雨の日
自称『魅力的で感じがよくて愛らしい』、自分勝手で偏屈クズで煽りカスの少女、ツァラちゃん。 ツァラちゃんの金魚のフン、ルサンちゃん。 二人がトボトボと歩む、別にどーってことない日々を描いただけなのに、ユーモアとエスプリが見え隠れする不思議な小説。
雨の日とは憂鬱な日か?
ならば梅雨の時期とは悲嘆に暮れるための時期か?
「傘の有無だ」
「私は見たことがないね。雨が好きなのって言って、外に出てビシャビシャになりながら走り回っている淑女を」
「結局のところ、人が何かを好く事由には、『但し、それが己に危害を加えてこない限り』と注意書きがあるのだ。雨を好くには傘や屋根が必要なようにね」
「たとえば、人を好く場合も同じだ。人を好くには、条件として相手が騙したり、暴力を振るわないことが必要となる」
「しかし、これは単に"好く"という行為の限界を述べているだけでしかない。決して"愛すること"を貶める文言ではない」
「愛を前にして、騙取や暴力、他に自傷は障害になり得ない。何故なら愛を理由に、言動の全ては肯定されるからだ。同じように、困窮と、それに基づく物乞いもまた、障害になり得ない」
「うん…」
「で?結局何が言いたいの?」
「傘忘れたから貸して」
「それくらいの事、スッと言え」
ため息をついて、ルサンちゃんは予め用意しておいた折り畳み傘を二本、カバンから取り出す。
梅雨の時期に限らず常に持ち歩いている、自分とツァラちゃんの分の折り畳み傘。
二本。日頃から荷物の多いルサンちゃんのカバンの、貴重な容積を随分に占領する、かなりの重荷。
…それらが同じ柄であることに、深い意味が無いわけではないが。
天気予報に無かった、突然の豪雨。
土砂降りの中、下校する。
…深く考えてみると、傘は小雨の時にしか役に立たない。
君にも考えてもみてほしい。
水浸しの地面に対し、傘は無力だ。また、充満する湿気に対しても、傘は無力だ。
たとえ傘を差そうとも、只今のツァラちゃんとルサンちゃんがそうであるように、靴の内側はずぶ濡れの小さな水たまりになる。内側が蒸れるせいで、スクールシャツと肌着、それから下着はうっとおしく肌に張り付く。
そうだろう。思い返してみてほしい。そうであったろう?
濡れないことが売りの傘なのに、こうなってしまっては一体どうしてこれを差しているのか分からなくなる。
思うに、一定以上の降水に対して、傘を差すとは一種の過ちなのだ。
君にも過ちなのだと理解してほしい。
突風が吹いた。
ルサンちゃんの傘は風向きに合わせて姿勢を正された上、使用者に柄をグッと握られていたので問題なかったが、ボケっとしてたツァラちゃんの傘は思いっきりあおられ、風の勢いと彼女の体重とで綱引きされ、裂かれてしまった。
彼方に飛んでいくビニル部分を茫然と見つめながら、骨組みだけを持って突っ立っている彼女。
「…あーあ」
「で、予備の傘は?」
「ないよ!」
怒気が放たれる。
ごめんごめんと、怯んだ様子も無く謝るツァラちゃん。
ルサンちゃんが本気では怒ってないと理解しているからだ。
傘が無いなら、代わりにこれを持ってくれと、ツァラちゃんはルサンちゃんに自分のカバンを渡した。
いつもはスカスカのカバン。しかし今日のものは何やら詰め込まれているようで、重量があった。
加え、カバンから手を離した時点から、傘という概念を忘却したかのように、ビシャビシャになる己なんてものともせずに、雨の中を手ぶらで歩行する彼女の様子。
ルサンちゃんは経験から事情を察した。
「…もしかして、カバンの中身は全部洗濯物?」
「うん」
振り返り、答える。
「濡らしてはいけないよ。中にはキャスケットも入ってるからね。あれは君の次に大事なものだ」
「あぁ、あれね…」
「まぁ…」
「…理由は察してるけど、でもまだ言葉で聞いてないから一応尋ねるけど」
「何で学校に洗濯物を持ってきたの?」
「ふむ、端的に言うとだね」
