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アラスター・ロバートソン商会長が幼い頃。
先代である父が経営する商会は、まだ親方から独立したてで不安定な状況だった。
アラスター少年は学校に行く時間よりも家業の手伝いをしている時間が長く、足りない従業員の代わりに十歳にも満たない頃からあちこちに出て働いていた。
しかしそれは、幼い子供には無理な仕事量だった。
アラスター少年は寒い冬の日、マケイドから遠く離れた行商先の宿で高熱を出して倒れてしまう。
宿屋は熱病の子供がいると迷惑だと宿を追い出した。
熱で意識を失った息子を抱えて、先代は幌馬車の荷台で途方に暮れていた。
このままでは倅を死なせてしまう。自分に力がないばかりに。
寒さと疲れで先代さえも熱を出してぐったりとして意識を飛ばしかけていたその時、明るいランタンの灯りが二人を照らした。
幌馬車を覗き込んだある男が、先代の頬を叩いて怒鳴りつけた。
「馬鹿野郎! 親父が諦めてどうする! いいから早く、あんたらはこっちに来い!」
ふらふらになりながら無我夢中でその怒鳴る男についていくと、男はとある娼館の二階に二人を突っ込んだ。周りからはあられもない声が聞こえる。ベッドはピンク色だ。
「悪いな、ここしかねえんだ。風呂は沸かしてるからさっさと入れ。体を温めなきゃ何も始まらねえからな」
男は訛りの強い荒っぽい口調でそう言うと、部屋の隅に備え付けられた浴室のバスタブに二人を放り込んだ。温かな湯に親子で浸かり、先代は自然と涙があふれたという。
男は時々部屋をノックする女だの男だのに対応しながら、何かしらを渡したり説教したり忙しそうだった。
湯に浸かってぼーっとしているところに、男は薬湯を持ってきた。
「苦いやつが親父のあんた用。甘草で甘くした方を倅さんに飲ませてやれ。ストローで、ゆっくり飲むんだぞ」
薬は見たこともない、嗅いだこともない不思議なものだった。
強いて似ているものを挙げるとすれば、ハーブティだろうか。
先代は突然の親切にただただ困惑した。
明らかにカタギではないその風貌とその態度に、今後礼を求められるのではと危惧したのだ。
躊躇先代に対し、男は「いいから迷うな」とがなった。
「薬代も宿代も気にするな、気にするようなら最初から拾ってねえよ」
先代はついに薬を受け取った。
風呂の中で意識を取り戻した息子アラスターは、薬の甘さを今でも覚えている。
「優しい味がしたんだ。心からホッとした。嬉しかった。……何より父の見せた安堵の表情が、子供の俺にとっても救いだったんだ。親父が自分を思って酷い顔をしているのなんて、やっぱり辛いものだからな」
その後、薬を飲んで内臓から温まり、風呂を上がってベッドに親子で横たわると、疲れと安堵で熟睡してしまった。
三日後、目を覚ました二人はすっかり熱が落ち着いていた。
むしろ熱を出す前より元気になったくらいだった。
「お、元気になったな」
部屋にやってきたひよこ色の髪の男は、親子を見てにかっと明るく笑った。
「腹、減ってるだろ。食えないものはあるか?」
「……特にない。息子もだ」
先代の言葉を聞いて頷くと、彼は食堂から親子の飯を持ってきた。
男は、親子の前で一口も食事を口にしなかった。
ただ、親子が空腹のままにがつがつと食事を胃に収めるのを、「落ち着いて食えよ」と言いながら眺めていただけだという。
――薬を飲んで休息を取り、食事をして。
親子はすっかり元気になった。
旅支度を整えて二人は娼館の主にも男にも、何度も頭を下げた。
男はこういう人助けをよくやるようで、娼館主は「いつものことさ」と礼をさらりと流した。
口ぶりから、男が娼館主に何らかの謝礼をすることで黙認されているようだった。
娼館主に礼をしたのち、先代は改めて男に深く頭を下げ礼をした。
名を聞き、改めて訪れて、この夜の礼をしたいと告げた。
彼は笑って答えた。
「俺はヒラエス。流しの薬師だ。直接俺に対する礼はいらねえ。ただちょっと、引き取って欲しい女がいるんだ。ここで茶を挽いてる暇になった娼婦でね、計算や読み書きはできるし働き者だ。娼館では年嵩とはいえ一般社会ではまだ十分若い女だ。どうかあんたのところで働かせてやって欲しいんだ」
突然の申し出に困惑したが、先代は恩を込めて娼婦を引き受けた。
身請け金すら必要のないほど歳を重ねた女は泣いて感謝をし、今でもロバートソン商会長の店で働いて幸福に暮らしていると言う。
――ここまで、ロバートソン商会長は一息に話した。
煙草の火はすでに消えている。
「……けれど、その女性社員はいつしかヒラエスさんのことを忘れていた」
「娼館時代のことを思い出したくない、とかじゃなくて……?」
「娼館時代の話をする時でも、なぜか流しの薬師、ヒラエスの話は出なかった。俺は子供心に不思議だった。あれだけ恩がある人のことを、大人はこうも簡単に忘れるのかなって。薄情なことはしたくない、って」
「……」
「でも、忘れるのは女性社員だけじゃなかったんだ。みんななんだ」
煙草を見つめながらロバートソン商会長は呟く。
「ヒラエスさんのことは、なぜかみんなどんどん忘れていくんだ。父も死ぬ間際にはすっかり忘れていた。熱病で死にかけたことは覚えていても、ヒラエスさんのことだけ、ぽっかりと切り取ったように。おかしいだろ? それでも俺だけがなぜか覚えていた。なぜだろうと思っていたけれど……きっと子供だったからだろうな。ヒラエスさんも俺から記憶を消さなかったんだろう。俺はそう思うようになった」
そして、ロバートソン商会長の話は続いた。
命を助けられた日から、数十年後。今から遡るとちょうど、十年ほど前の話だ。




