二対の人狼
静かな朝。私は一人、母屋から遠ざけるように建てられた簡素な離れで目を覚ます。寝間着から仕立ての良い着物に手際よく着替えると、襖越しに人がこちらに来る気配を感じる。
「朝ごはんをお持ちしました」
「そこに置いて、行ってよいですよ」
「かしこまりました。では、失礼いたします」
顔は見ていない。当たり前だ、私と使用人の彼女を隔てた襖を開いていないのだから。
分かるのは、昨日とは異なる女性がご飯を運んできたということだけ。
私は足音が遠く聞こえなくなった後に、襖を開いて廊下に虚しく取り残された朝食を部屋に引き入れた。昼も夜も、この繰り返し。必要最低限の物資を与えられ、誰とも顔をあわせることなく、無用の時をただ生かされ続けている。
「とみ、母上、おはようございます。今日も山の緑は生い茂り、暖かな日の光が大地を照らす、心地の良い朝になりました」
手製の仏壇に手を合わせ、開け放した庭側の戸から縁側に出て朝食を摂る。山の空気をいっぱいに吸い込むと、鬱々とした気持ちが全て洗い流されていく。
人でありながら、獣の耳と尾を持つ私に、あえて近づく者はいない。大抵の人が私を恐れ、忌み嫌う。唯一私を愛し育ててくれたとみも二年前、私が十五になる前に亡くなった。母は、私を産んで数日中に亡くなったと聞いている。
この耳と尾は、母方から受け継ぐ呪いだという。なんでも、母の祖先が山を侵したことにより神から与えられた罰なのだとか。昔は理性を失い獣化して人を襲うなんてこともあったそうだが、時が経ち、世代が移ろうにつれ呪いも弱まり、今ではただ耳と尾が生えているだけとなった。その内、意識すれば消すことも可能になるかもしれない。
私は母を恨んだりはしていない。むしろ命を賭してまで私を産んでくれた母には感謝している。たとえ孤独になろうとも、私は荒んで卑しい人にはなりたくないのだ。いつでも清らかな心を持ち自然を愛する。それがとみの教えである。
仏壇も、母を弔うためにとみと廃材を集めて作った。
「今日は天気もよく、とても穏やかだわ。絶好のお散歩日和ね。とみには危ないから山に入ってはいけないと言われていたけれど、少しくらいならいいですよね」
誰にともなく呟くと、下駄を履いて食べ終わった食器を持ち、庭の隅に流れる小川へ洗いに行く。布で丁寧に水気を拭き取り、縁側へ戻って食器をお盆に並べると、襖を小さく開いて廊下に出す。こうしておけば、次にここへ来た使用人が回収してくれる。
私は母屋の喧騒に気づかぬふりをしてすぐに襖を閉め、背を向けた。視界には、四角く切り取られた庭が映る。
この庭も、母屋のものと比べれば簡素なものなのだろう。それでも、私が様々なことを学んだ思い出ある庭だ。母屋がどのような造りなのかは知らないけれど、一部屋だけの小さな離れと木々で遮られた静かな庭で送る日々を、私は十分楽しんでいる。
「いけない、山へ行くなら急がなくては。お昼になると、また誰かが食事を運んで来てくださるから、それまでには戻らないと」
我に返り、私は慌てて縁側から外に飛び出した。この離れは山の麓に建てられているから、庭がそのまま山へと繋がっている。私は適当に登れそうな場所を見つけて足を踏み出した。庭の固く乾いた地面とは違い、山の土は湿気を多く含んでいる。加えて落ち葉や背の低い植物でかなり足元は不安定で、油断していると今にも体を持って行かれそうだ。
改めて気を引き締め、木々に手をつき一歩一歩慎重に進んでいく。気付いた時には下駄を片手に足袋で歩いており、着物の裾は泥で汚れていた。
途中、少しだけ広い場所に出たので、大きな石に腰掛け休憩した。山を登ったのは初めてだったが、不思議と恐怖は感じておらず、むしろもう少し進んだ先には何かあるのではないかという好奇心で満ち溢れていた。
「行こう、行かないと」