「洗濯物洗って?あと今日も家に泊めて?」
「うん、やっぱそうだよねぇ…」
ルサンちゃんはツァラちゃんの家を思い出して、返事を始める。
「この時期の共同洗濯機は混むよねぇ」
「そうなんだよ。まったく、ボロ屋の困るところはそこだね。それ以外は別に文句ないんだが」
「でもさ」
共感に基づく同情に制止をかける。
「キャスケットは手洗いだよね?いくらボロボロアパートでも、プライベートの水場はあるよね?ってか台所があるよね?シンクに水溜めたら自分で洗えるよね?」
「それにコインランドリーだってあるよね。いくらツァラちゃんのアホでも、存在くらい知ってるでしょ?」
「ふむ」
「餅は餅屋とは便利な言葉だ。これのお陰で私から殆どの家事をする理由が失せる。違うかい?」
ルサンちゃんは即座に意味を理解する。また、説得が無駄であることを把握する。
「…まぁ」
「ツァラちゃんがテキトーに洗濯して、大事なものをグシャグシャにされるくらいなら、私に一任される方が良いのは確かなんだけどねぇ…」
でもなんか癪に障るなぁ、と一言添えつつも、ルサンちゃんは全てを了解した。
帰宅の間、それ以上のことは何もなかった。
ただただ、ツァラちゃんは全身で振る雨を受け止めていて、ルサンちゃんは出来る限り自分と荷物を濡らさないように傘を差しているだけだった。
雨の日には、その良し悪しに関わらず、知られるべき明確な欠点が存在する。
…雨の日は、人の思考を鈍らす。
理由は種々存在するが、たとえば、濡れたくないと考える無駄な防衛本能や、濡れてしまった衣服や身体から来る余計な不快感なんかが、思考力の相当量を占領するのだ。
そのために、雨の日において、往々にして人は、本来躊躇されるべき行為を容易に行ってしまったり、注意を怠ったり、よくよく考えてみれば行う意味を見出せない行為を何の気なしに行ってしまう。
傘を差す理由だ。濡れてはいけない荷物無く、傘を差す理由はこれに違いない。
同じようだ。ごく自然に。当たり前の内から。ただし、疑わなければ、事後でなければ分からない。思考の、粘土の如き鈍りが故に。
やがて過ちは犯される。
目的の一軒家に着いた。
大きくて、外壁に雨染みとカビが充満している家。屋根が妙に暗く感じて、耐久性に関係なくずり落ちてきそうな不安定さが見受けられる。塀には剥がされた糊の跡が散見される。
ガレージは空。表札は剥がされていて、ポスト口がテープで塞がれている。
玄関門には数本のチェーンが横断している。開錠された南京錠が一つぶら下がっている。
玄関横のバルコニーらしき空間は雑草が生していて、地が隠れている。いくつかの活力あるうっとおしい雑草は掃き出し窓を覆うほどに伸びている。
二人は疑問の一切もなくチェーンをまたいで、几帳面に施錠されている玄関ドアの二重鍵の全てを開け、家に入る。
冷たい廊下と湿った空気。それと玄関ホールに散らばった靴々(パンプスだったり、男性用の革靴だったり、幼児用のシューズだったり、様々なものが散らばっている)が二人を出迎える。
疑問はない。だってここがルサンちゃんの家なのだから。
「ちょっと、靴脱がないで待ってて。今タオル持ってくるから」
ルサンちゃんは靴も靴下も脱いで、フローリング床に足跡を出来る限り付けないように、つま先立ちで歩きながら洗面所に向かう。
…先に軽い忠告をしたはずなのに、当然のようにツァラちゃんも洗面所に付いてきていた。振り返ると、遠慮無用の小さな足跡が玄関からココにかけてベッタリと床にスタンプされていた。
「まぁ良いじゃないか。どうせ廊下は湿っぽいんだ。そこに私の分が加わったって、湿っているという状態に遜色はないだろう?」
「…そういう横柄、私以外にはしたらダメだからね?」
話は聞いていない、と示すように笑うツァラちゃん。
風呂は沸いていないのか?と身に着けている全てを脱ぎ散らかしながらズカズカと浴室に進む。
