一か八か
薄暗かった路地が、いつの間にか随分と明るくなっていた。もう少しすれば、太陽が建物の間から顔を出すだろう。しかし、普段なら漂い始めるだろう朝餉の香りの代わりに、砂埃と額に滲む汗の匂いが鼻先をかすめる。
シエナは水面のように感情を鎮め、意識的に心を閉ざしながら足場を確認した。双剣の内一本は腰の鞘へと戻し、もう一本を右手で逆手に持って、左手を柄の先に添えている。
あの咆龍は、こちらの戦法を見定め、正面から受けて立とうと出方を伺っているらしかった。となれば、その気が変わらぬうちに攻勢へ出るのが得策だ。
一度だけ、ダンを振り返り視線で尋ねる。準備は出来ているか、と。それに対して、少し離れた場所で大剣を構え、いつでも攻撃に出られる姿勢の彼もまた、目配せのみで答えた。ああ、大丈夫だ。
シエナは頷くと、静かに片膝をついた。体の正面に剣を掲げ、目を軽く閉じて魔力を練り上げる。そしてごく短い呪文を囁くように唱えると、スッと、剣を高く振り上げた。次の瞬間、それを一息に石畳に突き立てる。剣は、まるで砂を切るように深々と刺さり、同時に緑色の鮮烈な輝きを放った。
それは魔力の輝きだった。剣から放たれた特別な波動は、地を伝い同心円状に広がっていく。
『ーーーーーーっ!!』
と同時に、地中から凄まじい唸り声が響いた。ドラゴンを屠る剣の力が、地の底に潜む敵にまで届いたのだ。
「構えて!すぐに来るよ!」
シエナが声を投げると同時に、地中から巨大な影が飛び出した。
『やってくれたな、人間!!さあ、我が牙の餌食となるがいい!』
咆龍はまず、真っ直ぐにダンに向かっていった。六本の足が石畳を蹴り、腹側の鱗が地を削る音が響く。
「来やがったな、トカゲ野郎!」
ダンは打ち合わせ通り、ドラゴンの注意を引き付けつつ、大剣を正面に迎え撃つ。そして、その大口があと5歩ほどで届くというところまで迫った瞬間、迷わず横へ転がって距離を取った。建物にぶつからぬよう、ドラゴンは俊敏に向きを変える。走って距離を置いたダンは、振り返って再び相手に剣を向ける。そこで二人の目論見に気づいたのか、ドラゴンは苛立ったように足を踏み鳴らした。
そうだ、これはダンを囮に相手の気を引き、その隙をシエナが突くという至極単純な戦法。ただし、ダンが疲れや油断により相手に追い付かれれば、恐らくその時点で二人とも助からなくなる。彼の実力や体力を知らない状態で行うには、少し危険性が高い作戦だった。だが、当のダン自身が、やらせてくれと、逃げ切ってみせると言ったのだ。シエナはその言葉に賭けた。この瞬間だけ、彼を信じてみようと思った。もちろん、ほかに方法が無かったこともあるが。
ドラゴンがたとえその目論見に気がついたとしても、地中に潜ることはできず、また、突き刺さった剣から今も魔力が放たれている以上、こちらに無闇に近づくこともできないはず。つまり、狙いが分かってもなお、ダンを追うより他にないのだ。ただし、彼が少しでも冷静になって、遠隔攻撃に移った場合、この戦法は意味を失う。あくまで、こちらに対し正面からやり合ってくれている間しか、この方法は通用しない。
「さあ、どうしたよ。俺様はここだぜ!?」
眼前まで迫ったドラゴンの頭を、大剣の腹で弾きつつダンが走る。次第に息が上がってきている。そろそろ決めなければ、今度はこちらが追い詰められることになる。
だが次の瞬間、流石に疲れがあるのか、向きを変えたドラゴンの尾が勢い余って、すぐ横に建っていた建物の壁を突き破った。落ちた瓦礫と舞い上がる砂埃に、ドラゴンの視界が閉ざされ、体の動きが一瞬鈍る。
今だ!ここしかない!
地面に突き刺した剣はそのままに、もう一振りを抜き放ちつつ砂埃の中に飛び込む。視界は奪われてしまうが、咆龍の魔力ではっきりと居場所は掴める。狙うのは、先ほど当て損ねた、三本の角の中で最も短く、最も太い一本。その根本を目指し、シエナは相手の斜め後方から高く跳躍した。
しかし、そこで予想外の事態が起こる。
「っ!!居ない!?」
飛んだ先に、咆龍の姿はなかった。着地と共に周囲を見渡すが、影さえ見つけることが出来ない。確かに、つい先ほどまで気配があったのに、一体どこへ?
一瞬の戸惑いの後、すぐに事態を悟った。
「……ダン!!今すぐ逃げて!!」
とっさに挙げた声が届いたかどうか。視界を遮る煙の向こうから、ドラゴンの唸り声とダンの叫びが、シエナの耳へ届いた。
◇◯◇
砂煙の中へ、シエナは躊躇いなく飛び込んでいった。構えは解かぬまま、ダンはとりあえずその場で息を整える。少女が、そこらの男顔負けのあの剣技で、しっかり標的を捉えられたなら、恐らくもう自分はお役御免になるだろう。だが、もし狙いが外れていたら、まだしばらくはこの追いかけっこを続けなくちゃならない。
だが、事態は思わぬ形で悪化した。
「……ダンっ!!今すぐ逃げて!!」
その声が聞こえるのとほぼ同時に、足元に影が差したような気がした。
「くそっ!!」
考えるより、感じるより、先に体が動いていた。大剣をぱっと手放し、瞬発力だけで上へと飛ぶ。が、到底間に合わない。上半身はともかく、腰から下は確実にドラゴンの口から逃れられない。その大口が閉じられていくのを、ダンは人ごとのように見つめていた。
……その時だった。
「おーーらよっと!」
その日、二人目の途中参戦者の、どこか楽し気な声が響いたのは。