それは何かに呼ばれている感覚に、近かったのかもしれない。
思いの向くまま、迷いなく前へ。疲労感が溜まりだす足を労わり、励まし、何とか持ち上げてもう一歩。
そうして見つけたのは、草木に紛れるようにして存在する小さな洞穴だった。
獣の巣だろうか、気になって近づこうと手を伸ばし、足を動かしかけたその時。
「誰!」
突然響いた人の声。
私は身をこわばらせ、無意識に獣の耳を両の手の平で覆い隠した。
「誰なの! ……もしかして、人間?」
恐る恐る声のする方に視線を向けると、そこには木の影に隠れはっきりとは分からないが、二本足で確かに直立する、何かがいた。
「えっと、一応、人です」
震える声をなんとか抑えてそれだけ言うと、何かは木の陰からこちらに向かってゆっくりと歩み出し、私にその姿を認識させた。
視覚に入った情報を徐々に分析し、了解する。同時に、私の体は硬直した。喉からかすれた息が漏れ出し、目の前の事実を確認するかのように、脳裏に浮かんだことを口にする。
「あなたは……狼」
そういえば、とみが言っていた。山には狼がいるから、不用意に近づいてはいけないと。山が危ないと言われるのも、そのためだと。
「そう、狼。人間がこんな場所にいるなんて珍しい。しかも、一人で」
はっきりと言葉を話し、木陰から姿を現すその所作はまさに人のそれ。なのに私の瞳に映るのは、紛れもなく狼だった。
狼は私をまじまじと見つめ、ふと不思議そうな顔をする。
「君は人なのに、耳と尾があるんだね」
その言葉に、先ほどまでやけにぼんやりとしていた思考が急速に回り出す。獣耳が小さく跳ね、尾の毛が逆立つのを感じる。ふと視線を下に向けると、耳を抑えていたはずの両手がそこにはあり、全てを理解した。
ただ私は、苦く笑うことしかできない。
「そう、だから一人なんです。誰も私の側にはいたがらないですから」
乾いた声で笑っていると、狼はいくらか警戒を解いた面持ちで私のすぐ前までやってきて横を向くと、何のためらいもなく草の上にしゃがみ込んだ。釣られて私も腰を下ろす。
「君も一人なんだね」
「ということは、あなたも?」
私の問いかけに狼は大きく頷いた。
「狼なのに人の心を持ってしまったんだ。そうしたら群れから、お前みたいな変わり種を共に連れて行くわけにはいけないって言われて外された。どうしたらいいか分からず、一匹でうずくまって鳴いていた時、神様が現れておっしゃったんだ。可哀想に、人の心を持ったがためお前は一匹で生きるしかなくなったか。特別に人の姿をとることができる力を授けよう。人の言葉も、服も与える。あとは好きにしなさいって。気づいたら、人間みたいな格好をしてた。言葉も分かるようになってた」
なんとも勝手な神様である。けれど、一つだけ分かった。
この狼と私は、決定的に違うということ。
「あなたは、人の姿になってどう思ったのですか?」
「よく分からないけど、一匹でいるなら狼でいるより楽なんだろうって思う。結局、君と同じで耳と尾はあるんだけどね」
「そうですか……」
視線を伏せて相槌を打つと、狼は急に私の手をとり強く握った。
「え、ど、どうしたのですか」
「一人と一匹、だったら問題ないよね」
仲良くなりたい、そう言ってるんだと直感する。私は、一人沈んだ気持ちでいた自分が、なんだかおかしく思えた。
「そう、問題ないですね、よろしくお願いします。私は仄香。あなたは?」
「名前……ほのかが君の名前なんだね。でも、狼に名前はないんだ。人間は親から与えられるそうだけど、狼にそういう風習はない」
「だったら、私がつけてもいいかしら」
嬉々として頷く狼。風になびくその毛並みを見て、ある単語が思い浮かんだ。
「蒼、蒼がいいです」
「えっと、そう?」
「えぇ、こういう字を書くのですよ」
私は近くに落ちていた木の枝を手に、地面の落ち葉を避けて土に漢字を書く。