かごに入れず、掛けもせず、水浸しの衣類の全てが真下に落とされて、洗面所から脱衣所にかけての床にベタッと貼り付いていく。彼女の通った後に小さな水たまりがいくつもできる。
「そういう野放図も!私だから許されてるだけだからね!?」
当然、風呂は沸いていない。
ツァラちゃんは風邪の一つもひかない異様に丈夫な肉体の持ち主だが、だからといって身体を冷やすことはいけない。
湯はり機が浴槽を満たすまでの間はシャワーを浴びて身体を洗っているようにと命じた後、ルサンちゃんは床に落とされた衣服と、ツァラちゃんのカバンの中身、頼まれた洗濯物の処理を始めた。
どれも自分が選んでツァラちゃんにあげたものなので十分に把握していることだが、彼女の持つ衣服の多くは面倒臭い。キャスケットに限らず、出来るならば手洗いをした方が良いものが多く、また、色移りや色落ちのし易いものも多い。
ルサンちゃんは責任者の面持ちで、一つ一つを丁寧に処理していく。時折、ツァラちゃんの手により雑に洗濯された結果、ほつれたり、ひどく色落ちしてしまった洋服を見て、少し悲しくなりながら。
…どれも素敵な服なんだから、大切に扱ってほしいのに。
(いや、実際のところ、これでもまだ、ツァラちゃんにしては相当大事に扱っていることは理解している。ツァラちゃんは一時期、教室で異臭騒ぎを起こしたことがある。あんまり女の子のデリカシーを削ぐことは言うべきでないのだろうが、言うと、彼女はルサンちゃんが指摘するまでずっと、制服の一切も、体操服すら洗わずにいたのだ!…靴下や下着すら洗わずに着まわしていたという事実は余りにも彼女の尊厳を損なう事実なので、黙っておくことにする。)
「ルサンちゃーん、身体洗えたー」
入浴を始めてものの数分で、浴室ドアは勢いよく開いた。
ルサンちゃんは洗濯を進める手を止めて、湯気の一つも立っていないツァラちゃんの姿をジロッと見た。
「…洗えてないでしょ?」
指摘され、たじろぐ彼女。
洗ったという割に、ボディーソープの香りがまるでしない。髪はきしんだまま。ビジネスホテル備え付けのトリートメントを使ったのだとしても、こうはならない。
ルサンちゃんは近づいて、被疑者の腕を掴み、人差し指の腹でごしごしと皮膚を擦ってみた(痛がる彼女は無視して)。すると、摩擦部から消しカスのように細長く丸まった垢がポロポロと出てきた。
「で?これを見てもまだ洗えたって言う?」
「いやでも…風呂のない我が家基準からすれば、一秒でもシャワーを浴びたってだけで十分洗えたって定義できるし…」
「ぜっ、絶対的な定量の換算に従えば…」
「洗えてないよね?」
「…」
「…だって!掃除もそうだけど、洗うって行為に新たな発見はないし!マイナスをゼロにする行為に対して、私の心はあんまりときめかないし…!マイナスって言うのは本人がそう認めるからことマイナスなのであって、特段の判断を下す気のない私にとっては…あの、その…」
「はぁ…もう…」
頻繁に出しているタイプの息を吐き出す。
目の前のアホは一人で風呂に入ることすらマトモに出来ないのかと。
本当なら、ツァラちゃんが十分に湯を堪能している間に、洗濯をちゃっちゃと済ませてしまおうと考えていたのだが。
仕方がないと、計画の変更を決めたルサンちゃんは脱衣を始める。
「ほら、お湯が沸くまでの間に、私が身体洗ってあげるから。シャワーの前に座って、黙って従って」
洗濯の前に、先にツァラちゃんの身体を洗ってしまおう(ついでに自分もサッと身体を洗ってしまい、風呂を済ませようと)。その後、すぐに作業に戻り、ツァラちゃんが湯に浸かっている間に全てを済ませてしまおう、というのが彼女の魂胆だった。
…そう上手くいくことはない。先に作業を邪魔されたように。
考えてみれば、身体を洗い終わり、お湯が沸いたことを見届けて浴室から出ようとするルサンちゃんに対して、一緒に入ろうよと足にしがみついて引き留めるツァラちゃんなんて、想像に難くなかったのだ。
風呂上がり。
