第9話
「ヴェルダン要塞攻防戦で、日本海兵隊の死傷者はとうとう5万人を超える有様か」
1916年9月のある日、新聞を読み終えた彼は、溜息を吐きながら、私に呟いた。
私はその声を聴いて、想いを巡らせた。
前々世では、彼はヴェルダン要塞に向かっている頃だったな。
この世界に来て、数年が経ち、私は段々とこの世界のルールというか、そういうものが分かってきていた。
基本的には並行した時点まで、前々世までの記憶が戻るというか、前々世の流れが分かるのだ。
前々世では、この頃の私は、彼から事実上していた婚約を破棄され、彼に私と最初に関係を持ってから別れるように迫ったことから、千恵子を妊娠していた。
そして、彼は岸忠子と結婚し、欧州に赴いて、ジャンヌ・ダヴーと関係を持っていたのだ。
なお、本当に彼と最初に結ばれた村山キクは、娘の村山幸恵を既に産んでいた筈だ。
また、岸総司やアラン・ダヴーはそれぞれの母親の胎児だった。
だが、その後がどうなったのか、今の私には分からない。
更に言うなら、彼は、横須賀に行くことが無いので、横須賀の芸者、村山キクとは逢っていない筈だ。
また、彼と岸忠子も知り合ってはいない。
何故なら、岸忠子は、海兵隊の岸三郎提督の次女で、彼が海兵隊士官になったことから知り合ったからだ。
この世界では、彼が陸軍士官になったので、当然、知り合うきっかけすらなかった。
また、ジャンヌ・ダヴーは、マルセイユの街娼だから、日本にいる彼が知り合える訳がない。
私はライバルを自然に排除できたことが、本当に嬉しくてならなかった。
私がそんな想いをしていることに気づくことなく、彼は呟いた。
「それにしても、こんなに海兵隊が死傷者を出しているとはな。日本に直接、関りの無いことにこんなに死傷者を出すことは無いだろうに」
その声が耳に入った私もそれに同意せざるを得なかった。
私の場合、前々世での記憶もあるから、その想いがより強い。
「何でフランスの地で、日本人が大量の血を流さないといけないの」
私も思わず呟かざるを得なかった。
「軍人たるもの、上からの命令に黙って従うべきだし。林忠崇元帥が、サムライとして、戊辰戦争時のフランス軍事顧問団の恩義に報いたい、と叫んだ気持ちも分かる。会津武士の末裔として、恩義には報いるべきだと自分も想う。そして、自分が、最初の希望通りに海兵隊士官になっていたら、ヴェルダン要塞に行っていたろうな。そして、自分もヴェルダンの土になっていたかな」
彼は思いつくままに話しているのだろうが、私は想いが溢れ出すのが止まらなかった。
あなたは、ヴェルダン要塞攻防戦で死ぬ運命だったのよ。
溢れ出す想いに任せて、私は叫びたくなった。
それだけは、ここへ赴くきっかけになった事柄だからか、私がこの世界に来てから、ずっと私の脳裏に刻み込まれている。
それが、この世界に来た当初は、いつなのかは分からなかったが、前々世では彼はもうすぐ戦死してしまう筈ではないだろうか。
私に千恵子を遺して。
「どうかしたのかい?急に泣き出して」
「何だか急に嬉しくなって涙が溢れたの。子どもがもうすぐ二人に増えるし、あなたは陸軍士官だから、欧州に赴くことはなく、この世界大戦で戦死することも無いだろうし、と想うと」
彼に問いかけられて、気が付くと、私は涙を零していた。
「大丈夫だよ。陸軍士官の自分が欧州に行くことはないさ」
彼は朗らかに笑って、私を慰めてくれた。
そして、11月になった頃、私は娘、千恵子を産んだ。
彼はとても喜んでくれた。
前々世では、彼と娘、千恵子が会うことが無かったのを想うと、私は感無量だった。
だが、この幸せはすぐに壊れた。
彼の欧州出征が決まったのだ。
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