「どうですか」
「漢字は難しい。けど、響きが透き通っていて綺麗。ありがとう、気に入った!」
何度か蒼と仄香を交互に呟き、楽しげにこちらを振り向いて微笑む狼の蒼。こうして誰かと触れ合うなんて、いつぶりだろう。
「ねぇほのか。人間は自分のことを私とか俺とか僕とか、いろいろな呼び方をするよね。でも、どれを使ったらいいのか分からないんだ」
そんな些細な疑問にも、私は真剣に頭を悩ませ答える。
「蒼は、男性ですよね。人間の男の人はよく俺や僕を使われますけど、私の父は私を使いますよ。結局のところ、好みではないでしょうか」
「なんだか難しいな。そうだ、ほのかがかわりに選んでよ」
私は少しだけ首をひねり考えるが、すぐにあれが一番と顔を上げ蒼を見た。
「でしたら、年頃の男性は俺を使う人が多いですが、蒼は安らかで暖かい空気を纏っていますから、僕が合うのではないでしょうか」
「分かった、僕だね。これでほのかと話しやすくなるよ。また来てくれる?」
「もちろん、私で良ければ」
自然と笑顔になっていた。会話がこれほど楽しいものだなんて、今まで知りもしなかった。
「ありがとう。でも、ほのかは麓から歩いて来たんだよね。いつもここまで登って来るのは大変だろう。かといって、ぼ、僕? が下るわけには」
それはそうだ。もし私以外の誰かに見つかれば、何をされるか分ったものではない。私はともかく、蒼のように生粋の狼が人の形をしているなんて知れたら……あまり考えたくはないな。
思考を巡らせていると、不意に思い浮かんだことがあり、思わず蒼の方へ身を乗り出して提案した。
「少し下に開けた場所がありましたよね。そこでお話ししませんか?」
「うん、そこなら分かるよ。ほのかが登ってこられるなら、次からはそこで会おう!」
蒼は小刻みに獣耳を動かし、体を左右に揺らして喜びを表現した。私は思い切って、もう一歩踏み込む。
「明日、来てもいいですか」
動きを止め、目を大きく見開き、こちらをじっと見つめる。その瞳は煌々と輝き、言葉はなくとも返事を感じ取ることができた。
「ありがとう」
それから蒼と少しだけ言葉を交わした後、木々の影が短くなっていることに気づき、慌ててもう帰らなければならないという意を伝えた。蒼は残念だと耳を伏せ肩を落としたが、例の開けた場所までは快く送ってくれた。
私が振り返って手を振ると、蒼も真似をする。またね、と微笑む蒼に、さようなら、また明日来ますね、と言い残し、私は山を駆け下りた。不思議と土のぬかるみも張り出す木の根も気にならず、軽やかに下ることができたため、予想より早く麓まで着いた。
額に浮く汗を袂で拭いそうになり、慌てて懐紙を取り出す。足袋を脱いで小川で土を洗い流すが、綺麗にはなりそうもないためさっさと諦め、手と足をすすぎ下駄を履いて部屋に戻る。
丁度こちらに向かってくる足音が聞こえ、ほっと胸をなでおろした。どうやら間に合ったようだ。
そしてまた、いつも通りの一日に戻る。しかし気分はいつもよりいくらか晴れやかだった。
それからは、雨の日と風の強い日を除いて毎日、約束の場所へ訪れるようになった。
朝ばかりではつまらないからと、昼から夕方にかけて会いに行ったこともある。言葉を交わして人のことを教え、山を散策して自然を教わる。私達はそんな関係だった。
ある時蒼は、いつも足袋で歩いてくる私を見て、少しでも足の負担がなくなるようにと、山草を編んだ草履を手作りしてくれた。草履を満面の笑みで渡す蒼の手は擦り傷だらけで、そこまでして私なんかのために編んでくれたのだと思い、目尻に溜まる雫をどうにか堪えながら、必死に笑顔を作ってありがとうと伝えた。
誰からも必要とされず、人から避けられて生きてきた私にとって、蒼から与えられる無条件の優しさは、かけがえのないものだった。無益で忌み嫌われる私でも、まだ生きていても良いのだと感じた。