マトモに身体を洗えない彼女が、マトモに自身の身体を拭けないことは当然のことで、従って、これもまたルサンちゃんの仕事と化していたのだが。
問題は、施してやっているにも関わらず、ツァラちゃんがまるで大人しくないということ。具体的には、バスタオルが全身をたった一撫でした段階で飽きた彼女が、ルサンちゃんの制止も聞かず、着替えを求めて脱衣所-洗面所から飛び出してしまい、まだ十分に湿り気を持つ身のまま、ワードロープがある二階にまで駆け上がって行ってしまったこと。
雨でビショビショのツァラちゃんに一度ビタビタにされた床は、今度は湯のぬくもりでグッショリと濡らされた。
訂正すると、問題はそこではない。特に、ツァラちゃんをうっかり手元から離してしまった、只今のルサンちゃんにとって。
何も改めてやる必要はない。
触れなければそれで問題がないのだから、そのままで良い。
どれだけの悲惨だって、時がやがて消し去ってくれるのだから、わざわざ起こしてやる必要はないのだ。
階段を上がると、見えるのは上階だというのに広い廊下。
そして、戸が四つ。
戸が半開きの部屋は、ルサンちゃんが最も頻繁に出入りする書斎。勉強部屋として使われている。中には、壁一面の本棚(棚には中学生には難解過ぎる書籍や、紙束、それからフロッピーが入ったケースと数枚のレコード)と、中央奥に木材の重厚感を感じさせるデスクが一つ。こげ茶色と黒で統一されたシックな空間。
もう一つ、戸がしまっていない部屋がある。クイーンサイズのベッドが一つと、手が付けられないほど散らかった収納と、豪華にもウォークインクローゼットがある部屋(半分にはルサンちゃんの服が、もう半分にはそれ以外が掛かっている)。ここはルサンちゃんの寝室。だから、いつも戸は開いている。
戸が閉まっている、残り二つの部屋のうち、一つは物置部屋。使わなくなった家電や家具、本に服に写真と、この家で一番に物の量とバラエティーに溢れている部屋。
用事があるのは最後の部屋。この部屋の戸だけは、常に内側から鍵がかかっている。
部屋のちょうど正面に落ちている十円玉は、たまたまそこにあるわけではない。これは鍵。
ツァラちゃんは慣れた手つきで十円玉の薄さをドアノブに備えられたミゾに当てて、回し、開錠を完了させる(正式名称は知らないが、これは非常用の解錠装置なんだってね?)。
戸を開くと、まず、雨の日なのに密閉されていたために室内にひどく溜まった、くぐもった空気がムワッと飛び出してきて、次に、女の子らしい、パステルな色合いで整えられた可愛らしい部屋が現れた。背の低いシングルベッドと、学習机と、カラーボックス(本棚と図工品のディスプレイ棚を兼業している)。床には丸形の小さいカーペット。壁には世界地図やアルファベット表、元素表や歴史年表なんかも貼ってある。
ワードロープはここにある。成長した少女の身長には狭いであろう小さな背の低いシングルベッドの横にある。
中には、衣服がぐちゃぐちゃに配置されている。ぐちゃぐちゃは、元から乱雑に扱われた所以というより、元々整頓されていたものが誰かに引っ搔き回されたようなぐちゃぐちゃ。
ツァラちゃんは中を適当にまさぐって、パンツとシャツを手に取る。二つとも幼げなデザインで、お洒落を考え出す年頃の子には恥ずかしささえ感じてしまいかねない代物。
「…まぁ、ツァラちゃんのサイズ的にはそっちの方がピッタリなんだろうけどねぇ」
振り返ると、ルサンちゃんがいた。タオルで髪をまとめていて、でも顔は見えなかった。
「…私の普段着でも、ツァラちゃんは大丈夫でしょ?」
「いくらツァラちゃんが私より小柄だとしても。別に、大丈夫でしょ?ってかいつもはそれ着てるじゃない」
「だから」
「わざわざこの部屋に入る必要は無かったのに」
「なんで?」
特に何かを考えている様子もなく、ボケっとルサンちゃんの方を見つめるツァラちゃん。
「まぁ…」
「気分?」
「そう」
ルサンちゃんは手を差し出す。
