第22話
1945年初め、日本中が第二次世界大戦終結後、初の新年を迎えるという歓びに沸く中、彼と私は悲しみに暮れる生活を送る羽目になっていた。
私達の間の子、千恵子も総司も、第二次世界大戦中に名誉の戦死を遂げてしまったのだ。
総司はともかくとして、軍医として出征した千恵子まで戦死するとは、私にとり、本当に予想外だった。
敵の遊撃戦部隊の襲撃が千恵子の勤務していた野戦病院に行われた際に、千恵子は傷病兵を庇って戦死したとのことだった。
彼から私に慰めの手紙が届いたが、私は悲しみの余り全部に目を通せなかったほど落ち込んだ。
彼は、この前の世界大戦の時と同様、自宅へ帰ってきた際、
「ただいま」
と言い、私は、
「お帰りなさい」
と言って、お互いに抱きしめあった。
だが、あの時と違い、千恵子はいない。
いや、私達の間の子は、皆、私達に先立ってしまった。
そのことを想うと、私にとって家族は彼しかいない、という想いに駆られ、私は彼の温もりをいつまでも感じたいと想い、何十分以上も彼を私は抱きしめ、彼も私を抱きしめてくれた。
彼の頬を涙が伝っているのを私は感じ、私も涙が止まらなかった。
彼はすっかり落ち込んでしまい、陸軍中将での早期退役を希望してそれが認められた。
陸軍に残ってさえいれば三顕職さえ望める、と周囲は押し止めようとしたが、彼の決意は固かった。
また、私と彼は千恵子や総司の思い出が染みついた東京の家を去ることにした。
故郷の会津に帰ることも考えたが、今や親友となっていた土方忠子に誘われたことから、横須賀に住むことにした。
土方忠子も第二次世界大戦によって、3人の息子全てを戦死させていたので、尚更、私達に同情して、誘ってくれたようだった。
横須賀に移り住んで暫く時が経ち、地元の新聞を読んでいた私に思わぬ連載記事が目に入った。
横須賀きっての名妓となっていた村山キクが、第一次世界大戦、第二次世界大戦等の想いで話を語る、という記事だった。
私は、むさぼるように連載開始からそれを読んだ。
その記事によれば、村山キクは芸妓として、この世界ではずっと生き抜いたらしい。
何回か、芸妓を抜けるという話もあったようだが、村山キクはその気になれず、この芸妓の世界で生き抜いたということだった。
連載が終わりかけた頃、村山キクが語った言葉が、私の印象に遺った。
「いっそのこと、若気の至りで、誰かと子どもを作っていたら、と思うんです。結局、私はこの世界で、それなりに名を遺せました。でも、ずっと独り身で、もう60歳近い。近い親戚は誰もいないから、どうにも寂しいんです。後輩の芸妓達は、私を先輩として慕ってくれますし、それはそれで嬉しいんですがね。子どもを産んで、家庭をもって、そういう幸せを掴む機会は私には全く無かったのかなって」
私は、ふと思った。
前々世では、村山キクは彼との間に幸恵という子を作ったことで、芸妓の世界を抜けて事情を知っている板前と結婚して料亭を作った。
そして、幸せな家庭を築けた。
私は、それを潰してしまった。
あの時に、彼に海兵隊士官ではなく、陸軍士官になるように、私が勧めたことで彼の運命は変わり、周囲の運命も変わって行ってしまっていた。
私も岸忠子も、それなりに結婚して、一時は幸せな家庭を築けたが、結局、全ての子どもに先立たれてしまった。
さらに村山キクは、一生、独身のままで生涯を終えるようだ。
それでは、後一人、ジャンヌ・ダヴーは、どのような人生を送っているのだろう。
フランス、マルセイユにいる彼女の人生が、日本にいる私に分かる手段は基本的にない。
きっと街娼として、彼女は人生を終えようとしているのでは、と私は推測するしかなかった。
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