木曜日
平松は水曜日早めに寝たにも関わらず、疲れがイマイチ取れなかったため木曜日は夜になってから仕事を始めた。この疲れの原因は昨日幽霊を乗せた事が原因かと思い、運転席の下に置いてある塩を撒こうかとも思ったが結局止めた。この塩は嫌な客を乗せた時に撒くために常設したものだったが、平松にとって昨日の幽霊は金払いは悪かったが、それほど悪い客とは思えなかったためである。そのため、今日はエナジードリンクを飲んでから仕事に臨んでいる。
この日は向かうべき場所を、気まぐれというよりは運転のし易さで選び、なるべく明るい道を走るようにしていた。
が、神楽坂周辺で平松のタクシーを停めて来た客は周りの明るさとは反比例する様に暗い雰囲気を漂わせていた。思えば平松はこの週火曜日の老婆以外は変な客ばかり乗せている。そのため、彼は少し心を引き締めながら路肩に車を停車させた。
後部座席のドアを開けると、女性が一人すすり泣きながら乗って来た。
「今日はどちらまで向かいましょうか?」
平松が尋ねると、客は
「…」
と、何か言ったが彼には聞こえない。
再度、
「もう一度伺って宜しいですか」
と聞くと、
「私の住んでいるアパートの近くに×××って教会があるのでそこへ向かってください」
とすすり泣きながら告げて来た。
平松は早速そこへと向けて車を発進させるが、後部座席のすすり泣く声は止まらないどころか、時々大号泣しているためかなり煩わしく運転に集中しきれない。
たまりかねて、
「何があったんですか、お客さん?」
と尋ねてみたところ、
「彼に別れを告げられたんです」
との事であった。
(これはどうにもならないな)
平松は即座にそう思った。彼はとうの昔に枯れ果てており、枯れる前の時点ですら色恋沙汰は自分には合わないと薄々感じていたため、恋についてのアドバイスはかなり不得手であった。もっとも、彼自身も元々そういったことに興味がなかった訳ではなく、以前彼は恋というものを青臭くも爽やかな、例えるのであれば草原の様なものであると信じていたが、蓋を開けてみたら、生臭く水捌けの悪い沼地の様なものであったために酷く落胆し、そのまま萎びてしまっているという経緯があった。
彼にはもう恋愛ドラマが詐謀が渦巻くギャングの抗争映画の様に見え、ラブレターはチェーンメールの様にしか見えなくなっている。
が、一時とはいえ青臭く爽やかなものに憧れていたのも事実なので、その頃の自分を思い出し、
「事情はよく分かりませんが、きっとお客さんは悪くありませんよ。だって今もこうして相手のことを思って泣いているじゃありませんか」
と言ってみた。それっぽくは聞こえるが、無論、中身などありはしない。
しかし、存外彼女の心には響いたらしく、先程よりも勢いを増して大泣きしてしまった。どうやら、彼女は振ってきた男を相当愛していたらしく、振られたダメージも大きいらしい。
平松はひたすら、
「貴方にその気があるんですから、またいつでも何度でもやり直せますよ、まずは落ち着く事が重要じゃありませんか?」
とか、
「貴女の様な素晴らしい女性を手放すなんて考えられないですよ、きっとまた向こうからやり直そうって言ってくると思いますよ」
などと言って宥めようとするが、その度により声を上げて泣いてしまう。
(これはたまらんな、とてもじゃないが体がもたん)
そう考えた平松は一度コンビニの前に車を停車させると、
「少し待っていてください」
と言って店の中へ入っていき、水を購入すると再び車へ戻って彼女に渡した。
彼女はそれを飲んだ後、
「ありがとうございます、少し落ち着きました」
と言った。
それからは宥めるとかえって五月蝿くなると思った平松はひたすら聴き手に徹し、例えば彼女が、
「彼とは付き合って四年くらい経っていたんです」
と言えば、
「四年も付き合っていたんですか」
などと相手の言った事をそのまま復唱するように言うという作戦で彼女の思いの丈を全部吐き出させる事にした。それは、彼女が指定した教会の前に到着してからも三十分くらい続き、ようやくひと段落すると、
「今日はありがとうございました。最初は泣いているところを多勢の人に見られたくなくてタクシーを選んだんですけど、タクシーを選んで本当に良かったです」
と言って代金を払って帰っていった。
平松はこの一件で全ての体力を使い切ってしまったため、もうこの日はこれから仕事をする気も、夜風や星を楽しむ気力も無くなっていた。
(ビールでも買って帰るか…)
そう考えると、表示を回送に切り替えて帰路についた。
後日、この日乗せた女性から彼氏と仲直りをしたと書かれたアンケートの手紙が届いたので、平松はお役に立てて何よりですと返信したが、それ以降は音信不通になった。