38
ヒラエスは薬師としてあちこちを転々としていた。
余所者でも受け入れてくれる居場所は限られている。自然と父は歓楽街の薬師として働くようになった。若い男の姿をしていると面倒が起きるので、若い男以外の、くたびれた姿に変えるようにした。
半端な神の番になってから性欲はすっかり消え失せていた。
――神の寵愛が、全ての欲望を消し去るほどにえげつなかったから。
だからヒラエスはどんな街でも色恋に流されずうまくやれた。
ヒラエスも一生うまくやれると思っていた。一人の女性と出会うまでは。
「……運命だったんだ。そうとしか言えない。俺はあの人を愛した」
「それが……母さんだったの?」
父は顔をあげ、あたしを見て頷く。
「強い人だった。……苦労が祟って病弱だったのに、うちに薬を買いにくるたびに、明るく振る舞うその笑顔に惹かれてさ。生まれて初めて、『この人を、ずっと幸せにしたい』と思ったんだ」
父は娘に真正面から惚気をして、そして照れくさそうに頬をかく。
「それまで数百年以上生きてきたのに、なぜだろうな、彼女が初めてだったな。あんなに強烈に、好きだと思った相手は」
「共感するぞ、義父上」
ずっと黙っていた神様が頷く。
「俺もシャーレーンと出会い、恋を知った時は衝撃を受けた。このような強い感情があるのかと。神だろうが人間だろうが、恋には弱い」
真顔で恋、と口にする神様。
あたしはどんな顔をすればいいのかわからない。
父は母を思い出し、しばらくうっとりとした顔をしていたが、すぐに表情を暗くする。
「俺は彼女の借金を全て返した。残りの年季の二倍、娼館の常備薬を無料にするといえば喜んで店主は彼女を解放してくれた。……最初は、ただ彼女を解放できればいいと思っていた。けれど彼女は俺のところに来てくれた。自由になったら、一緒にいたいと思っていたと――告白してくれた」
父の初恋が実った瞬間だった。
父は母と喜んで結婚した。
二人で小さな結婚式を挙げ、仲睦まじく暮らし、すぐに娘のシャーレーンが生まれた。
ささやかで幸せな日々だった。
けれど。
「俺がいくら薬師といえど……妻を完全に治すことはできなかった」
半端に神に力を与えられただけの身では、神様のような力を発揮することはできない。
蘇らせることもできなかった。
「俺は絶望した。どんなに長く生きても中途半端だ。妻を救うことすらできない」
父と娘の二人暮らしの時間も、そう長くは続かなかった。
――あたしが、聖女だとバレてしまったから。
「……俺は、その時絶望したんだ」
父は髪をかきむしる。
「俺が人間でも神でもない、半端な存在だったから……娘まで、人とは違う力を持って生まれさせてしまった。人と違う能力があっても、目立つだけだ。不幸にしてしまうと思った」
「父さん……」
「案の定、教会に目をつけられた。その時は後悔した。お前と一緒に逃げていればと思った。……子持ちがいかに身軽に動けないのか、あの時初めて知ったよ。……はは、男一人では何百年も流れてきたのにな。歓楽街から出ることすら、できなかった……」
そして父は語る。あたしと別れてからの日々を。
あたしを教会に奪われた当初は、父はあたしをすぐに取り返すつもりだったらしい。
店を燃やし、己の死を偽装して歓楽街を出た。
男一人ならば姿を消すことなど、容易かった。慣れたことだった。
父は中枢領域の教会大本山に潜入した。
潜入もまた、父にとっては簡単だった。神官の服を奪い、聖女として修行するあたしの下へと向かった。
「驚いたんだ。……お前は、とても綺麗になっていた」
毎日清潔な服を整え、ストレートに変えた髪を靡かせ、「異世界から訪れた聖女」として祭り上げられるようになったあたしの姿は実父から見ても遠く神々しいものに見えたという。
「言葉遣いを改め、聖女としてマナーを叩き込まれ、学業を収めるお前は……美しかった。そして悟った。今ここで娘を攫っても、同じ教育も生活も与えられない。娘の行く末は場末の薬師か、もしくは娼婦だと」
