北限の地にて1
ヨルド平原より南西。
そこは氷の国と呼ばれている
北限が近く、冬となればあたりの全てが凍りつくからという理由と。
氷の国の王宮が魔法によって永久に凍結した氷で作られているからという二つの理由がある。
氷晶宮と呼ばれているその王宮は、この国の政権の中枢であり、同時に重要な観光資源でもあった。
英邁なる女王ユラ・グラレムによって治められるこの国は北部三国で最も栄えていると言われる。
その氷晶宮を望む、王都の北門で門番のゲド・ルサハ(32歳・独身)は困惑していた。
王都前にずらりと列を成した難民の群れに、である。
身分の上下はあろうがみな一様に疲れきった顔をしている。
なかにはひどい怪我を負っている者もいた。
しかし、ゲド・ルサハの記憶では付近で戦争が起こった話は聞いていないし、これほどの人数を襲う野盗の集団も考えにくい。
なんとか喋れそうな人に話を聞くが、襲われただの、怪物が現れただのと正気を疑うような話しかしない。
上役に判断を委ねようとしても、番兵長から衛兵隊長、衛門次官、衛門長官と順番に話が伝わって対応にひどく時間がかかっている状況だ。
その間にも、難民たちは増え続けている。
報告を聞いたユラ女王も困惑している。
母であり先代の女王ユリアの跡を継ぎ、即位してから十四年。
初めての事態だった。
難民の受け入れ、身分のチェック、怪我人の救護、そして情報収集。
衛門長官、将軍、医務局と連携をとりながら事態を収拾しなくては、と頭を巡らせる。
その女王の前に一人の老人が現れた。
風が吹き込んだかと思うと、女王と幕僚の前にボロボロの外套を羽織った老人が現れた。
深い皺、開けられているかわからない細い目、真っ白な髪はふさふさだ。
「何者だ!」
軍務長官を兼ねる国軍の将軍ゲ・サルハは抜剣こそしないものの、剣の柄に手をかけた。
明らかに不審人物への対応である。
実際に不審人物であることは、確かだ。
「ヨルドの北、ネ・モルーサの見張り手。わしはその連絡員じゃよ」
「ネ・もるーさの見張りて?歩む者?」
ここにいる者にとって、そんな地名は地獄とか冥府と同じニュアンスの言葉であり、そのウォッチャーだかウォーカーという名前はほとんど仙人と同じ意味だ。
「忘れられた盟約に従い、わしは貴国に告げる。火は消えた。闇の種族が戻ってきた」
「“火は消えた”!?」
女王だけがその言葉に反応した。
それは母ユリアが病死する前にユラに伝えた言葉だったからだ。
忘れてはならない伝承の言葉だと母は言っていた。
「確かに伝えたぞ。それからどうするかはお主ら次第じゃ」
また一つ風が吹いて、仙人のような老人は姿を消した。
化かされたかのような心持ちの家臣と対極的に女王の顔は青ざめていた。
老人、連絡員のオアネモスはただ素早く移動しただけで、氷晶宮で誰にも見つからずに出入りできた。
元見張りである彼の技術が錆付いていないことの証明であるし、この国の兵士らの質が低すぎるということでもある。
北部三国は間違いなく陥落するだろう、とオアネモスは確信している。
すでにここより北にあり、最も“村”に近かった冬の国はオーク軍の襲撃にあって王都にまで攻め込まれている。
近衛師団が健闘しているため、オーク軍の進軍を止めているが王都壊滅はそう遠くない。
そのため、冬の国の国民は脱出し難民となって氷の国までやってきているのだが、女王をはじめとした首脳部はまだその情報を掴んではいないようだ。
氷の国、冬の国と並び、北部三国と称される雪の国は、今のところ何も起きてはいないようだが、水面下で何かが起こっている可能性は否定できない。
そもそも、北部三国には危機感が無かった。
闇の種族のことを過去のものとして、すっかり忘れ去っていたのだ。