ツァラちゃんは何も言わずに応えて、手に持っている二つを渡した。
「とりあえず」
「この服は止めておいて」
「小さいし」
「何より、ツァラちゃんには似合わないと思うから」
畳まれることもなくパンツとシャツは仕舞われ、ワードロープは元に戻された。
ルサンちゃんは侵入者の腕を引っ張り、部屋を出る。
ツァラちゃんには異論はなく、抵抗もない。ただ引きずられるだけだった。
戸が閉じたとき、吊り下げられた縄ひもが軽く揺れた。
鍵は再びカチャンと閉まった。
冷蔵庫に豚肉があったので、それを適当に焼こうと思った。
ただ、いざ焼こうとしたとき、ツァラちゃんが唐突に、今日はサッパリしたモノが食べたいと口を挟んできやがったので、既に油を引いていたフライパンを片付けて、豚しゃぶにした。
午後20時過ぎ。
ツァラちゃんは、ルサンちゃんの膝を枕にして、ソファベッドに横たわっていた。
ただし、呻きながら。いっぱい食べるだろうと、とりあえず大量におかずを用意するルサンちゃんの性分に加え、後先考えずにご飯をおかわりするツァラちゃんの性分が合わさったせいで、腹がパンパンになっていたからだ。
対し、腹七部も食べていないルサンちゃん(そもそもあまり食べないことに加えて、自分の分を物足りなそうにするツァラちゃんの皿によそったりするから)は、食後のコーヒーを嗜みながら、教科書を読んでいた。
ツァラちゃんの頭を机にして。時折マーカーを引きながら。日課の通りに今日の復習と明日以降の予習を行っていた(本来の習慣に倣うのなら、只今とは勉強部屋で本格的な学習を行う時間だが、ツァラちゃんがそうはさせないので、諦めて、簡単なことだけども、今に出来る限りのことをしている。)。
除湿運転をするクーラーの風で、ラックに干された洗濯物たちが揺れている。
明日の学校のために、急いで制服を乾燥させるべく回っている洗濯機の振動が、ドア越しに聞こえる。
ツァラちゃんの耳の悪さに合わせて音量調節されたテレビが、大きな音を出して、光っている。
密閉された窓から雨音が、鈍く、小さく響く。
くしゃみをした。
ツァラちゃんはテレビに背を向けて、ちょうど目の前にあるルサンちゃんの腹に顔をうずめた。
「…君は不健康が趣味なのかい?」
呻きとくぐもりのある声で問いかける。
「眠くなるから、腹一杯に食事をしない。そしてコーヒーを飲む、夜なのに」
「その上で、これら不健康が更なる不健康のための準備ときた。信じられないよ」
「知らないなら教えてあげるがね、夜に頭を働かせることは不健康の極みなのだよ?」
腹に向けて発されたツァラちゃんの声が、太鼓のように響く。
ルサンちゃんは特に意味もなく、批判者の肩に軽くチョップをして言う。
「別にいいの」
「私はツァラちゃんとは随分違うからね。悪い意味で」
「まぁ…」
「もし、私がツァラちゃんみたいに無責任な快楽主義者に成れたなら、その意見にも大幅に賛成出来たんだろうね」
膝の上にある頭がピクッと反応する。
「…快楽主義者だと?」
答える。
「うん。そんでもって偏屈なクズ」
膝元の小動物がガバッと起き上がる。
ただ、ちょうどマーカーを引いている途中に、教科書を押しのけるように起き上がってしまったために、彼女の頬に蛍光色の線が一本、ピッと横断してしまった。
…いや、そんなことは只今の彼女にとって些細で、彼女は一刻も早く、訂正させるべき点を指摘したかった。たとえば事故が、頬にマーカー一本ではなくて、日本刀が一本で、頬は切り裂かれてしまったのだとしても、それはやはり些細で、指摘は至って先決の事項のままであった。
「快楽主義者!?私が快楽主義者だと!?まさか!!!」
突然の大声に慄く。
しかし、興奮しながら、彼女は続ける。
「君の誤解は、傾倒への信仰にある!人は喜びや楽しみの奴隷であってはならない。それは苦しみや悲しみの奴隷であることと同じくらい不健康だ!また、人は怠惰を渇望してはならない。それは労働を渇望することと同じくらい不格好だ!」
