Prologue
一閃の如き槍の一閃が私を襲った。躰を真っ二つにせんとす大蛇の尾。それを躱すことは不可能であると思わせる程の槍撃。長年の勘がそれを本物にさせる。
私は芯からその撃に悪寒を感じた。咄嗟に姿勢を低くするが肩を大きく掠め、口から短い号哭が漏れ出す。すると、大蛇は大きく舌舐めずりを行い私を煽るように見下ろす。
私はさらなる殺意に駆られ一心不乱に彼の大蛇を狙い討ち、負傷した左肩を無意識に守るようにして片手で刀を振り被った。が、それはやはり本来の太刀よりも弱々しく、大蛇の前には呆気なく弾かれてしまう。鉄よりも硬く厚いその鱗にはただの一撃は一切ものともしなかった。
私はそれでも立ち上がり、弾かれた刀を拾い上げる。しかし、弾かれた衝撃により刀は刃毀れし、もう使い物にはならなさそうであった。そう判断すると、私は拾い上げた刀を地面に投げ捨て懐から一枚の札を取り出した。
以前主から貰い受けた巫の札。五神の神霊を降ろせる神降ろしの神器にして神儀。神子でも無い私がそれを可能とする唯一無二の代物。
だが、その代償に著しい記憶への負荷が掛かるという。主からは余程のことが無ければ使うなと指示されていたが、それこそが今だと私は確信した。
――――祈り。奉り。降ろす。
五神の一柱にして北方を守護す冬を司りし水神"玄天上帝"。そこに彼の霊獣が顕現すれば辺り一面を玄冬とせす神力が舞うと云われる。それが嘘言で無いと思われる程の力が躰を駆け巡る。
躰は凍傷のように悴み動きを鈍らせる。しかし、それとは真逆に彼の霊獣が私に齎す神力は熱を帯びたように躰を火照らせた。
私の躰はもはや私の物ではなく、彼の霊獣そのものになったと錯覚を起こすほど先刻の何倍もの力が湧き上がる。まるで躰に泉が生まれたかのように無限に力が湧き出すことに私は驚きを隠せなかった。
やはり"巴蛇"のような似非の神霊では真なる水神には勝てまい。大蛇は躰を大きくくねらせながら逃げる姿勢をとり始めていた。大蛇は本能として彼の霊獣から逃れようとしているのかその巨大ながら動きに一切の無駄が視えなかった。
しかし私はその力に驕りつつ、ただ大蛇に向かって手を翳すのみ。それだけてで指先から氷点下の冷気が滴り大蛇を凍らせる。それは変温動物である蛇には無類の強さを誇る業だった。
うねりと速度は段々と鈍くなり、遂には氷漬けにされたかのように生きたまま標本にされてしまった。そして、大蛇は最期に一言"キサマノアルジヲコロスノハワレラダショウジョ"と言い遺し躰は結晶のように粉々に成り果て朽ちた。
私は完膚無きまでの勝利に打ち拉がれているていると突如目の前が真っ暗になった。嗚呼これが代償か、と少しばかり苦笑しながら薄っすらと残る意識をその黒闇に委ねた。
――その時が来るまで我はこの記憶と共に…
◆
以前、私は時折それを夢に見た。それは悪夢というのも生温く思う程の酷く生々しい夢だった。
"饕餮"が今にも喰らおうと口を広げ彼女を見下ろしていた。中国に伝わる五神と対となる四柱の悪神"四凶"が一柱。牛の胴にヒトを模したような顔面、曲がった大角に虎の牙を持った異形の妖。今の私でも敵うことはまるでない最凶災厄の化物であり怪物である。
辺りには人々のもがれた四肢や肉片、鮮血が撒き散らされている。死屍累々たる有様で阿鼻叫喚と化した地獄絵図。そんな莫迦げたように四字熟語を並べてもその様子は想像の遥か斜め上を征くだろう。
片目は大きく負傷しており、既に視えておらず。躰には打撲痕や切り傷が残されている。また、彼女の手には無意識に握っていた無意味な御守が一つ。はっきり言って此処からの生還は微塵も想像が出来なかった。
突如、彼女の慟哭に応えるように激しい炸裂音が辺りを包んだ。饕餮は彼女を喰らおうとした口を閉じ、辺りの警戒に当たる。すると、白髪の淡緑色のジャージを着た男が亀裂模様と水波模様をした二剣を持って正面から対峙してきた。
