余談-1 レイモン・コティの最期の夢
本編の末尾に出てくるレイモン・コティの最期の想いです。
何故にジャンヌ・ダヴーに彼が好意的だったかです。
「首領、本当にカサンドラお嬢様には真実を知らせずに逝かれるおつもりで」
「ああ、今更、俺が実父だと明かしたら、迷惑が掛かる。カサンドラが離婚する羽目になるだろう。サキュバスのジャンヌに連絡だけしてくれ。俺が死んだ際にすぐにな。後は、サキュバスのジャンヌが取り計らうだろう」
「分かりました」
俺、レイモン・コティが、自分の亡き後のユニオン・コルスの新首領に指名した腹心の子分、目の前にいる男が、そう頷きながら言った。
ベッドの上で死ねるなんて、本当に最期は幸せだったな。
俺は、ガンからくる疼痛に苦しみつつ、そう思った。
鉄砲玉で蜂の巣になって、死んでもおかしくなかった。
自分の人生の最大の危機は、あの時だったかもしれない。
最初はどうでもいいレベルの縄張りを荒らした、荒らしていないというトラブルだったらしいが、シシリアン・マフィアとユニオン・コルスのお互いの面子から、いつの間にか話が大きくなり、鉄砲玉を飛ばしあう話に膨れ上がっていた。
当時の自分は、まだまだ下っ端で鉄砲玉に選ばれてしまった。
そこで、自分としては生きて還るおまじないとして、サキュバスを抱いて童貞を捧げようと考えたのだ。
サキュバス、と言っても、本当のサキュバスではない。
当時、自分がいたマルセイユの街娼、ジャンヌ・ダヴーの綽名だ。
シシリアン・マフィアの鉄砲玉10人が、街娼を抱いて遊び、トラブルを引き起こそうと考えたらしい。
それで、街娼のジャンヌ・ダヴーに声を掛けたのだが、これがある意味で返り討ちにされた。
普通に考えたら、あり得ない話だった。
シチリアの男10人掛かりで、ジャンヌ・ダヴー1人を満足させられなかった。
半ば伝説だが、最後には。
「あんた達は本当に男かい?私はまだまだ元気だよ。あんた達10人掛かりで私一人の相手が出来ないの」
とジャンヌ・ダヴーに10人全員が嘲笑される羽目になって、
「サキュバスだ」
と泣き叫びながら、10人全員がシチリアに帰る羽目になったとか。
それ以来、ジャンヌ・ダヴーには、サキュバスという綽名が付いていた。
他にも当時、ジャンヌ・ダヴーには色々と噂がまとわりついていた。
街娼になってから1年余りだったが、既に1000人の男と寝ている。
1日に最低2人の男と寝ないと満足しない色情狂だ。
男なら肌の色等、関係無しに誰とでも寝る女だ、いや女でも金さえ払えば誰でもいいのでは。
等々、酷い噂が乱れ飛んでいた。
だからこそ、却って俺は決断した。
こういった女と関係したら、運が開けるのではないか、と。
俺はジャンヌを買った。
「へえ。私みたいな女を抱きたいとはね。若いとはいえ、私は街娼だよ。他にいい女を抱いてもいいのに」
「サキュバスという綽名を持つお前に童貞を捧げたら、幸運に恵まれると考えた」
「はは。おもしろいことをいう」
そういったやり取りの後、俺はジャンヌ・ダヴーを抱いた。
百戦錬磨どころか、千戦錬磨を謳われていた女だ。
あっという間に俺はやられた。
「シチリアから生きて還って、出世したら、お前を俺は愛人にしたい」
「おもしろい奴だね。家に帰って寝な」
俺が果てた後に言うと、ジャンヌはそう言って、俺をベッドから追い出し、誰かの下へ出かけた。
そして、その日の内に俺はある幹部に呼び出され、鉄砲玉から外されて、その幹部の護衛に抜擢された。
それが、俺が出世したきっかけだった。
後で(それもジャンヌがマルセイユから姿を消した後で)俺が聞いた話だが。
その幹部は、当時、愛人の通称マリー姐さんを通じてマルセイユの街娼を束ねていた。
ジャンヌが、マリー姐さんに面白い男がいる、と伝えたことから、俺は抜擢されたとのことだった。
俺は幹部の護衛に抜擢されたことから、発奮して懸命に幹部の為に励んだ。
その忠誠心を評価されると共に、更に実績を挙げて行った。
また、色々と他の幹部にも自分の顔と名前が知られるようになり、徐々に地位を上昇させていった。
そして、行き就いた先が「ユニオン・コルスの首領の中の首領」と謳われる今の立場だった。