「だから……もしかして……」
「ああ。俺はシャーレーンを諦め、中枢領域を後にした」
「そんなこと言わないでよ……!」
あたしは思わず口を挟む。
「あたし、父さんと一緒にいたかった。攫ってくれればよかったのに。……そんな、引け目に感じることなんて」
「駄目だ。今でもお前を聖女にしたのは後悔していない」
父は苦笑いし、続けた。
「今のお前が薬師の資格を取れたのも、ロバートソン商会長との繋がりを得られたのも、王侯貴族相手の世渡りも、全部筆頭聖女としての日々が作ったものだろう。……お前が危害を加えられたこと以外、俺は後悔していない。俺といては、お前は破滅していた」
「そんな……」
父になんだか突き放されたような気がして、あたしはぎゅっと拳を握る。
慰めるように神様が後ろから、手を重ねてくれた。
父の話は続く。
それから父は王都を離れ、遠い田舎で薬師として暮らすようになったという。
「教会の勢力争いの影響で、聖女が足りない土地で人々が困っていたからな。……シャーレーンが筆頭聖女として頑張っているのは、遠い土地にも聞こえていたよ。誇らしかった。シャーレーンが生きているのなら、俺も幸せだと思っていた」
父はふと、あたしをじっと見た。
そして真面目な顔をしてあたしの手を取り、いたわるように撫でた。
「……そして、お前が殺されたと風の噂で聞いた」
「父さん……」
「そのうち、各地で異常な事態が起きた。土地神カヤの加護が切れたと噂が広まった。お前以外の聖女、ルルミヤが奇跡を起こした。王都の危機に――龍神様が現れた。呆然としていたよ。……その時、俺の娘は、本当に神の妻になったのだと……番になったのだと確信した」
「だから……見に来たの? あたしの店、『ヒラエス』を……」
「この名はこの大陸由来の名前じゃない。そこの同郷――少年も知らないだろう。今を生きる人間にとっては古代語だ」
父は『ヒラエス』で働くシャルテを見つけた。
幼い頃生き別れた頃にそっくりな姿で働くあたしに、父は確信した。
シャーレーンがシャルテで、夫は神様であることを。
「あのリース、すぐにわかったよ」
「バレないつもりだったんだけどな」
父は苦笑いする。
「名乗り出るつもりはなかったんだ。ただ……おめでとうを言いたかった」
「名乗り出てよ。今だって逃げてさ」
「お前に会う資格はないと思ったんだ。……お前が死んだと聞いた時、俺がどう思ったと思う?」
「どういう……こと?」
父は空虚な眼差しで、あたしを見て言った。
「たったほんの少しでも、羨ましいと思ったんだ。お前が死ねたことが」
「っ……!」
「……ああ、お前はただの人間だったのだと。聖女でありながらも、俺と同じ紛い物ではなかったのだと」
「……父さんは、死ねないんだよな?」
「ああ。何をされても死ねない。すぐに体が戻る。痛みも恐怖もそのままに、体は回復し、命だけが続く」
あたしは父の手を握った。父が目を見開く。
「それならそう思って当然だろ。あたしだって二度とあんなことごめんだ。それなのに、父さんは何度も苦しんできたのなら、そりゃ死ねてよかったなって思っても仕方ないよ。それであたしが幻滅すると思ったのか」
「シャーレーン」
「……信じてよ、娘を」
「……優しいな、お前は」
父は苦笑した。
「だがそう思ってしまった俺は父親失格だ。だから二度と会えないと思った。会ってはならないと思った」
そこで、ずっと黙って話を聞いていたロバートソン商会長が口を開いた。
「さて、これからのことですがヒラエスさん。よかったらしばらく、我が邸宅の客人になりませんか? シャルテちゃんことシャーレーン様と何の隠し事もなく話せる場所が、あなたには必要でしょう。ここなら俺もラナも事情を知っている」
「しかし……」
ロバートソンさんは、逃がさないと言わんばかりの笑顔で言った。
「あなたには俺も聞きたいことがたくさんあるんです。……命の恩人であるあなたにね」




