第21話
「それでは、母さん、生きて還ってくるから」
「本当に生きて還ってくるのよ」
千恵子は、陸軍軍医少尉として、1940年4月に出征することになり、私はそれを見送る羽目になった。
千恵子は、1940年3月に慶応大学医学部を卒業したばかりなのだが、第二次世界大戦勃発に伴い、予備役士官養成課程を終えた学生は、軍医も含めて、即日応召されることになっており、千恵子もそれに含まれる以上、当然、出征することになったのだ。
それも、国内勤務ではなく、中国に派遣されることに決まっている。
私に先のことが分かっていれば、と私は内心で悔やまれてならなかった。
1934年4月、慶応大学医学部の予備役軍医士官養成課程に千恵子は無事に合格して通うことになった。
だが、皮肉なことに、その頃から極東情勢どころか、世界情勢は坂を転げ落ちるように悪化していった。
1936年、スペイン内戦勃発。
土方勇志伯爵は、日本人義勇兵を引き連れて、スペイン国粋派支援のために英国等の影の支援を受けつつ、スペインへ出征して行った。
1937年、中国内戦が本格再開。
日本はいわゆる満州国を支持することを決め、共産中国と交戦状態に突入した。
そして、終に1939年9月、独ソのポーランド侵攻をきっかけに第二次世界大戦が勃発したのだ。
せめて、千恵子が誰かと結婚してくれれば、そうすれば、それを理由に国内勤務で済むのではないか、とはかない希望かもしれないが、そう私は願っていた。
幼馴染と言える土方伯爵家の長男、勇と結婚するとか、そう前々世でそうだったように。
だが、この世界での土方勇は、私の前々世の土方勇とは母が違い、岸忠子ではなかった、土方忠子が母親になっている。
そのためなのだろうか、千恵子は、土方勇との結婚に乗り気ではなかった。
この世界では、皮肉なことに土方忠子は、千恵子が勇と結婚するのに大賛成だったのだが。
また、先日、1940年2月に総司も陸士53期を無事に卒業し、陸軍士官の路を歩んで、満州、ソ連方面へと既に出征している。
なお、夫、彼も陸軍少将として、予備役兵を動員されて編制された第24師団の師団長に任命されて、総司と同様に満州方面に赴いている。
両親を亡くしている今、篠田家で日本国内に残るのは、私だけになってしまった。
「お父さんが、千恵子を日本国内に残すように働きかけてくれればねえ」
私は、千恵子と二人きりの時に、半ば独り言を言ったが、千恵子に諫められた。
「お母さん、何てことを言うの。私は軍医とはいえ、軍人に違いないわ。だから、前線に赴け、と上から命ぜられたら、私は素直に喜ばないといけないし、お母さんも祝福すべきだわ」
確かに、そう言われては、私は返す言葉が無い。
私は黙って肯くしかなかった。
この頃の前々世の記憶を取り戻していた私は溜息を一人、吐かざるを得なかった。
前々世では、この頃、千恵子は東京高等師範学校を無事に卒業し、土方勇と結婚して、土方伯爵家に嫁入りしていた筈だ。
そして、勇との間の初めての子を千恵子は妊娠していて、近々産まれる予定だったのではなかったか。
それなのに、この世界の千恵子は、陸軍軍医少尉として出征し、戦場に赴こうとしている。
どうしてこうなってしまったのだろう。
あの時、慶応大学医学部へ千恵子が進学するというのを、何としても止めておけばよかったのだろうか。
私は決して答えの出ない考えに沈みつつ、千恵子が横須賀港から出征して行くのを見送るしかなかった。
そして、第二次世界大戦が終わるまで、夫と子どもが全員出征してしまっている以上、私は国内、東京で一人で暮らす羽目になった。
そして、世界大戦終結までに、私は深い悲しみに襲われた。
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