もし、ジャンヌをあの時に自分が抱かなかったら、ここまでにはなっていなかったろう。
いや、シチリア島のどこかで鉄砲玉として若い骸を自分は晒していてもおかしくなかった。
ジャンヌに感謝して、自分はユニオン・コルスの幹部になってから、それとなくジャンヌの行方を捜したが、ジャンヌの行方は杳として知れなかった。
ジャンヌの行方が分かったのは、ひょんなことからだった。
「1958年の危機」
その時、フランス第三共和政を守り抜いた軍人の1人が、アラン・ダヴー将軍だった。
救国の英雄とまでダヴー将軍は称えられたのだが、その時、ダヴー将軍の母が、ジャンヌ・ダヴーという名だと分かり、更に自分が調べたら、彼女こそが、あの時のサキュバスのジャンヌだと分かったのだ。
確かに、あの頃にサキュバスのジャンヌは、サムライ、日本海兵隊の士官に惚れ込んで、その男に金を出してもらい、街娼から足を洗ったと言われていたが、俺も含めて多くの人間がそれを嘘と思い込んでいた。
あのサキュバスが、一人の男に惚れ込んで足を洗うなんてあり得ない、と多くの人間が思っていた。
だが、本当だったのだ。
とは言え、今更の話だった。
俺は黙って、彼女を見守るしかなかった。
それに40年以上前の話、お互い60歳になろうとして行方が分かるとは。
何とも皮肉な話だった。
そして、このまま終わると思っていたが、思わぬことが起こった。
「マルセイユのサキュバスのジャンヌがレイモン・コティに会いたい、と言っているという連絡がフランス軍の秘密連絡網からありました。どう答えましょう」
「俺自身が首実検をすると伝えろ」
部下の一人が言ってきて、俺はあらためてジャンヌに会う決意をした。
そして、何度かやり取りをした末に、俺はジャンヌと再会した。
「久しぶりだね。まさか、あんたがここまで出世しているとは思わなかった」
「俺にそんな口を叩けるとは、本物のようだな」
「ふん。街娼にしてみれば、どんな男でも男に変わりはないさ」
40年以上ぶりに会ったジャンヌは、若かりし頃とそう変わらない減らず口を叩いた。
「それで、何で俺に会いたい、と言って来たのだ」
「ちょっとした頼み事をしたいのさ」
ジャンヌは、事情を話した。
息子のアランが、スペインのバレンシアにいるカサンドラ・ハポンという女性と再婚を考えていること。
その女性が財産の処分をしているが、ユニオン・コルスの下部組織が仲介料を取ろうとしていること。
その仲介料を負けてもらえないか、という頼み事だった。
俺は笑って言った。
「そんな頼み事なら、すぐに聞いてやる。お前の息子の嫁になる女だろう。代わりの仕事を回す代わりに無料にしろ、と下部組織に言ってやる。何しろ、お前がいなかったら、俺は鉄砲玉で死んでいてもおかしくないからな。命の恩人の頼みは断れねえ。ついでに言うと。俺はお前を本当に愛人にしたかったんだ」
「済まないねえ。それにしても、あんたの愛人になっていたら、私はどうなっていたかねえ」
ジャンヌは頭を下げて帰って行った。
俺は、すぐにバレンシアの下部組織に指示を出したが、下部組織は嫌がった。
回した代わりの仕事の儲けが、カサンドラの仲介料の儲けの半額程だったからだ。
俺は、とうとう凄んだ。
「知らなかったとはいえ、俺の娘から仲介料を取ろうというのか」
「いえ。それは大変なことをしてしまいました。代わりの仕事もいりません」
そう言って、下部組織はすぐに手を引いた。
俺としては、ジャンヌの息子の嫁だから、つい、そんなことを言っただけだった。
だが、下部組織の方が気を回してしまい、色々とカサンドラの過去を探り、謎に満ちていること、本当に俺の娘の可能性があることを勝手に推測してしまった。
下部組織は怯え、ひそひそと周囲に俺への取りなしを頼んだ。
そして、俺への耳にまで、そのことが届いた。
俺としては、笑いたくなる話だった。
俺は、ジャンヌを抱いてから、何人もの女と関係を持った。
若くして病死したとはいえ正妻もいたし、その他に愛人も何人か作ったし、一夜限りの関係もあった。
何しろユニオン・コルスの首領だ、女に不自由はしなかった。
だが、実の子には恵まれなかった。
口の悪い部下は、俺のことを陰で
