この世の真理
宰相補として働くオレファンの朝は早い。
毎朝出仕する前に、家に直接届いた各地からの陳情の精査や王都の西に与えられている王子領に関する報告書を読み込み最終的な判断を下すなど、当主としてやらなければならない事は幾らでもあるからだ。
そんな忙しい朝であっても、オレファンは愛する妻が産んでくれた息子ルネが寝ているところを書斎へ向かう前に覗きに行く事を日課としていた。
特に今朝は、愛するミリアも一緒なのでオレファンとしては幸せの絶頂にいた。
「寝顔はホント天使だよ。勿論、起きてても天使だけど。はぁカワイイよね、ウチのルネ君」
ミリアと顔を見合わせ頷き合い、足音を忍ばせる。
ウッキウキの足取りも、実際に子供部屋へ近付くにつれて足音を立てないように、できるだけ忍ばせたものにしていくのにも慣れたものだ。
起きている顔が見たい気持ちもあるが、息子が健やかで元気に育ってくれるならばその方がずっといい。泣かせたい訳ではないのだ。笑っていて欲しい。
その為には、起してしまうのはよろしくない。
起きていてくれる奇跡に掛けたいものだが、如何せんこればかりは寝ている時間にムラのある赤児の生活には無理というものだ。
「寝ている顔も可愛いからね。僕が朝の活力を得るには十分さ」
部屋の扉ではなく、その隣の乳母たちの部屋をノックする。
乳母は3人いて時間で持ち回りしている。母乳の出に関しては体調もあるし、自分達の子の面倒もある。疲れていては出来る仕事ではないと、仮眠が取れるようになっていた。そうしてこの部屋はルネの部屋と繋がっている。
「おはようございます、オレファン様、ミリア様。ルネ様はまだ眠られているようです」
夜番の乳母が顔を出して、ふたりをそっと子供部屋へと案内してくれる。
このひと手間を間違えると寝起きの授乳時に突入してしまったり、いろいろと大変なことになるのだとミリアからしっかり指導されているから、オレファン一人の時でもちゃんとこちらをノックすることにしていた。
そっと扉を開けると、赤ん坊のむずかる声が暗い部屋の中でした。
「うっうっ」
年季の入ったベビーベッドの上で赤児のちいさな手が宙を掻いて動いていた。
「あら。起してしまったみたいですね」
乳母が慌てて部屋の灯りをつける。まだ外は暗い。カーテンを開けるには早すぎる時間だ。
ミリアが近付いて愛する息子を抱き上げる前に、オレファンが慣れた手つきでルネの温かな身体を抱き上げた。
「おはよう、ルネ。朝早くから働く父の為に、こんな時間に起きてくれたのかい。ありがとう、嬉しいよ」
そう言って、オレファンがルネのまろみを帯びたふっくらとした頬に頬ずりする姿を、ミリアは目を細めてみていた。
ルネはまだ眠いのか「んっ、んっんー」とむずかっているようだが、オレファンとしては久しぶりに目を開けている息子に会えて大満足のようだ。
ふたりの女性が、父と息子の睦まじい朝の触れ合いを微笑ましく見守る中、ぷん、と辺りに記憶のある臭いが漂った。
「お、おれふぁんさま。ルネ様を、こちらへ」
乳母が慌てて近寄りオレファンからルネを受け取ると、瀟洒な装飾を施された年季の入ったベビーベッドの横へ設置してある清潔な作業用の台へと連れて行き、慣れた手つきでオムツの交換を始めた。
息子を奪われたオレファンは、自分の手をじっと見つめたままだった。
まだ乳しか飲んでいないルネのそれは、大人のそれよりずっと臭いは少ない。
けれど、確かに臭うそれ。
そういえば、夫がこの場面に遭遇したのは初めてだったかもしれない。
ミリアは軽い苦笑を浮かべて夫に近づいた。
「ファレ?」
いくら見目が天使だと浮かれようとも、息子はただの人間だ。人として当然の代謝であるそれに衝撃を受けた様子の夫が可愛いと、その顔を覗き込んだ。
なのに。
想像とは全く違う、真剣な表情をしたオレファン・オリゴマーがそこにいた。
それは、王城で仕事をしている最中に見かける切れ者と噂される宰相補の彼のようだった。
学園の卒業パーティでの騒動を起す前の、誰もが憧れる完璧王子であった頃のように、忙しい宰相の補佐として八面六臂で仕事を捌くオレファンは、ミリアと一緒に居る時のふにゃふにゃの彼とはまるで別人だ。
少なくとも、ミリアは、この家の中では書斎でしか見たことはない。
思わず声に震えがくる。
「ファレ? どうなさったのですか」
震える自分の手をじっと見つめるオレファンが、ゆっくり口を開いた。
「……自分の息子のものだと思うと、汚くも臭くも感じないんだな」
言われて気が付いた。
オレファンの綺麗に手入れされた指に、それが付いていることに。
「?!」
「すごいよ。服が汚れても、着替えなくっちゃって思わないんだよー。この世の真理を見つけた気がする」
うんうんと頷き最高の笑顔を見せるオレファンの服は、よく見ればぐっしょりと濡れていた。
「すぐに手を洗って、着替えていらしてくださいませ!!!」
「えー、勿体ないよ。せっかく初めて僕の腕の中でルネが漏らした証だよ。あ、そうだ。このまま乾かして保存しよう。我が家の家宝として玄関先に飾っておこうよ!」
「ファレ様! 今すぐシャワーをお浴びになって! 着替えて、お洗濯に出して下さいませ!!」
「ハイ! ミリィの言うとおりに!!」
愛妻の叱責に、慌てて背筋を伸ばしたオレファンが駆け出していく。
眩暈を起こしそうな気分で見送るミリアの傍へ、オムツを変えて貰ってスッキリとした顔の愛息ルネを抱き上げた乳母が近付いた。
愛しい息子を受けとりながら、ミリアが苦笑するとそれを受けて乳母も苦笑する。
「さすが、オレファン様ですね」
「そうね」
「あーい!」
母の胸に抱かれてご機嫌のルネが声を上げた。
その声が苦笑に同意をしたようで、母と乳母のふたりは声をひそめて笑い合った。