゃないのだろうか。


「海ちゃん」


「え……」


 海の手を握り、下川が笑顔を向けた。


「哀しい顔してるわよ。辛いことでもあった?」


 その温もりに。笑顔に。

 海の心が揺さぶられる。


「いえ……なんでも、なんでもないです……」


 そう言って肩を震わせる。そんな海に大地と中山は視線を合わせ、微笑んだ。


「なんで……なんでみなさん、こんなに優しいんですか……笑顔なんですか……」


「だから言ったろ? このテーブルの人は優しいって」


 大地の言葉にうなずきながら、


「馬鹿……」


 震える声で返すのだった。





 建物内のテーブルを見回っている時、一人の利用者がフォークを床に落とした。

 海がそれを拾い上げ、カウンターに向かう。


「すいません浩正(ひろまさ)さん、交換してもらえますか」


「ああ、フォークですね。どうぞ」


「ありがとうございます」


 そう言って海がテーブルに向かおうとした時、同じく見回りをしていた青空(そら)と鉢合わせた。


「あ、ごめんなさい青空(そら)さん」


 海がそう言って微笑み、テーブルに向かおうとした。

 その時だった。


「いやああああああっ!」


 突然青空(そら)が声を上げ、床にうずくまった。


「え……青空(そら)さん、大丈夫ですか青空(そら)さん」


 慌てて海が青空(そら)の肩に触れる。


青空姉(そらねえ)!」


 中に駆け込んできた大地が割って入り、青空(そら)を抱きしめた。


「大丈夫、大丈夫だぞ青空姉(そらねえ)


「大地、大地!」


「大丈夫だ。ここにいるぞ」


 青空(そら)の耳元で(ささや)き、子供をあやすように頭を撫でる。

 その光景を、海が呆然と見つめる。

 何が起こったのか理解出来ない。状況がつかめない。

 カウンターから出て来た浩正(ひろまさ)青空(そら)の手を取り、「青空(そら)さん、奥で少し休みましょうか」静かにそう言った。


青空(そら)さんのことは任せてください。大地くん、少しだけここ、お任せしていいですか」


「分かりました」


 大地がそう言うと、浩正(ひろまさ)青空(そら)を連れて奥へと入っていった。


「すいませんみなさん、騒がしくしてしまって。大丈夫ですので、どうかティータイムを楽しんでください」


 大地の言葉に利用者たちは空気を読んだのか、笑顔でうなずき歓談を続けた。


「大地、その……私……」


「説明は後でする。とりあえず今は、目の前の利用者さんを気にかけてもらえるか」


「でも……私が何かしたのかもって」


「すまん海、頼む」


「……分かった……ごめん」


 大地は再び外のテーブルに向かう。海はフォークを利用者に届け、大地の言う通り利用者の見守りに戻った。


 青空(そら)さん、大丈夫なのかな。

 私、また何かしてしまったのかな。




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