22
先代の下で新人として働いていたアラスター・ロバートソンはまだ独身の若者だった。
そういう身分の商人が最も入りやすい場所がある。歓楽街だ。
息子とはいえ甘やかさない父親の下で、必死だった。
「俺に見どころがなけりゃ、親父は他の社員に店を継がせるだろう。プライベートでは優しい親父だったが、仕事の上では冷徹な人だった。だから俺も必死にやったさ。二代目のボンボンとして舐められないためにな」
その頃のアラスター青年は、歓楽街に新たな販路を見出し、装飾品や珍しい家具を売りつける商売をしていた。若くて未熟だった彼は痛い目を見ることも多かったが、ここでの仕事は刺激的で楽しかった。
歓楽街は欲望の街だ。
どんなに寂れた場末に見えても商品は売れる。
毒々しい色合いの絨毯。覗き見ができるマジックミラー。
肌も露わなネグリジェ。
女たちの化粧品、男たちの精力剤。
魔窟だった。
歓楽街に泊まり込みつつ、昼夜を問わず商売に明け暮れていたある日の話だ。
飲み屋で情報収集をする中で、ちょっとした話題を耳にした。
歓楽街の片隅に、異常に効き目の良い薬を出す薬師がいるという話だった。
酔っ払った客たちと下世話な店主は口々に語る。
「医者も匙を投げたイチモツでも、薬を少し飲めば若い頃の元気さを取り戻せんだ」
「でも精力剤は効果があってもバカ高くてな。代わりに性病の薬やら、女たちの薬やらは赤字になりそうな金額で配る」
「薬を受け取らせる代わりに口うるさいんだ。やれ運動しろだの、食事に気を遣えだの、酒で壊れた内臓は元には戻らねえんだぞ、だの。母ちゃんかよ」
「とにかく気難しい変わりもんだ」
彼らは皆、その男が流れ者ということしか知らなかった。
口を揃えて言うのは、目が覚めるほど美形だという話だ。
「無精髭で小汚くしているが、あれは随分な色男だね」
「元々男娼でもしてたんじゃねえか? あの気遣いを見るに」
「だがそんな生まれで薬師なんてなれるか? 随分と若い男だぞ。まだ三十にも満たない」
「だが薬師様のくせに口は悪いじゃねえか。どこのチンピラかと思うぜ」
彼らの話を聞くうちにアラスター青年はまさか、という気持ちが湧き上がってきた。
子供の頃に助けてくれたあのヒラエスという男。
あの男もちょうど全く同じ特徴を持つ男だった。
しかし、とも思う――自分が子供の頃にあの年齢だったのだから、今では四十か五十近い年齢ではないのかと。
興味を持ったなら行動するしかない。アラスター青年は早速噂の薬師の下へと向かった。夜の闇に浮かび上がる、小汚い小さな薬屋。そこには整然と乾燥した薬草瓶が並んでいて、建物のボロさからは意外なほど、とても清潔な空間だった。
奥に一人、男がいる。
男は咥え煙草をしたまま、真剣な顔で薬草の調合をしていた――
「ヒラエスさん……?」
アラスター青年は、その横顔に話しかけた。
男はこちらを見た。そして、彼は眉を下げて苦笑いに近い顔をした。
「立派になったな、坊主。……俺のこと、覚えてるんだろ?」
その若さも口調も、以前出会ったままのヒラエスだった。
ヒラエスは誤魔化すことをせず、アラスター青年を店に招き入れ椅子を渡した。
淹れてくれたハーブティは、懐かしいあの夜の薬湯と同じ味がした。
「あなたは何者なんですか?」
「俺は流しの薬師だ。ただそれだけだよ」
「あなたのことを覚えている人はほとんどいません。あの時あなたが助けた父も、女性も、みんなすっぽりとあなただけを忘れています。どうして」
「……そうでもしねえと、生きられねえんだよ」
「じゃあなぜ、俺の記憶は消さなかったんですか」
ヒラエスは少し視線を彷徨わせると――咥えた煙草を吸い、深く息を吐く。
手元を眺めるようで、どこか遠くを見つめるその眼差しに、アラスター青年はぞくりとした。数百年前から磨き上げ続けられてきてアンティークに触れる時の、途方もないものと向き合っている時の感覚に似ている。