「子種が無いのでは」
と言っていたし、俺も病院で確認しなかったが、そう思っていた。
それなのに、いきなり成長した実子、娘がいるという噂が流れだしたのだ。
とは言え、困った噂ではない、俺は放置した。
むしろ、ジャンヌが俺のところに言って来た。
「勘弁しておくれよ。カサンドラが言って来た。ユニオン・コルスの首領の隠し子という噂がどうも流れているようだ、とね。噂を消してくれないかい」
「いいじゃあねえか。謎のままにしておけば。カサンドラに箔が付くぜ。俺も実子が欲しかったんだ」
俺の口調に潜められた想い、実子が欲しかったという想いをジャンヌは察してくれた。
「ああもう。ユニオン・コルスに貸しは作るものじゃあないねえ。分かったよ。カサンドラは、あんたの隠し子。私はマルセイユにいた際に、あんたから真相を知らされていた、ということにするよ。スペイン内戦の混乱等で消息が暫く分からなかったとね。少々時系列がおかしくなるが、今更、おかしいと突っ込む人間もいないだろう。古い話で記憶が曖昧でな、といえば済む話だしね」
ジャンヌは、笑いながら言って、
「そうしてくれ」
と俺も笑いながら言った。
とは言え、ジャンヌは昔ながらの仁義を弁えていた。
それなりの金額を俺に送ってきた。
今回の件につき、無料という訳には行かない、と考えたのだろう。
俺は考えた末に、その金額をそっくり匿名でカサンドラの結婚式の祝いに送った。
ジャンヌの仁義に報い、カサンドラが俺の娘という噂の信憑性を増すためだった。
後で聞いたが、ジャンヌは笑って、息子夫婦に黙ってもらっておきな、と言ったらしい。
それから更に十年余りが経っていた。
俺が回想からあらためて覚めると、目の前の男が言った。
「孫娘のアラナ様は、アルコール依存症に苦しんでいて、麻薬にも手を出そうとしているとか。どうされますか」
「ユニオン・コルスでは麻薬はご法度だ。従来通りな。そうあらためて組織に徹底しろ」
「分かりました」
目の前の男が言った。
自分は内心で笑った。
ユニオン・コルスは表向き麻薬取引は禁止している。
だが、下部組織が麻薬取引を金儲けの手段とすることは半ば黙認状態だ。
しかし、身内に麻薬を売っては黙認できなくなる。
だから、下部組織は、国内外を問わずに身内以外に麻薬を売って儲けるのだ。
アラナは、陰では俺の孫娘だ。
こう俺がいい渡せば、アラナに麻薬を売る人間は出ない筈だ。
これが、表立って身内と言えない俺ができる精一杯のことだ。
それにしても、サキュバスのジャンヌを、俺の愛人にしたかったものだ。
あいつは本当にいい女だ。
俺はあらためてガンの疼痛に苦しみながら想った。
「それにしても、カサンドラは本当に首領の娘なのですか」
目の前の男が、俺が死ぬ前に真相を知りたそうに問いかけてきた。
「サキュバスのジャンヌが言って来たんだ。俺も身に覚えがある話だ。本当にカサンドラは俺の娘だ。それにな、あいつは本当にサキュバスだった。何しろシチリアの若い男、10人を返り討ちにするくらいだからな。そんなあいつだったら、人間の俺が騙されていても仕方ねえ。何しろサキュバスとは言え、悪魔だぜ。人間が騙されずに済むのか?」
「確かにそうですな。幾ら首領でも人間に変わりはない。悪魔なら騙されても仕方ない」
目の前の男が笑った。
「それに騙されていたとしてもいい話じゃねえか。俺にだって実の子が欲しかった。そうした時に、娘と呼べる存在が分かったのだからな。それに誰も損はしていねえ」
「確かにそうですな」
俺と目の前の男はそう語り合った。
「ともかく俺が死んだら、サキュバスのジャンヌに俺が死んだと伝えてくれ。カサンドラが俺の娘、隠し子だということはあくまでも秘密、陰の話にしておくんだ」
「分かりました」
目の前の男は、そう笑って言い、俺の前を去って行った。
本当にカサンドラが俺の娘だったらな。
そして、俺が若い内にジャンヌを愛人にできていたらな。
そう想いを巡らせるうちに、俺は病室で一人きりになったせいか、自分の涙が溢れてくるのを覚えてならなかった。
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