北限の地にて2
ウォッチャーの歩行術は独特なもので、闇の種族との大戦の後に世界中の格闘技から抽出したものを組み合わせ、発展させたものだ。
相手を幻惑させるものや、一瞬で間合いを詰めるものなど、その種類は枚挙に暇がない。
氷の国へあらわれたゲイルもまた、そのほとんどを習得している。
もともとウォッチャーの訓練で覚えたものもあるが、その多くは守護炎に記憶されていた“村人”の魂の記録をゲイルの魂へ書込みしたものだ。
半ばウォッチャーという概念そのものと化したゲイルはその技術を余すことなく使用することができる。
氷の国の王都に押し寄せたオークの群れを前に、一人ゲイルはゆらりと歩き出した。
ゲドら番兵が止めるまもなく、ウォッチャーは前に出る。
「“目”」
一体のオークがゲイルの前に出る。
黄土色の肌の戦士だ。
「俺はバズダバラの戦士、グ・ラド。 簡単に言ってやる。 どけ」
返事を聞かずにグ・ラドは手にした金棒をブゥンと振った。
人間なら一撃でミンチになる威力の攻撃だ。
しかし、その金棒は空を切った。
手ごたえの無さにグ・ラドは首を捻った。
そのまま、ゴリゴリと首が捩られ、折られた。
神経が引きちぎられ、命令の行かなくなった肉体はどおっと倒れた。
金棒を振られた瞬間にゲイルはグ・ラドの背後に回りこみ、首を捻ったのだ。
一瞬で、戦士が殺されたことでオークは色めき立った。
そして一斉にゲイルに襲い掛かる。
その戦いをゲドは、まるで影が踊るようだと思った。
影が揺れる。
赤い閃光が走る。
オークから血しぶき、そして絶命。
影が地を進み、緑の閃光が走る。
オークからくぐもった声、そして絶命。
五十体のオークが残り一体になるまで一時間かからなかった。
最後に残ったのは先見部隊の隊長であり、バズダバラの族長グ・ボダン。
黄色の肌のオークだ。
ネ・ルガンほどではないが巨体だ。
いくつもの棘がついた鎧と兜をまとい、棘だらけの金棒をぶんぶんと振っている。
「死んだはずだ。 お前ら“目”は。 全員殺したはずだ」
その目には憤怒。
勇猛たるバズダバラの戦士が、たった一人に殺されたのだ。
恥辱だ。
オークでも有数の強部族であるバズダバラが五十人も数を減らされたのだ。
屈辱だ。
「……だから、俺もお前達を殺している」
その名の通り、疾風は駆けた。
手に持った二振りの短刀、暁丸と蘭丸から赤と緑の残光が追従する。
「舐めるなッ!」
グ・ボダンは吼える。
ゲイルはもはや沈黙と剣撃でしか答えない。
オークの金棒が振られる。
グ・ラドのような無造作な攻撃ではなく、ゲイルの走行速度から到達位置を逆算し、目標に必ず当たる軌道を取った致命の一撃だ。
しかし、ゲイルはトップスピードから足の踏み込みでスピードをゼロにまで減退。
金棒が目の前、髪一筋分だけ前を通り過ぎる。
金棒が行き過ぎたのを見もせずに、一気に全速までギアをあげ、ほとんど撥ねるようにゲイルはグ・ボダンに接近する。
その手には、暁丸と蘭丸。
赤と緑の閃光がグ・ボダンの首を掻ききろうと迫り来る。
ネ・ルガンでも対応できなかった必殺の剣を、奇跡的にグ・ボダンは首を逸らして回避した。
薄皮一枚、致命傷まで届かない。
逆に、グ・ボダンは薄皮一枚、命を拾う。
振り切った金棒を腕の筋肉を千切らんばかりにグ・ボダンは引き戻した。
ウォッチャーはそこにいる。
攻撃後の硬直で、金棒を避けることなどできない。
一気に叩き潰す。
その金棒が止まる。
ゲイルの左足が金棒を踏んでいる。
オークが攻撃を回避した瞬間に、反撃のダメージ源となる武器を無力化していたのだ。
オークの全力を凌駕するゲイルの脚力。
それをグ・ボダンは信じられない。
そして、感嘆した。
強さこそ、オークの評価基準であるからだ。
「誇れ、最後の“目”よ。人が我らに打ち勝つことを」
そのセリフを言い終わらぬうちに、ゲイルはグ・ボダンの喉を掻ききった。
真紅の血が噴水のようにオークの首から噴き出し、その命を失わせた。
「賞賛など求めない。俺はただ貴様らを殺すだけだ」
途中まで歓声をあげていた氷の国の防衛隊は、声を失っていた。
人を超えるオークを打ち倒した幽鬼。
その刃が自分達を狙っていないと、どうして言い切れる?