それから、山を登る際には必ずその草履を履いている。私の足に丁度良いそれのおかげで、山に登るのがさらに楽しく軽快なものになった。
思えば、誰かからの贈り物だなんて、これが初めてだ。
「どうして仄香は一人なの?」
そんな純粋な疑問を投げかけられたことがあった。私は言葉に窮するが、やがて事情をかいつまみながら説明する。
「この耳と尻尾は生まれつきで、母からの受け継いだと聞いています。そんな母は私を産んですぐに亡くなりました。父は、村で有名な商家の長で、私以外の大切な家族がいます。父にとって母は気慰め、一夜限りの仲だったのでしょう。しかしお腹に私ができてしまった。母は体が弱く、私を産めばそう長くは生きられないと分かっていたそうですが、子どもを見捨てられないからと出産を決め、父も他に身寄りのない母を放っておけず、家に置くことにしました。きっと少なからず責任は感じていたのでしょう」
そこで私は一度言葉を切り、深呼吸をする。蒼は真剣な表情で、私の言葉に耳を傾けてくれていた。気を取り直し、話を続ける。
「私がこのように特異な容姿でも、母が亡くなった後に殺されなかったのは、父が世間体を気にしたからだと思います。小さな村ですから、出産のことはすぐに村中へ知れ渡ったのでしょう。父は商売人、むざむざ赤子を殺したとなれば評判が下がってしまう。それを恐れて、殺しはせずに、母屋からは遠く離れた場所でひっそりと育てた」
蒼は切なげに喉を鳴らす。やはり、こんな重い話はするべきではなかっただろうか。私は蒼を安心させるため、まっすぐに前を見て一言付け加えた。
「けれどね、私は父にも感謝しているの。なぜなら、こんな忌わしい身の私でも、生きることを許してくださったのだから」
産んでくれた母、生かしてくれた父。何も恨むことはない。
蒼はしばらく黙ってうつむいていた。やがてゆっくりと顔を上げ、私の瞳を覗き込む。
「教えてくれて、ありがとう。僕、仄香のことなにも知らなかった。でももう大丈夫。これからは一人じゃないよ」
励まそうと笑みを浮かべる蒼を見て、胸がいっぱいになった。
「蒼に会えて、よかったです」
「僕もだよ。種族は違っても、僕らは似た境遇だから、きっと支えあっていける」
その言葉に、私は大きく頷く。しかし、胸の奥で何か痛む物があった。その何かには気づかないふりをして、静かに蓋をする。
「だけど、そうすると仄香は誰に育ててもらったの?」
途端に蒼は不思議そうな顔をして首を傾げた。私はころころと変化する蒼の表情がなんだかおかしく思え、込み上げる笑いを抑えながら答える。
「それはね、とみという使用人さんですよ。彼女だけは私を怖がらなかった。母代わりだったわ。誠実で躾には厳しくて、でも心は優しいとても素敵な人でした。もう亡くなってしまいましたけど」
私が苦笑すると、蒼は私に少し詰め寄り、続けざまに問いを投げる。
「どうしてその人は亡くなったの?」
「えっ……と、それは」
考えてもみなかったことに、私は言葉を詰まらせる。そう言えば、どうしてとみは急に亡くなったのだろう。
「病気と、聞いてはいるけれど」
でも、亡くなる前のとみに病気を患っているような様子はなかった。私はただ、病で死んだということ伝えられただけ。あの時は悲しみが強くて何かを考える余裕はなかったけれど、言われてみると謎に包まれたところが多い。結局、亡くなったとみには会わせてもらえなかったし。
「死に様に立ちあうことはできなかったんだね」
どうして言ってはないのに分かったのだろう。きっと私は、そんな顔をしていたのだ。蒼は体を強張らせた私の肩を優しく抱いて、耳元でそっと囁く。
