言葉と刃と
ところどころがひび割れた石畳の上を真っ直ぐ駆け抜けながら、両腰の後ろに下げた剣のつかに左右の手を当てる。
大丈夫。
慣れ親しんだ手触りの二振りの得物は、いつも通り独特な波動を放っている。抜き放てば、きっと狂いなく敵を切り裂き、この身を守ってくれるだろう。
でも、まだ抜くわけにはいかない。
まずは相手を見極めて答えを出さなければならない。向けるべきなのは刃なのか、それとも言葉なのかを。
右後方から、建物が破壊される音とドラゴンの声が響いた。早くもあいつは戦闘を始めたみたいだ。
「こっちも急がないと……」
一度剣から手を離し、走る速度を少し上げた。人気のない石造りの街並みの中、大きな魔力が蹲る前方に注意を向ける。
恐らく、街の東側と西側に暮らす人々の大半は、先ほどの騒ぎで北側にある教会の方へ逃げたはずだ。兵士による誘導の声もしていたから、次期に安全な場所まで逃げられるだろう。だが、古い建物の多いこの辺りに暮らすのは貧しい人々がほとんどで、避難誘導も最後に回される。まだ彼らの多くは、ドラゴンの居る外に飛び出す事もできず、今も家の奥で息を潜めているはずだった。ドラゴンと自分たちの戦いが、一刻も早く終わることを願いながら。もし建物が倒壊するようなことになれば、中に居る人に危険が及ぶ。街に大きな被害を出さないよう、細心の注意を払いながら対峙するしかない。改めてそのことを胸に刻み、最後の路地を駆け抜けた。
少し開けた場所に出たと思った途端、顔に熱風がかかった。風ではない。ドラゴンの鼻から吐き出された息がここまで届いたのだ。
目の前に横たわるのは、5メートルはあろうかという巨体。全身を灰色の厚い鱗で覆われ、短く太い足が前に2本後ろに4本の計6本ある。翼は無く、頭部に縦に並ぶ3本の角と、今は閉じられている長く大きな口が、その身が経てきた年月の長さを物語っているようだった。
唐突に姿を現した少女を、漆黒の龍眼がゆっくりと捉える。
予想通り向こうの翔龍に比べ、だいぶ落ち着いた性格の持ち主のようだ。あるいは、生きた年月の差がそう見せているだけかもしれないが。
足を止め、一度深呼吸をして心を落ち着ける。そして、何の表情も映さない夜闇のような双眸を見据えると、背筋を伸ばし、顎を引き締め、右手で額と両肩へ順に触れてから、深く頭を下げた。
「お初にお目にかかります、雲鱗を纏いし咆龍よ。我が名はシエナ。刃を交えるより先に、言葉を交わさんと望む者。どうか、お話をさせていただきたい」
その言葉を聞き、ごくわずかにドラゴンの目が見開かれる。
『……ほう、これは驚いた。よもや、未だに武よりも言の葉をもって、我らに相対せんとする者がいようとはな。そなた、我らを狩る狩人ではないのか』
轟くような深い声が、鼓膜ではなく頭に届く。そこに混じるのは少しの驚きと、面白がるような響き。
「確かに私は、あなた方ドラゴンと戦うことを生業とする者。これまで幾頭もの御同胞と戦い、互いの血を流しながら生き延びてきました。しかし、私が望むのは傷つけ合うことではなく、守り抜くことです。戦わずにその望みを叶えることができるなら、これ以上の幸はありません」
言葉は届く。なら、血を流さずにこの場を収めることも、まだ不可能ではないはずだ。このドラゴンを、自分が説得することさえできれば。
「あなた方にも心があり、想いがある。ならば少しずつでも、歩み寄ることは可能なのではないでしょうか」
『ふっ、おかしなことを言うものだ。そなたとてよく分かっていよう。心も言葉も、通わせることに意味はない。我らが喰らうはそなたたち人間の「心」。奪われれば二度と戻りはしない、魂と同義の存在。そして我らもまた、喰らわねば生きてはゆけぬ。ならば互いに傷つけ合い、生き延びぬが為争い合うより他に道は無かろう。あるいはその命、我が腹を満たす為に差し出すか?』
そうではないと、言いたかった。他にも道はあるはずだ、と。だが、自分でも信じ切れない可能性を、説得のため口に出すことが出来なかった。
シエナの逡巡を見抜いたのか、静かだった瞳に炎の灯るのが見えた。それが意味するのは、彼の中に燃える怒りか、ぬぐいきれない悲しみか。
『できなかろう……ならばそれが答えだ。我らは奪い合わねば生きられぬ運命。ここでも生き延びたいと思うなら、その腰の刃を抜くがいい。我もまた、この牙と聲をもってそなたの相手をしよう』