その感情を知っているかのように、ゲイルはゆっくりと歩を進める。
氷の国の方ではなく、オークがやってきた方へ。
そう、まだこの先にはオークがいる。
「のう。今の技はわしがよく知る者の秘伝じゃが、お主は何者じゃ?」
歩みを止めないゲイルの前に風のように老人が現れる。
氷の国の女王にオークの到来を知らせた後も、ここに残っていた連絡員のオアネモスである。
十数年も村を離れていると、若いウォッチャーとは面識が無くなるが、それでもオークの族長を含む数十体を屠るほどの腕前の者を忘れるわけはなかった。
当代の最強の戦長であるカームですら、三体、無茶をすれば五体が限界だろう。
その十倍以上は村の基準を持ってしても規格外だ。
「ウォッチャー。ウォッチャーのゲイル」
「ゲイル……訓練生にそんな名の少年がいた気はするが」
それにしても、これほど人間を止められるものなのか、とオアネモスは思った。
虚ろな表情、蒼白の顔色、それなのに目だけは赤く爛々と輝いている。
幽鬼、という表現が相応しい。
「あんたのことは知っている。連絡員のオアネモス。戦長のカームの同期。彼が“オッドアイ”とオークどもに呼ばれていたのと同じように、あんたも“影道”と呼ばれていた。十四年前にパートナーを亡くしてから連絡員となった。それ以後はあまり村に近づかなくなった」
淡々と記録を読み上げるように、ゲイルはオアネモスの短くは無い半生をまとめた。
「な、んだ。お前は……なんでそんなことを知って……」
「俺の中にある守護炎が教えてくれた。あの村の全てを記憶している炎は今、俺の命の代わりに燃え続けているから」
「一体、何があったんじゃ。見張りが敗れたことは予想がついた。守護炎が消え、村と連絡が取れなくなったからな」
情報を、正確な情報をオアネモスは欲していた。
連絡員にとって、それは時には短刀よりも役立つ武器になり得る事を、オアネモスは知っていた。
いつの間にか、陽が暮れかけている事に二人は気付いた。
氷の国の王都からずいぶん離れたことにも。
オークの軍団と鉢合わせしないような場所で、休息をとることになった。
「火はつけぬぞ。奴らに見つかると面倒じゃ」
オアネモスは懐から液体の入った瓶を取り出す。
開けると、つんと酒精の匂いがする。
どうやら度数高めの火酒のようだ。
「やるか?」
気つけがわりに火酒を飲ませるのはよくあることだ。
北限のこの地では、寒い夜に暖が取れないときに、舐めるように飲む。
酔うほどまでは飲まない。
ゲイルは首を振った。
オアネモスは干し肉やら乾パンやら取り出し進めるが、ゲイルは全て断った。
「俺は、もう飲食を必要としない」
「吸血鬼や不死者のようじゃな」
「似たようなものだ」
月も出ないこんな夜に、お化けのような連れといることにオアネモスは妙な気分になる。
こんなことは無かった。
若い時分は、夜警もやったが今のような気分になったことはない。
「それ、で。村はどうなったんじゃ?」
意を決したようにオアネモスは口を開いた。
聞かなければ、起こってしまったことも確定しない、とでもいうような気分になったが、ここまできて聞かぬわけにもいくまい。
「村は……」
と半分死んだような口調でゲイルは語りだした。