ここまでムキなツァラちゃんは珍しい。
滅多に見られないものを前に、流石のルサンちゃんも気圧され、茫然とする。
「では私はどうしているか?単純だ。心のままにあるのさ!私において、それが心のままでないのなら、快楽や苦しみは無価値であり、怠惰の時間も労働の時間も等しく無意味なのだよ!」
「…分かるか!?」
息切れをしている。
ルサンちゃんにとって彼女の躍起を目撃することが珍しいように、ツァラちゃん自身にとっても己の身体が躍起する様子とは珍しくて、久しぶりであった。
そのために、慣れないことをしたために、身体に変な力が入ってしまい、ドッと疲れてしまったのだ。
…。
一息と共に脱力を始める。ソファベッドの周りをウロウロ歩くことで、筋肉の歪んだ硬直を取り外していく。
キッチンに向かい、カモミールティーを一杯、(家主の許諾なく勝手に)入れて、止めとしてそれを飲む。
そして再び、ルサンちゃんの膝に戻る。寝転ぶでなく、今度は座って、彼女の上半身を背もたれにする。
「うん…」
「ごめん、つい興奮しちゃった」
ツァラちゃんは真横にある頭に語りかける。
「しかしね、重要なことなのだよ。これは」
「…」
「不思議なことだがね、心のままにあろうとするとき、人は楽しもうとしてはならないのだよ。また、苦しもうとしてもならない。矛盾するようだろう?でも、これが肝要なんだ」
「真に純粋で、価値があり意味のある感情とは己が在るがままにあるときのみに現れるのだから…」
「楽しもうとしたとき、苦しもうとしたとき、そのときに生まれる感情とはおしなべて人工的でね。…人工的な喜びや悲しみに流されてはならないんだよ。それは確かに君に快楽をもたらすものだが、ジャンクフードのように後で君を蝕むものだ。不純で、価値がなく意味のない感情は、必ず君にツケを支払わせる。それは感傷を超えた真の苦しみさ」
「だからこそ、"分別の良さ"が大事で、エスプリを決して離してはならないのはこのためだ。たとえばヘロインに酔っているときや、人を殺してしまったときであってもね、君は至って"真面目"でなければならないのだよ」
「だからね、君も私も、決して稚拙な快楽主義者ではないのだよ。心地良さ、つまりは"真面目さ"の証左はそうしなければ生まれないのだよ。それこそが己が在るがままなのだよ」
「わかった?」
頭をくっつけて尋ねる。
ただ、二人では座高に差があるので、様子は、ツァラちゃんの頭頂部がルサンちゃんの頬に押し付けられている風だった。
「…」
「あぁ…」
コーヒーを一口含んで答える。
「いや、全く」
不満そうにしているツァラちゃんには、とりあえずアイスクリームを渡すことにした。
アホは、叫んで腹が減っていたんだと、喜んでムシャムシャしていた。
カップを四つも平らげていた。
これで良い、という訳では無いのだろうけども、とりあえずはこれでよかったと思うことにした。
確認した。ツァラちゃんが歯を磨いたことをしっかり見届けた。
最後に、もう歯を磨いたんだからジュースとか飲んじゃダメだよと釘を差して、ルサンちゃんはリビングを後にしようとしていた。
「…手を離してくれる?」
立ち去れないのは、ツァラちゃんが足を掴んでいたから。
「やだー…」
午後23時。ツァラちゃんの活動限界時刻はいつも大体23時前。なので、只今に彼女の瞼が落ちかけていることは、至極当然であった。
「ルサンちゃんも寝ろ…ぉ」
力尽きて、床に倒れてしまっているにも関わらず、頑張って腕に力を入れているツァラちゃん。
話をするために、ルサンちゃんはしゃがんで、目線を彼女に近づける。
「…私は今から、さっきの時間に出来なかった分の用事を済ませなきゃダメだから。ね?」
「だから…ツァラちゃんはもう寝て?」
頭を撫でながら、優しく話しかける。
「やだ…」
「胆力は羽の生えた馬のように神秘的に見えるもの…。でも、よく考えてみると、馬に羽が必要ないように、実際の役には立たないもの…」