それを合図にドラゴンの魔力が大きく膨れ上がる。どうやら、相手はこれ以上話す気がないようだ。だが、だからと言ってこっちまで諦めるつもりはない。
「待って下さい!私はそれでもーーーーっ!」
シエナが懸命に伝えようとした言葉はしかし、突然の乱入者によって遮られた。
「おりゃーーー!!」
頭上から降ってきた気合の声と、渾身の力を込めて振り下ろされる大剣。とっさにシエナは後ろに飛び、ドラゴンは巨体に似合わぬ俊敏さを見せて体を翻した。
ガイィンッ
大剣が石畳に当たってかすかに火花が散り、薄暗い路地でその明かりの中に、一瞬だけ剣の持ち主の姿が浮かび上がる。火花が消えると、着地の体勢からゆっくり身を起こし、意気揚々と名乗りを上げた。
「いやあ、ずいぶん待たせちまったな。俺の名はダン!トカゲ野郎、お前のその首をぶん取るハンターにして、嬢ちゃんにとっての助っ人ってやつさ!」
がっしりと逞しい右肩に剣を担ぎ上げ、呵呵とばかり笑う男の姿には見覚えがあった。よりによってこのタイミングで現れるなんて……最悪としか言いようがない。
「……何であなたがここに?ついさっきまで、この街には影も形もなかったはずだけど」
「そりゃあもちろん、嬢ちゃんたちの後を追っかけて来たのさ。んで、到着早々デカブツとやりあってるっぽかったから、すぐさま駆けつけたってわけだ。安心しな、俺が来たからにはもう危ない目には合わせねえ!こんなやつ、あっという間に倒してやるからな」
ダンは体中から戦意を漲らせながら前に出る。その目はただ、灰色の鎧をまとった獲物にのみ向けられていた。
「待って。」
シエナも前へ出て、その隣に並ぶ。腕でダンを制しながら、横目で睨んだ。
「私は今戦っていたんじゃない。交渉をしていたの」
「……は?……腹を空かせたドラゴンを相手に交渉だって!?」
「ええ、そうよ。彼との会話はまだ終わっていない。もう少しでいいから、彼と話す時間がほしい」
「おいおい、何言ってるんだ。そもそも、奴らに俺たちの言葉なんか通じるわけないだろ!?」
「いいえ、彼らにも私たちの言葉は通じる。ただ、今じゃ話そうとする人間がろくに居ないだけ」
「何っ!?じゃあ、奴らは話せるのか!」
ダンは慌てたように、巨大なドラゴンを振り返った。先ほど、思いっきり名乗りを上げていたが、まさか相手に通じているとは思っていなかったらしい。そもそも、ドラゴンと意思疎通が可能であるということさえ、今ではほとんど知られていない。大多数の人が彼らのことを、唐突に襲って来ては有無を言わさず人の心を喰らって行く、危険なばかりの魔獣だと思っているのだ。
「彼はほんの少しとはいえ、私の言葉に応じてくれた。まだきっと、出来ることがある。諦めるのは、やるだけやったその後でも遅くない。だから――」
その言葉を、ダンは眉間にしわを寄せ、ひどく疑わしげな顔をして聞いていた。だが。
『いいや。もう、十分だ』
「「!!」」
『やはり我らは相容れぬもの同士、武によって相対するがふさわしい。その守り人の闘志を受けてはっきりとそう確信した。ならば、もはや言葉はいらぬだろう。武には武をもって答えるがこの世の習いなのだから。さあ、存分にぶつかり合おうぞ』
その声と同時に、ドラゴンの周囲に四つの白く輝く魔力の塊が生まれ、次第に大きく成長していく。すぐさま身構えたダンに対し、まだ諦めきれず腰の武器を抜こうとしないシエナ。だが限界まで成長した魔力の玉の一つが、そんな彼女にむかって容赦なく放たれた。
目の前まで迫った魔法攻撃に、ようやく二振りの剣を手にする。己の魔力をのせた刃を思いっきり振りぬき、飛ばした風の斬撃を相手の攻撃に真正面からぶつけて相殺した。途端に広がる衝撃と爆音の中を、ダンは残りの三つの玉を避けつつドラゴンに向かっていく。
「この野郎、マジで喋りやがった……!」
驚きの声が溢れるが、動きは少しも鈍らせていない。対してシエナは、まだ最後の迷いを捨て切れずにいた。
「とはいえ、嬢ちゃんが、一体全体何があってあんなことを考えたのかは知らないがっ」
打ち下ろされた尾を跳んで回避しつつ、ダンはシエナに語りかける。
「ここは命をかけた戦いの場だ。迷って悩んで足を止めれば、あっという間にお陀仏なのは俺たちの方だぞっ!」
分かっている。もう始まってしまった以上、止めることはできない。街が破壊されて被害者が増える前に、彼を倒さなければならないのだ。
シエナはもう一度、大きく深呼吸をして刃を握りなおす。かすかな胸の痛みを感じながら、少女は改めて戦場へと足を踏み出した。