Fコードは難しい
弾けないくせしてギターを買った。気になる女が大学の軽音サークルに入っていた。だから、俺も後を追うように入会した。だけれども、大学が始まってから一カ月、サークルの雰囲気はすでに出来上がっていた。俺は馴染めなかった。それどころか、ギターも練習しなかった。Gコードから難しかった。
それでも、飲み会だけは出席する。何とかして女と接点を持ちたかった。彼女が好きなバンドのCDも聞いた。しかし、そのバンドの曲は騒音にしか聞こえなかったし、独りよがりな歌詞はまったく心に響かない。それでも何度でも聞いた。わけがわからなかった。
その日の飲み会では、女は遠くの席で、男の先輩と笑顔で喋っていた。仕方がないので、それを横目にしながら、同じ一年の男と話す。苛立ちと焦りを肴に飲む酒は味がせず、しかし、量だけが増えていく。
気が付くと、俺は彼に介抱されている。
千鳥足で深夜の公園にたどり着くと、ベンチに腰を下ろす。男は水を手渡してきたので、ありがたく受け取った。
それを一気に飲み干すのを見て、彼は俺に尋ねる。
「これからどうする? みんな二次会とかに流れたけど」
「佐々木さんは?」
「あの女なら東条先輩と二人でどっかにいったよ」
彼はポケットをまさぐって煙草を取り出して咥えた。ライターをこすっていたが、風が吹いたせいで上手く点かない。
「先輩と? なんで?」
「知らね、できてんじゃね?」
「できてるって、そんな」
やっと付いたその煙が俺の眼に沁みた。痛くて、涙が出そうだった。
「……煙草」
「欲しいのか?」
先輩も煙草を吸っていた。そのことに対抗心を抱いて、俺は彼が差し出した一本を手に取る。そして、火をつけて吸い込む。初めての煙草だった。むせた。
ゴホゴホとせきこんでいると、彼は笑う。
「初めて吸ったの?」
「よく吸えるなこんなの、まずいだろ」
「確かにまずい」
涙目になった俺を見て、彼は笑っていた。
翌日、珍しくサークルに顔を出した。東条先輩が他の誰かと話していて、俺はその会話に耳を傾ける。
「昨日、どうだったんすか?」
「なにがだよ」
「佐々木のことですよ」
「あー、よかったよ」
「彼女、誰とでも寝るらしいですね」
「そのぶん、やっぱテクがさ」
そこまで聞いて、俺は部屋から飛び出す。
女のことはそれほど好きではないはずだった。
セックスがしたいわけでも、付き合いたいわけでもなかった。それでも胸が強く締め付けられた。嫉妬と、情けなさと、気持ち悪さに耐えきれず、俺は走り出していた。頭の中で、佐々木が好きだと言っていた曲が鳴り響いていた。
自暴自棄になった俺はデリヘルを呼ぶ。ドアがノックされて、写真とは全然違うババアが部屋に入ってくる。大学の女は一つ年上のイケてる先輩に貞操を上げたというのに、俺は母親と同じくらいのババアに童貞を捧げる。 吐き気を抑えながら、ホテルの天井を見上げる。ため息をつく。ばかばかしいと、自分のことを嘲笑する。こんなことをしても意味がないことを知っていたというのに、それに気づかないふりをして、後になって後悔する。
俺はあまりにもバカだった。
自己嫌悪から、煙草を吸い始めた。大学の喫煙所でいつかの男と会ったので、並んで、タバコに火をつける。くだらない話をしている中で、彼は言った。
「今度、サークルのライブあるけど、どうする?」
「へぇ、そうなんだ。誰が出るの?」
そう聞くと、知らない名前を何人か上げていく。先輩と佐々木の名も上がる。彼女たちはバンドを作ったらしい。
それが気になって、俺はライブを見に行く。
ステージ上で二人とバンドメンバーが楽器をかき鳴らす。いつしか彼女が好きだと言っていたバンドの曲だった。それはやっぱり騒音で、歌詞は独りよがりだった。だけれども、やけに心が揺さぶられた。先輩のギターも、女のボーカルも素人目にみても下手糞だ。独りよがりな押し付けがましい愛を歌った曲は、俺の耳にこびりついて離れなかった。
弾けないくせしてギターをかき鳴らした。時間を忘れて没頭した。押し付けがましい独りよがりな感情が俺をギターに執着させた。それでも、Fコードは難しかった。
しばらくして、俺はサークルのライブに出演した。人前では初めての演奏だった。下手糞なギターと下手糞な歌で騒音を巻き散らす。周りの人間は呆れてたり、笑ってたり、眉をひそめていた。曲が終わっても、ほとんどの人間は声を上げなかった。
観客の一人と目が合う。佐々木だった。彼女はただ、真っすぐこちらを見ていた。
俺は息をついて、またギターを鳴らす。それだけでよかった。なぜなら、この騒音が、この熱量が、今は気持ちいいのだから。