「分かるよ。狼だって、知らないうちに仲間が消えていたら悲しいもん。悲しくて悲しくて、みんなで鳴くんだ。そうしたら、もし生きていたなら僕らの居場所が分かるだろう。……仲間の死に寄り添えないのは、とっても辛いことなんだ」
季節外れの雨が降り出し、着物の裾が濡れ始めた。
その日は、珍しく麓の近くまで送ってくれ、二人して雨に濡れながらそれぞれの家に帰った。
しかし、それがいけなかったのかもしれない。いや、前々から怪しまれていたのだろう。毎日のように部屋を抜け出し山へ入る。使用人が食事を運ぶ時間には戻るようにはしていたけれど、誰かに見られていても、不思議ではなかった。あるいは、元々監視されていたという可能性もある。
その日の朝は、やけにうるさかったように思う。木々がざわめき、草花が揺らぎ、始終私の心を騒ぎ立てる。
何度も深呼吸をしながら、どうにか寝間着から着替えたところで、静かに、しかし力強く床板を踏みしめる音が近づいてきた。直感する。瞬間、背筋に冷水を伝わせたかのような感覚に陥る。身動きの取れないまま、廊下側の襖が勢いよく開かれる。
「仄香、いるな。ついてきなさい」
振り返り、そこに立つ人物を見る。……父だ。
私の視界に入り全思考を支配したのは、幼い頃一度か二度見ただけの、その印象からは随分と歳をとった威厳ある父の姿だった。
「どう、して……そんな急に」
「自分に聞いてみることだな」
父は冷ややかな目で私を一瞥すると、右手に扇子を持ち、まっすぐ前に出して容赦なく言い放つ。
「お前たち、この部屋を綺麗にしておけ。私はこの子を連れて行く」
部屋にどたどたと数人の男性使用人が雪崩れ込んでくる。そこで初めて、父の後ろに何人もの使用人がいたことに気づく。
それまでは、父以外なにも目に入らなかった。世界が真っ暗な闇に包まれ、父だけが認識できていた。それ程までに強い存在感を放ち、私を圧倒していたのだ。
「さぁ行くぞ」
父が硬直してその場で震えるしかない私の腕を握り無理やり引っ張る。
痛い、その言葉すら喉から出ることはなかった。
されるがまま、連れて行かれそうになった時、一人の使用人が父に声をかけた。
「旦那様! こちらにあるものはどういたしましょう」
「ふん。ここにあるものは全て燃やしていい。跡形もなく消し去るんだな」
父の言葉に感情はなかった。いや、ただ一つ、怒りだけは僅かに感じ取れた。
父は私を忌まわしきものだと思っている。その現実を突きつけられ、さらに震えは大きくなる。
分かっていた、十分理解していたつもりだった。けれど、いざこうして直で言われると、こんなにも辛いものだと知る。
「では、このがらくたも燃やしますね」
そう言って使用人が手にしたのは、とみと作った仏壇であった。毎朝、あれに向かって手を合わせ、二人の冥福を祈ることが日課で……。
まだ、今日はしていない。
気づいたら手を伸ばしていた。
「お願い、どうかそれだけは壊さないで!!」
同時に無情な決断がなされる。
「気にするな。やれ」
使用人は、泡を食ったような顔をして私を見た後、何事もなかったかのように手製の仏壇を外に放り投げる。幼子と一人の女性が少ない材料でどうにか作り上げたものだ。地面に叩きつけられた衝撃で、呆気なく崩れ去り、元の形を失う。
私はそんな仏壇を呆然と見つめ、膝をついた。
目の前で無情にも繰り広げられる現実を、ただ成すすべなく見送るしかなかった。
「立て、立ちなさい! お前の居場所は、ここではない」
掴んだ腕を力任せに引き上げ、そのまま振り向くことなく廊下をひた進む。
私は肩越しに、荒らされていく昨日までは確かに自分の部屋だったそれを見つめ、引きずられるようにして母屋へ続く長い廊下を歩んだ。
