月曜日
平松は生来他人の顔を覚える事が苦手であったが、彼の客には何故か変な人間が多かったのでこの仕事を始めてからは若干改善されていた。とりわけ、とある一週間の客の事は強く印象に残っている。
その一週間は一日一人しか乗って来た客がいなかったという事もあるが、一人一人が比較的印象に残りやすい人物であったためであろう。
月曜日の客は新宿から乗ってきた三十代中盤位の小太りの男性だった。平松は身なりにあまり拘らない質なのでその男の着ている物も詳しくは分からなかったが、男の着ていた背広は明らかに自分が着ている物よりは上等な生地で出来ており、腕に付けている時計も中々の逸品である事は彼にも察する事が出来た。ただ、それを身につけている肉体自体はかなりダルンダルンであり、運転手付きの車ではなくタクシーを利用しているところを見ると、真の上流階級という訳ではなく、さしずめ若くしてそこそこ成功を収めて中流階級の上の方に食い込んだといったところだろう。
「どちらまで向かいましょう?」
平松が尋ねると、
「横浜」
と、無愛想に返してきた。機嫌が悪いのかもしれない。
あまり乗せたいタイプの客ではないと思った平松は、
「お客さん、そこまで行くとなると電車を使った方が安いし速いと思いますよ」
と、表面上は親切そうに提案した。すると、
「時間見てみろよ、終電もう過ぎてるだろうが! それと俺に命令するな、俺を誰だと思っている!」
と、少し怒気を含んだ返しをしてきた。
俺を誰だと思っているという事は自分の権威が外でも通用すると思っている質なのだろう。
この客はぱっと見、平松よりも二十は歳下だが、微成功者、特にこの客のような人間が驕慢心を持ち、他人に高圧的になる事はある程度仕方ない事だと平松は割り切っている。
小学校から高校までの間、基本的には上級生を敬うように指導される。上下関係が厳しくない小学校や、義務教育ではない高校を除くとしても、中学の三年間でその感覚は充分に養われるだろう。その歳上の地位をたかが仕事ごときの勤務歴や役職程度の事で簡単に上回る事が出来てしまうため、心に欠けることのない望月を持ちだす者が出てくるというのも無理もない事だ、というのが持論である。
きっと、この男にも自分と同じくらいの歳の部下がいるのだろう。平松はそう考えた。
しかし、そうは思っても頭にくる事に変わりはないので、なるべく気づかれないように遠回りして可能な限り金を巻き上げてやろうとも思った。
(神奈川に入ってからでは道を知っている可能性が高くなるので出来ないが、東京の道を走っているうちは遠回りしても気づくまい)
そう思って、いかにも道を知ってますよ感を出すために隘路を走ってみたり、そうかと思えば大通りを走ってみたりと、横浜に向けてデタラメに道を走っていると、客は存外道に詳しかったらしく、
「なんでそっちに行くんだよ! さっきのところを曲がった方が近いだろうが」
「下手くそが、俺と変われ。逆に道を教えてやる」
などと後部座席から始終罵声を飛ばしていた。
平松は、
「会って十秒でてめぇが嫌いになったからワザとやってんだよ」
などとは言わずに、
「すみませんねぇ、元々東京でやってた訳ではないのでこの辺の道は詳しくないんですよ」
などと嘘を交えながら平謝りを続け、丁度採算が取れたと思ったところで、
「ここからメーターを停止しますね」
と言って機械を止めた。
数多の酔っ払い客と対峙してきた経験から、下手に反感を買い続ける事は自分が殴られたり、脅されたりする可能性を引き上げるだけだという結論を得ており、どの辺まで客を小馬鹿にしたような事をしても問題ないかということや、どうすれば客が機嫌を回復するかなどという事を平松はなんとなく把握できる。
今回も平松の読みは的中したようで、メーターを止めた事でたちまち客の機嫌が良くなっていく。成功者の端くれらしいが、存外ケチな男のようである。
横浜に入ってしばらくすると、
「ここでいい、降ろせ」
と客が言ってきたので、平松は路肩に車を止めた。
男は運賃を払うと何も言わずにそそくさと出て行った。
(気づかなかったがもう夜も遅いらしいし、ここまでにするか。酒でも買って帰ろう)
平松は酒という物をたいして美味くないと思っており、普段あまり嗜まなかったが今夜はなんとなく呑みたくなった。
途中コンビニへと立ち寄りウイスキーと何かつまみになりそうなものを買ってから自宅へと帰り、自宅の駐車場へ車を停車すると運転席の下から塩を取り出して後部座席のドアへと撒いた。
家の中へと入り、酒を浴びるように呑むと、平松は酔った勢いを借りてそのまま眠った。