――干将・莫耶
彼女はその雌雄二振りの武器について少しばかり知識を得ていた。中国における名剣にして呉王の命によって製作された宝剣。神器に等しき神力を持つ宝具。
しかし、何故あの男がそれを保持しているのか、と疑問に思う間に戦闘の火蓋は切って落とされた。
男の陽剣が饕餮の口元に放たれた。しかし、饕餮は自慢の虎の牙で陽剣を受け止める。その隙にと男は陰剣を饕餮に放つが、角に弾かれてしまう。
男は一旦下がると陰剣を饕餮に投擲し、陽剣片手に突撃していく。饕餮は同時に放たれる男の撃を対処出来ずに陽剣の一撃を深く食らった。
すると、饕餮は激しく咆哮し男の聴覚を刺激した。男はその咆哮で鼓膜を損傷したのか大きく重心が振れる。
すかさず饕餮は男の脇腹に噛み付こうとするが、男は陰剣を拾い上げて防いだ。しかし、その衝撃に耐え切れず男は大きく吹き飛ばされる。が、地面に激しく打ち付けられた男は何の躊躇いもなく立ち上がりまた駆ける。
すると、すかさず饕餮は防ごうと角を前に押し出すが、男はそれを無視するように大きく飛び越え饕餮の背後に回った。突然のことに対応し切れず饕餮は少しでも威力を抑えようと身を屈めるが、巨体故に全くの無意味で大きく背中に十字の亀裂を入れられてしまった。
しかし、饕餮は力を振り絞り男に大きく蹴りを入れる。怪我を負ったとは言え巨体故に威力はかなりのもので、木々にぶつかるまで男は吹き飛ばされてしまった。しかし、男は一切の悲鳴も号哭もあげることなく立ち上がる。まるで死そのものに一切の恐怖を感じていないようだった。
その男の様子に気味の悪さを覚えたのか、饕餮は激しい奇声をあげた後に男から全速力で駆けて逃げていった。それを男は一切追い掛けずただ冷徹な視線で追っていた。
やがて男は饕餮が完全に逃げたのを確認すると、彼女の側にやってきて一つの血が入った小瓶を渡してくる。鮮紅色の血液が詰められたこの小瓶で何をするのかと疑問に思っていると、男はそれを呑むような仕草を見せてきた。血液を呑むのかと彼女は男に鋭い視線を向けるが、何も言ってこないどころか鋭い眼力で彼女を威圧し返してきた。仕方無く彼女をその血を呑み干した。
すると、先程までの躰の傷や痛みはすっかり消えて無くなった。しかし、怪我をした右眼は傷自体は治ったもののぼんやりとしか視えなかった。失明しなかったのは不幸中の幸いだが、大怪我であることに間違いは無かった。
『ありがとうございます…助けて頂いたどころか傷まで治して頂いて』
『……嗚呼』
彼の男は多くは語らなかった。だが、彼女は男に酷く憧れを抱いた。それこそ彼女が妖斬りになることを決意した所以である。
それと同時に彼女の明確なる目的が定まった日であることも確かだった。仇を討つ。今もまだ敵うことのない四凶が一柱"饕餮"を討ち取ると。
その瞬間彼女の征く末は確定した。
それから紆余曲折を経て大成したつもりである。彼の男に敵うことは無けれど、今や中級の妖程度なら傷一つ付くことなく倒せる自信だってある。
だが、10年前の奇跡が2度も訪れることは決して無い。次、彼の宿敵と逢うときは死ぬか勝つかの二択しか与えられない。持ち焦がれながら自身を磨く。それが彼女の生き甲斐であった。
◆追伸
――――これは認め綴られた凱歌。しかし凱旋というにもそれは杜撰で叙情的で、決して誰もが有終の美を迎えるそんな夢物語でも無く、言うなれば罪物語。
噺というよりも放し。であり、それは見放された少女の紀行にして物語に過ぎなかった。
そして、僕はそれを痛切に痛絶に噛み締めながら一言。
「――――虚言だよな。本当に」と。
まぁ虚というより迂路なのだが。
そんな妄言にも満たない戯れ言を溢しながら、窓辺に咲く今にも朽ち果てそうな赤芍色の牡丹を見て不覚にも溜息を付くのであった。