「そして努力は…………」
「………」
…
しばらく撫でていた。
完全に電池が切れてしまったようだ。
ルサンちゃんは柔らかい手で、足を掴むツァラちゃんの手を解き、彼女の軽い体重を持ち上げ、ソファベッドに静かに寝かせた。
エアコンを除湿から弱い冷房に切り替えて、タイマーをセットする。
寝相が悪い彼女にはおおよそ意味のないタオルケットをかける。
顔を眺めた。もうよだれを垂らしていた。指で拭って、反対側の手で、もう一度頭を撫でた。
あの後、洗ってみたけど取れなかったマーカーの線を残したままの寝顔。
ふと微笑んで、その場を後にした。
午前2時。
やるべきことの大体が終わった。
背伸びをした後、筆記用具を片付け、教科書や参考書を仕舞い、消しカスや紙片をごみ箱に捨て、デスクの上を綺麗に正した。
まだ眠くない。
というより、ルサンちゃんがルサンちゃんであってからというもの、眠くなったことがない。
常に何かをしていなければならない気がして、眠れない。
マホガニーの椅子に座って、肘を置いて、足で座面を左右に揺らしながら、惚けていた。
ふと思い出した。
中学入学当初、レクリエーションか何かの一環で、クラス全員の似顔絵を教室の後ろに貼って飾ろうというしょうもない企画が立ち上がった。
皆、宿題として描いてきた自分の似顔絵を持ち寄った。
もちろん、ルサンちゃんも持ってきた。自分で描いてきたものを。
ただ、その時、ルサンちゃんの似顔絵を見た先生が、これじゃ足りないだろう?と、ペンで似顔絵の目元を黒く塗りつぶしてみせた。
…。
手が加えられた後、こっちの方が良いよな?と先生は皆に似顔絵を見せて回った。
皆、確かにこっちの方がしっくりくるかも!と笑った。
「…」
ルサンちゃん自身も、茫然としながらも、そうだと腑に落ちてしまっていた。
唐突なことで、驚くことで、腹の立つことで、嫌なことで、悲しいことだけれども。
不良がある自分に慣れていたのだと思う。
「あ…」
「そういや…」
あの時だっけか。
あの時、ツァラちゃんだけが、余計なことをするなと怒鳴っていた。
怒って、先生から似顔絵を強引にひったくって、加筆された部分をなんとか消そうと必死になって、消しゴムで擦ったり、袖の端で拭いたりしていた。
そんな彼女を見て、先生と、クラスの多くは引いた様子だった。
私は止めるようにも、手伝うこともできずにいた。
ただ、息を吸って、吐いていた。
その時もやはり、何も分からなかったから。
涙の一つでもこぼれてくれたなら、どれだけ楽だっただろう。
立ち上がり、勉強部屋を後にした。
階段を下りたくなった。
水を一杯飲んで、ソファベッドの方を一瞥した。
クーラーは動きを止めている。
…リビングは暗がりで、ツァラちゃんの顔はよく見えなかった。
もう一杯飲んだ。
飲み干した後も、少しだけ立ち止まっていた。
どうしてか、彼女に近づくことはおろか、暗闇に目を凝らして、彼女の顔を発見することすら野暮な気がして、結局何も無いままに場を後にした。
洗面所で歯を磨いて、トイレを済ませて、ベッドに潜った。
まだ眠くない。
ベッドに入れば自動的に眠たくなる人間、ツァラちゃんのような人間を羨ましく思う。
寝室に目覚まし時計は無い。ただ、壁面に一つ、電池交換がされていないために動いていない壁掛け時計があるだけ。
寝られないから、遅刻のしようがない。だから無くてもいい。
馬鹿みたいに同じ時刻だけを差し続けている時計の針を眺めていた。
「…努力は」
ツァラちゃんが眠りこける直前に言いかけた言葉。
それは今までに何度か聞いたことのある常套句のようなものであったために、ルサンちゃんは続きを覚えていた。
「…すべての努力は英雄的で、私論によれば、あらゆる努力は外的成果を生まなくても、必ず内的変化になる…」
「…ただし、この世に良い変化なんてものは存在しない。悪い変化がないように。なぜなら全ては…」
