第13話
そんなことが日本で起こっているということ等、欧州に派遣されている彼に伝わる筈も無かった。
それに、我が家の恥になる話でもある。
私の方も、このことは彼が日本に帰国するまで伏せたままになった。
そうこうしている内に、彼は欧州に赴いた感想を手紙に書いてくるようになった。
彼がいるのは、アルプスの麓で、山岳部隊としての訓練に勤しむ羽目になっているとのことだった。
「全く海兵隊に出向した筈なのに、山登りをしたり、山中での生存訓練をしたりばかり。陸士同期の宮崎繁三郎少尉と苦笑いをして言いかわしている、海兵隊に行って、山岳部隊の訓練を受けるとはと」
その一節を読んだ私と鶴子は、笑いかわした。
海兵隊に行って、山登りの訓練を受けるなんて、本当に質の悪い冗談みたいな話ではないか。
「米も日本の米と違う。ここ欧州の米は、パサパサしてまずい。脚気対策として、麦と混ぜて食べるから食感が絶望的に悪い。こんなまずい飯食えるか、と怒鳴りたいくらいだ。戦争が終わって帰国したら、五合の白米飯を炊いてくれ。腹が裂けてでも、故郷の会津の米味噌をおかずにして食べてやる、と誓った」
それを読んだ私は、ふと思った。
彼は、岸忠子には何と書いて手紙を送ったのだろうか。
岸忠子には、こんな故郷会津を思わせる手紙を送っていないだろう。
「それにしても、山の中での訓練だ。少しは近くのイタリアの街で遊びたいが、師団長の岸提督の厳命で、訓練完了まで街で遊ぶのは厳禁された。お前らを駐屯地の外で遊ばせる余裕はない、訓練完了まで外出禁止にするとのことだ。実際、教官はフランス軍の軍人が圧倒的に多く、意思疎通一つとっても苦労する。それから考えると、師団長の命令を無茶苦茶だと非難できない」
具体的な街の名が出てこないが、イタリアの街ということは、マルセイユという事はあり得ない。
それにマルセイユは港町で、近くに山は無い筈だ。
ということは、ジャンヌ・ダヴーと彼は逢えない。
私にしか分からないことだが、このことは私にとっては、ホッとする話だった。
更に幾つかの手紙が届いたのだが、1917年の秋に私の手元に届いた手紙に私は衝撃を受けた。
「噂話だが、最近、岸師団長の機嫌がいいのは、末娘の岸忠子の結婚が決まったからだと聞いた。土方勇志大佐の息子、土方歳一と結婚されるとのことだ。旧新選組の縁者同士の結婚だ、と部隊内では賑やかな噂になっている。岸師団長に、直接尋ねる猛者まで出たが、岸師団長に、家庭のことは秘密だ、と言われたとのことで、本当かどうかは分からない」
岸忠子が、土方歳一と結婚するらしい。
私は驚くしかなかった。
確かに既に彼と私が結婚している以上、岸忠子は独身のままの筈だ。
だから、誰と結婚しても良いのだが、その相手が土方歳一とは、予想外だった。
この世界の岸忠子は、どのような人生を歩むのだろう、と私は考えざるを得なかった。
そして、新聞報道の方が、私には先に伝わったのだが。
カポレット=チロルの戦いで、彼は初陣を飾った。
第4海兵師団の一員として、彼は奮戦したとのことだった。
「自分は、無事にこの戦闘を戦い終えることができた。キツイ訓練のお陰だ。この戦いの結果、日本海兵隊賛歌の中で、ガリポリの浜辺からアルプスの頂きまでが、我がサムライの戦場ぞ、とこれからは歌われるとのことで、陸軍出身者の我々は、海兵隊がアルプスの頂きで戦ってどうするのだ、と陰で苦笑いしている。でも、実際に戦って勝っている、と本来の海兵隊士官から胸を張って反論されると事実と認めるしかない」
彼からの手紙を読み終えた私は、ホッとした。
彼は無事に生きている、このまま生き抜いて凱旋してほしいものだ。
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