暗い暗い部屋だった。あるのは、申し訳程度の布団と文机。そこに私は、半ば軟禁するかのように入れられた。外では夜以外常に人が見張っているらしい。母屋の中といっても、日は入らず、湿気の多い鬱々とした場所だ。到底人が寄り付くとは思えない。だからこそ私をここに移したのだろう。時折聞こえてくる楽しげな笑い声が、むしろ心を抉っていく。
不思議だった。何故父は私を嫌っているのにわざわざ母屋へ連れて来たのか。しかし、この部屋で時が経つにつれ納得する。ここは、離れよりも辛く苦しい場所だ。太陽の光は浴びれない、庭に通ずる戸はない、あるのは見張りがいる薄い襖が一枚だけ。逃げ場なんてどこにもなかった。一日を、布団の中でうずくまり、耳を塞いで時間が過ぎるのをじっと耐え抜くしかなかった。与えられた本を手に取る気には到底なれやしない。
外にいる使用人に尋ねてみたこともある。もう庭を散歩することはできないのかと。使用人は一言無理だと言った。庭に出れないということはつまり、蒼にはもう会えないということを示していた。
目を瞑るといつも思い浮かぶ、蒼の顔。今日が晴れか雨かは分からないが、きっと私が訪れるのを待っていてくれてるはずだ。一言でいい、何か伝えれば良かったのに。
思えば壊さないでと叫んだ時、そこにいた使用人が驚いた顔をしたのも、私のように人外なものが自分に向かって何か言ってきたため、慄いたのだろう。でなければ小娘一人が何を言おうと気にならないはずだ。私はそういう存在であったのだ。
一人きりでいると、どうにも悪いことばかり考えてしまう。このまま私は、一生を悶々とした気持ちを抱え過ごすのだろうか。
蒼に会えたら、何かが変わるのだろうか。
「あの忌み子、どうやら誰かと密通していたらしい」
「何、あの山でか? あそこは険しくて早々登れたものではないだろう。して、相手は男か」
静かな部屋の中で、研ぎ澄まされた耳が拾った話し声。
「そこまでは分かんねぇよ。ただな、あの子の存在がおおっぴらになるのは困るってんで、旦那様は母屋に閉じ込めたんだとよ」
「それはそうさ。あんな耳と尻尾の生えた娘が、万が一村から脱走しようものなら、たまったもんじゃねー。にしても、そんな娘に惹かれる男がいたとは、とんだ物好きもいたもんだねー」
「だから男とは決まってないと」
そこまで聞いてしまい、私は慌てて左右に首を振り会話から意識を逸らした。とても心地の良いものではない。私のことを、話の種にして面白がっている。
けれど、これで離れから追い出された訳が分かった。やはり誰かに、見られていたのだ。
もう少し慎重に行動していれば……。悔やんでも悔やみきれるものではない。どうか蒼が、人に見つかって辛い目に遭っていないことを祈るばかりだ。
何日が無駄に過ぎ去っただろう。
私は毎夜、悪夢にうなされていた。慣れるものではなく、ただ布団の中で苦しみもがいていた。しかしその夜は、特に夢がはっきりと脳に描かれた。
最初に暗闇から現れたのは、赤。
「火を放て! 山を焼き尽くせ!!」
父に似た面影を持つ老人が、険しい表情で使用人達に命じる。使用人が投げた小さな火種は、生い茂った緑の中瞬く間に広がり、木々は悲鳴をあげて燃え盛る。多くの動物は住処を失い途方にくれるが、そんな嘆きが老人に届くはずもなく、暴虐は留まるところを知らない。
笑い声が聞こえた。なんとも下品な声だ。
老人の顔は炎に照らされ赤く煌々と輝く。
やがて、老人は開いた土地に立派に家を建てた。どうやら、このところ波に乗っている商家の頭取だったらしい。長の座は息子に譲り、自分は隠居するのだとか。そしてその息子には、間も無く子どもが生まれる。
元気な鳴き声、周りから湧く歓声。第一子の誕生を祝う数々の言葉。そして息子夫婦が見たものは、獣の耳と尾を持った赤子であった。
歓声は非情にも疑惑に変わる。
「神のお怒りだ」
誰かが呟いた。
「罰だ」
またどこかで誰かが言う。
ざわざわと皆口々に話しだし、その場は一時騒然となる。