普段、適当に流しているツァラちゃんの言葉の内、いくつかはどうしても心に針を刺し、引っかかって取れないことがある。
夜更かしをしての自習と同じ、習慣。
ベッドに入ると、必ずそれら言葉を反芻しながら、しかし意味を深く読み解くことはなく、ボーッとすることが、ルサンちゃんのいつもの通りだった。
「…はぁ」
横向いた。
「私って、やっぱり間違ってるのかな…」
「…」
「どうだろうね…?」
返ってくるはずのない独り言への返事主はツァラちゃんだった。
「ツァラちゃん…!?」
気がついたら横にいた彼女に、流石に驚きの声が漏れた。
見ると、まだ眠たい様子で、目を細め、口をもごもごと動かしていて、頭を搔いていた。
「…物音で目が覚めちゃった?」
「…覚めてない」
寝言のような、夢のような儚さを持った声で答える彼女。
静かに。
彼女は、芋虫のようにモソモソとベッドの中をのたくって、唐突なことにたじろぐルサンちゃんに近づいて、ゆっくりと、谷のせせらぎが岩肌を優しく撫でるように、抱きしめた。
大切な人。
小柄な彼女なので、包むというより、引っ付くような懐抱だった。
胸に顔をうずめる彼女に、ルサンちゃんは鳴る心臓と共に目を丸くしていた。
触れ合ったことに驚いているわけではない。
理解してしまいそうだったからだ。
しかし何を?
「…」
「起きてるの…?」
「起きてない…」
「…」
「…ねぇ」
「ツァラちゃんにとって…心地良さって、何…?」
「…」
ツァラちゃんの抱き着く力が強まった。
「知らない…」
「そう…」
ルサンちゃんは抵抗していなかった。
だから、力に引き寄せられたルサンちゃんは、より深く、温かく、ツァラちゃんと密着する様子になっていた。
ふくらはぎに、ツァラちゃんの小さな足が引っ付いた。
ツァラちゃんは意図的に引っ付こうとしていた。
足とふくらはぎから、ふくらはぎとふくらはぎに。そして、太ももと太ももが引っ付く。
冷たい感触は、やがて同じ体温に混ざる。
「…眠りというのは」
「足からやってくるんだよ…」
「…」
「どういう意味…?」
「…」
「知らない…」
「何だっけか…」
「………」
口が動かなくなった。
…。
「あ…」
「寝ちゃった…?」
何も反応も返ってこない。
聞こえるのは、ただ寝息だけ。
どうしてか。
心が穏やかになろうとしていた。
満たされる、という意味を理解できそうな気がした。
これで良い、と思えそうだった。
ただ、一つだけ、自分にはまだ足りない気がした。
「ねぇ…」
「少しだけ、ギュッとしてもいい…?」
もちろん、返事は無い。
…。
躊躇しようとする腕は少し震えている。
それでも、なんとか伸ばして、ツァラちゃんの背と後頭部に回した。起こさないように、慎重に。
やがて震えは止まった。
静かで、静かで、とても落ち着く。
…心地良い。
止まった時計の針は、やがて霞んで見え、遂に視界から姿を消した。
音はただ、二人分の寝息と、更に重みを増して振り続ける、炸裂するような雨のしぶきだけだった。
雨の日に過ちは犯される。
ただし、どのような過ちが注目されたり、反省されたり、後悔されたりするものかは、個々人の自由であり、また、そうであるべきであろう。
だから、これに基づいて、目を覚ましたツァラちゃんは、柄にもなく自分を抱きしめて熟睡しているルサンちゃんに注目して、凄く嬉しそうにしていたし。
対してルサンちゃんは、目覚めた瞬間に、この部屋には目覚まし時計が無いことを思い出し、飛び起き、腕の中のツァラちゃんを放り投げて、急いで慌て、冷や汗をかきながら勉強部屋の置時計で時間を確認し、午前11時を過ぎている事実を知ったならば酷く反省して、泣きそうになっていた。
寝坊した。遅刻した。
二人してこっぴどく怒られた。
ただ、後悔は無かった。
…今回に限っては。
何故なら、目の下の隈は無くなっていたからだ。
良くはないが、これも良いと思えたからだ。