1分程度で読める、掌編小説集です。「こちら」から、他の掌編小説を読みにいけます。
忘却しなければ出られない部屋
突然とある部屋に閉じ込められた。
隣には愛しい彼がいて、私と2人きりだ。
これが何気ない日常のワンシーンなら、心をときめかせたりしていたに違いない。
けれど今は、そんな甘い状況ではない。
私と彼以外に、この部屋には1つの薬が置かれている。
薬の効果は、最愛のパートナーに関する記憶の忘却。
この薬をどちらかが飲まなければ、この部屋から出られない。
「どうする……?」
彼が困り顔で訊いてくる。どうすると言われても、私だってよく分からない。
もしかしたら何かのドッキリで、私たちは試されているのかもしれない。
そもそも部分的に記憶を消すだなんて非現実的だ。
私はあまり深く考えず、楽観的に返事をする。
「さすがに嘘なんじゃない? あり得ないって」
「そう……だよな。でもたぶんこれ、薬は飲まないといけないんだろうな」
「うーん、テレビ番組とかの企画なら、やっぱり飲んだほうがいいよね」
すでに、薬の効果を信じてはいなかった。
彼もしばらく薬を見つめていたが、しだいに決心したのか大きく頷く。
「……よし! 俺が飲む」
宣言したと同時に薬へ手を伸ばし、躊躇い無く口へと放り込んだ。
「あっ!」
驚いた私が声を上げるも時すでに遅し。ごくりと飲み込み、目を2、3度ほど瞬かせる。
「……べつに何とも無い気がする」
彼は私を見つめながら平然と答えた。
「本当に? 本当に本当?」
私は念押しするように問いかける。
「大丈夫だって言ってるじゃん。ほら、扉も開いたし早く出よう」
言いながら彼は私の手を引き、扉へ向かって歩き出す。
彼の様子に変わったところは見当たらない。薬の効果を信じていたわけではないが、万が一の事態は想定していたので心のどこかに危機感はあった。
けれどそれも無駄な心配だったらしい。
2人でニコニコしながら部屋を出る。すると、こちらに1人の女性が駆け寄ってきた。
そのまま私の胸ぐらを掴みかかる。
「あんた誰よ!」
「えっ? えっ……?」
唐突に怒鳴り声を浴びせられて困惑するが、すぐに彼が間に割って入って来てくれた。
「ちょっと、いきなり何をするんですか」
怒りを乗せた声で女性を非難する。
私はこの女性のことを知らないし、どうやら彼も知らないようだ。
これ以上の関わりは不要と判断したのか、私の手を半ば強引に引いて早足で歩き出す。
「ほら、ぼけっとしてないで行くぞ」
「う、うん……」
いまいち状況は分からないが、理解する必要も無いのだろうか。
先ほど私たちが出てきた部屋を見て泣き崩れる女性を背に、愛しい彼とその場を後にした。