目の前の男はそういう男なのだと、常識や理屈よりも明確に理解した瞬間だった。
「サンタクロースって知っているか?」
「サン……何ですか、それ」
「どこか遠い世界で、子供にプレゼントを配るおっさんのことだ。いい子にして眠っていると、朝起きた時に枕元にプレゼントがある、ってな。……それは子供が寝ている間に、『サンタクロース』に扮した親だの保護者だのがプレゼントをよこす風習だ。だが子供たちはサンタクロースを信じている。いずれ醒める夢だとしても、彼らの中ではサンタクロースは真実だ」
「……それが、あなたとどんな関係が」
「俺もサンタクロースみたいに、子供の夢の中にくらい存在したかった。それだけだ」
「ヒラエスさん……」
「俺のような奴は、当然おかしいだろ? 覚えられてちゃあ生きていけない。これまでの人生で捕らえられたことも悪魔として拷問されたことも、ひどい思いだっていくらでもしてきた。人間の中で生きるのは嫌だと思うことは山ほどあったさ……でも、俺は……人間なんだ。嫌でも、な」
人間の理から外れた存在。それでも彼は人間だった。
だから人間社会にしがみつきながら、生きていくために人々の記憶を消した。
けれど、それだけでは寂しい――だから、時々子供の記憶は消さないでいた。
「俺は誰にも言いません。どうか俺から、ヒラエスさんの記憶を消さないでください」
アラスター青年は必死に訴えた。
「もう二度とここには来ません。……迷惑になりたくないので。でも」
ハッと思い出し、ジャケットから名刺を取り出して彼に渡した。
「ロバートソン商会がある限り、あなたが困っている時は力になります。俺が死んだ後でも、必ず『ヒラエス』には礼を尽くすように伝えていきます」
「……坊主……」
「俺が嫌なんです。大切な命の恩人が、ひとりぼっちの幻覚の中の人でいるのは」
「ありがとうな」
ヒラエスは優しく笑う。
その笑顔にアラスター青年は感じた。
この人はきっと同じような熱を、自分以外からも向けられたことがあるはずだと。
それでもアラスター・ロバートソンは特別でいたかった。恩人に忘れられ、切り捨てられる大人になりたくなかった。
「……では、俺は行きます。お茶ご馳走様でした」
アラスター青年は立ち上がった。
その時、店の奥から足音が聞こえてきた。
視線を向けると、そこにはヒラエスによく似た金髪の少女がいた。
「おい、シャーレーン。寝てろって言っただろ」
「のど渇いた……」
「そうか。ほら、これを飲んで寝なさい」
「はあい」
ピッチャーからお茶を汲んでもらい、少女は両手でカップを受け取るとくぴくぴと飲む。あどけない少女は自分を見て、「いらっしゃいませ」と寝ぼけ顔で微笑んだ。目が覚めるような美少女だった。
「その子は……」
アラスター青年が尋ねると、ヒラエスは頬をかいて照れ笑いする。
「俺の娘だ。普通の人間。……そうだ、もし何かあったら、こいつのことを頼むよ」
「もちろんです。その時は遠慮なく頼ってください」
アラスター青年は強く頷いた。ようやくヒラエスにとって、十把一絡げの大人ではない存在になる方法が見つかった。
ヒラエスはその時、素直な微笑みを見せた。
「笑っちゃうよな。人生で初めての娘なんだ。可愛いもんだよ」
――その表情は、悠久の時を生きる謎の存在のそれではなく。
本当にただの、ごく普通の父親らしい顔で。
アラスター青年はなぜだか胸が苦しくなった。この人を守りたい、と思った。
彼女に何かあった時、俺は後ろ盾になろう。……そう、誓った夜だった。
そして。
アラスター・ロバートソン商会長は、懐かしむように天井を見た。
「……その後、筆頭聖女シャーレーン・ヒラエス様を見た時驚いたよ。あの時の少女じゃないかってね。その後ヒラエスさんの店舗にも急いで足を運んだ。けれど」
いなかった。
言葉の続きを聞かずとも、シャーレーンは知っている。