おとぎ話や昔話の類の扱いである。
オアネモスはパートナーを十四年前に亡くしてから、連絡員になったがそれから調査した人界の様子に開いた口がふさがらなかった。
エルフもオークも知らない。
亜人の存在も知らない。
この世界は人間のもので、それが永遠に続くと信じている、のを知ってオアネモスは“村”の者を哀れに思った。
そして今だ。
“村”の出身者なら必ず感じ取れる守護炎の存在。
それが失われたのをオアネモスは感じた。
あれは奇蹟の炎ゆえに、雨や風などの自然現象では消えないはず。
それはつまり、“村”の消滅、見張りの敗北を意味していた。
オアネモスは連絡を取れた全ての連絡員と南方諸国へ、闇の種族の到来を知らせることにしたのだった。
オアネモスと氷晶宮の兵士の技量の違いは、即ち見張りを倒した闇の種族との戦力差につながる。
闇の種族がどれほどの規模で攻勢に出たのかはわからないが、人類が持っている優位点は数だけだ。
どれほどの被害が出るか、と思うとオアネモスの胸には焦燥だけが広がっていくのだった。
門番のゲド・ルサハが本当の意味で迫り来る危機を実感したのは、難民が来はじめてから一週間後だった。
冬の国がほとんど陥落するまでになったことで、オーク軍は軍勢を三つにわけた。
一つは“鬼将”ネ・ルガンが率いるオーク精鋭部隊で、これはそのまま冬の国を攻め続ける。
もう一つはダークエルフが率いる少数の部隊で、これは雪の国へ向かう。
オアネモスの憂慮の通り、雪の国を内部から蚕食するための部隊だ。
最後の一つは、バズダバラ族のオークを中心にした雑兵が中心の歩兵部隊だ。
ゴレモリアに匹敵するほどの人員を誇るバズダバラ族は、残虐勇猛と知られオークの中でも一目置かれる部族である。
ゴレモリアのネ・ルガンに負けじと三千のオーク軍が氷の国へ、難民を追い立てながら向かってきていたのだった。
女王が緊急に組織した王都防衛軍に組み込まれた番兵たちは、ついにオークと遭遇した。
赤緑黄色、様々な肌の色をしたオークらはどれも筋骨隆々だ。
その上にのっている顔はどれも豚を醜悪にしたような怪物のものだ。
その全てが目の前の人類を、食糧としか見ていない。
「氷の国騎士団行くぞ!」
勇気をふるいたたせて、氷の国の精鋭たちが突撃していった。
いくら相手が怪物だろうと、重装甲の騎士団なら負けはしない、と剣を振りオークに挑んでいった。
血まみれの鎧だったものが転がったのは、すぐあとだった。
北限の国は、来るべき闇の種族の帰還から南方諸国を守るために建国された。
その一つである氷の国の精鋭騎士団が一蹴されたということは、人類が大きく敗北へと転がりだした証左だった。
門番ゲド・ルサハはもうオークが迫ってくるのを見て恐怖しか感じなかった。
その足音。
武器のきしむ音。
オークらのしわがれた声。
臭気。
体の震えが止まらない。
その震えの中でゲドは家族を思った。
母を、父を、祖父母を思った。
いきつけの飲み屋のおかみを、食堂のおやじを、番兵の仲間たちを、友人を思った。
次の春に結婚する妹を思った。
「ゲルダ……兄ちゃんは、ここで……」
「お前にも妹がいるのか」
不意に背後から聞こえた声に、ゲドのパニック気味の頭は冷静になった。
「え?」
足音をたてずに声の主は後ろから移動してくる。
歩いているのはわかる。
だが、音が無い。
「先見が五十といったところか」
「あんた……一体?」
最初に思ったのは幽鬼だ。
死してなお死にきれない、哀れな、そして危険な死者。
薄灰色の古めかしい衣装。
手にした赤と緑の宝石が煌めく二振りの短刀。
そして、赤い燐光のように輝く目。
それは口を開いた。
「俺はウォッチャー、奴らを殺す者だ」