入門用油淋鶏
用事と風邪で3週間ほどすっぽかしたことを謝罪します
とある飯店に少年の声が響く。
「タイエン老師とおみうけします!」
「いかにも?」
弟子と一緒に食事をしていた老人はでっかい三日月のようなひげを揺らして答えた。
「どうか俺を弟子にしてください!」
少年、シンチェンは頭を下げた。
10を過ぎたくらいの少年が必死に頭を下げる姿は、しかし老師の前では1年に数度はあることだった。
「まずは飯を食え。それからだ」
老人はそれだけ言うと自分のスープを豪快にすすった。
「あ、ありがとうございます!」
予期せず簡単に弟子になれたことに喜び、少年は席に近づく。空いていた椅子に座ろうとテーブルに手をつくと、一緒に食事をしていた弟子が並べられていた皿を遠ざけた。
何気ない風を装っている顔からは、逆に『食べさせない』という意思がありありと感じられる。
「あの、すみません。俺、飯を頼むような金は持っていなくて……」
老人は何も答えない。
ひとまず座ろうと腰を下ろすと、そこに既に椅子はなかった。シンチェン少年はひっくり返る。
あっけにとられて数秒思考が止まった。
「よろしいだろうか。タイエン老師」
そこに二人の男が話しかける。
一人は中年、もう一人は青年といった風情だ。いや、青年は背が高いせいでそう見えているだけで、もしかするとシンチェンの少し上くらいかもしれない。
タイエン老師はジロリと中年の男をねめつけた。
「ま、ま、天は自ら助くるものを助けるともいいますし」
中年の男が堂々と言い訳すると同時、背の高い少年が前に出る。
「タイエン老師、俺はホン・ズゥ。俺を弟子にしてください」
「ふん。まず飯を食え」
「はい。しかし俺は他人の飯を奪うような野蛮人ではない」
ホン・ズゥはそういうと料理を注文し、ドカリと椅子に腰を下ろす。そうして机の上の料理を食べ始めた。
ああ、そうか、シンチェンは悟る。
やはりカネがないとどうにもならないのだ。
しかし、しかしだ。
たとえ噂で武の仙人と言われるタイエン老師がカネで人を見分けるとしても、行いや心性が噂と違っていても、シンチェンが強くなれるのなら弟子になるしかない。
「タイエン老師、お願いします! 俺を弟子にしてください!」
シンチェンは立ち上がってもう一度頭を下げた。
「故郷のためなんです! 今、ダズゥオってやつがカネで大男を雇っていて、今は何とかなっているけどだんだんと抑えが効かなくなりそうなんです! 故郷の……いや、家族のために! 父と母と姉と弟のために俺が強くならないといけないんです! お願いします!」
老人は変わらずチャーハンをかきこんだ。
シンチェンは奥歯を噛んで、もう一度――
「少年、頭の位置を下げてみたまえ」
先ほどの中年男がそういった。
そう言って中年の男は弟子の座っている椅子の足を何度か蹴った。頭が高いというのなら、シンチェンは床に座り込んだ。老師はもはや殺気を飛ばしかけている。
「ははは、私の息子は見栄っ張りでね。もう退散しよう」
そういうと中年の男は退店しかけ……入れ替わりに入ろうとした男と女の子が知り合いだったらしく、出口近くのテーブルについて料理を頼んだ。
新しく入ってきた男は太っていた。よく見ると、脂肪の下に筋肉がついており、みっちりとした身体であることが分かる。
女の子の方は健康的な身体つきで、姿勢がとてもいいのが印象的だった。
恥も外聞も捨て去ったシンチェンが床に額をつけて老師に頼み込んでいるところにすたすたと近づくと先ほどの青年と同じように言った。
「タイエン老師とお見受けします。私はリユァンと申します。私を弟子にしてくださいませ」
老人はため息をつくと同じ言葉を繰り返した。
「まず飯を食え」
「はい。ではお言葉に甘えて」
リユァンは優雅に椅子に座る。そして小皿と箸をとると料理をとって食べ始めた。
――シンチェンは聞き逃さなかった。
リユァンが座るとき、座るには不必要な音が聞こえたことを。
あの音をシンチェンはすぐ前に聞いた。椅子を蹴る音だ。しかも数度聞こえた。何度か、いや何人かが椅子をけり合ったのだ。
何のために? 決まっている。シンチェンがこけた時のように椅子をずらす意地悪をしようとしたのだ。ではリユァンはなぜ座っている? 止めたからだ。椅子を取られたことを知って自分の足を使って奪い返したのだ。
シンチェンが目をやると、リユァンはすました顔で椅子に絡めていた足を戻した。
シンチェンは自分が間違っていたことを知った。
タイエン老師はカネがないなら来るな、など言ってはいない。こういっているのだ。
『入門試験だ。飯を奪って食ってみろ』と。
そしておそらく、それくらいは正しく察してもらう、と。
シンチェンは笑った。
「失礼します!」
シンチェンはテーブルにとびかかる。
息を合わせたかのように老師とその弟子が料理の大皿を何枚も持って飛び退った。ホンとリユァンだけがテーブルに残されてため息をついた。
老師だけでなく、三人いる弟子もシンチェンからすれば同じ人間とは思えなかった。全身を使って突っ込んでいくシンチェンをかわし、いなし、時には転ばせながら、皿から料理を食べ、一滴もこぼさず紹興酒を飲み、適度に座って休んでいた。
シンチェンが汗だくになり、先ほど弟子入りしたホンとリユァンを連れてきた中年二人がシンチェンを肴に飲み始めた酒も料理がなくなってしまった頃。
弟子のひとりが食べ終わった骨付きの鳥のあげものの骨を投げて捨てた。
シンチェンは空中でそれに飛びついた。
手につかめたと思った瞬間、あれこれ意識するより早く皮と筋のわずかについた骨を口に入れ――
骨ごとかみちぎった。
口に入らなかった部分は床に落ちるがそれも気にせず、ゴリゴリと筋と皮と骨と骨と骨をかみつぶす。何度も。何度もかみ砕き、飲み込んだ。
骨を投げ捨てた弟子のひとりが『え? これって俺のせい?』と言いたげな視線を仲間に送るが、残りの二人も口を開けて固まっていた。
そのうちの一人の手から紹興酒が滑り落ちる。
シンチェンがそちらを向くと、土瓶を落とした弟子は慌てて拾う。シンチェンがそこにとびかかると、弟子も飛びのくが、そちらには目もくれず床に落ちた酒を身もふたもなく音を立ててすすった。
弟子は再び固まり、ホンも目を見開いて固まり、リユァンは見たくないと目を背けた。酒盛りしていた中年二人は大盛り上がりである。
そしてタイエン老師は隠れた口でため息をつき、にやりと笑うと鶏肉を食いちぎって声をかけた。
「猿か、犬か、それとも悪鬼の類か……まぁそれならば叩き直すか叩き殺すかよの。いつまですすっとる! これでも食うとれ馬鹿弟子め!」
馬鹿『弟子』。そう言って投げつけられた、いくらか肉も残った鶏肉をシンチェンはつかみ取るとつい骨ごとかみ砕いた。