そして誰もが理解した。山を、自然を犯しすぎた罰を受けたのだと。これは神から与えられた呪いだと。
遠くで、獣の唸り声が聞こえた気がした。
何かがそっと、頬を撫でる。
――永遠にさようならだ、仄香。
そこで私は目を覚ました。重い体をゆっくりと起き上がらせる。
「酷い汗……」
心なしか、息も荒いように感じる。
手の甲で額に触れた。じんわりと肌に汗が吸い込まれる。そのままゆっくりと手を下ろし、指先が頬に触れた時、ふと気づく。
生温かい。
そこで私の意識は覚醒する。
部屋の空気を思い切り吸い込み、感じる。
微かだが、確かに残っている獣の匂い。
直感した。蒼が来たのだと。
瞬間私は布団から飛び出し、羽織を掴んで部屋を出た。蒼が辿ってきた道程が、見て取れるようだった。
そのまま私は山に入る。目指すはいつもの待ち合わせ場所。もしかしたら、蒼がそこで待っていてくれているかもしれない。
満月が、私の行く先を淡く照らし出す。
暗い山の中でも、僅かな光があるから、私は歩めた。踏みしめた小石や肌を引っ掻く小枝の痛みは一切感じなかった。
そして辿り着いた約束の場所に、蒼はいなかった。気配はおろか、匂いすら感じない。
蒼はここに、来ていないということだろうか。
「まだ、諦めてはだめ。お願い足よ動いて」
私は落ちかけた肩を懸命に張り、再び山を登り始める。
きっと、あそこなら。あの洞穴なら、蒼がいるはずだ。流れる汗もそのままに、ただひたすら、前へ進む。
見つけた。初めて見た時と何も変わらない小さな洞穴。ここに蒼は住んでいると言っていた。強くしみ込む獣の匂い。間違いなく蒼のものだ。
ふっと全身の力を抜いて、穴に駆け込む。
「蒼、いませんか。仄香です。会いに来られず申し訳ありませんでした。どうか許して……」
しかしその声は儚くも洞穴内で反響し吸収されていく。返事は聞こえない。気配も、側にいると感じるほど強くはない。
まるで、つい先程までここにいたかのような、しかし既に出て行ってしまった後だったという虚しさだけが、洞穴の薄闇には残されていた。
慌てて外に引き返し周りを見渡すも、そこには何一つ変わらない山の景色があるだけで、蒼がどこへ行ったのかは分からない。
呆然とその場に立ち尽くし、もう温かさを感じられなくなった頬に手を当て空を見上げる。
「分かっています。どうして蒼が山を下るという危険をおかしてまで、私の元を訪れたのか。私に裏切られたと思ったあなたは、人から酷い目に遭わされた先祖の記憶を思い出して、狼の姿で私を殺しに来たのでしょう? けれど、できなかった。蒼は、とてもとても優しいですから、悪夢に苦しむ私を見て殺せなくなったのでしょう? ごめんなさい、蒼。もう裏切られだなんて思わせませんから……戻ってきて」
満天の夜空が、今日はいやに冷たく滲んだ。
ねぇお願い。もう一度、どうかもう一度、頬を伝うものを、拭ってくれはしませんか。
月が沈み、朝日が昇る。人々が目覚めだすと同時にいつもは静かな山が騒がしくなる。きっと、私が居なくなったことに気づいた家の者が捜索に入ったのだろう。けれどそんなことはどうでも良い。私はただ、この洞穴で祈り続けるのみ。
蒼が、どうか私のことを許して、帰ってきてくれることを。私はもう、一縷の希望に縋るしかないのだ。
少女は次の日も、また次の日も、眠ることなく洞穴で祈り続けた。少女の父が遣わせた捜索隊は、山をくまなく歩き回るも、不思議と洞穴が見つかることはない。三日三晩少女は祈り続け、そして四日目の朝。少女は閉じた瞼をゆっくりと開き、視線を上の方へ動かす。その目は、どこか遠くを見つめていた。
「これが、呪われた者の最期。大丈夫、怖くない。けどね……」
――残り香だけが、今は愛おしい。
少女は眠りについた。深く優しい香りに包まれ、その生涯を何一つ恨むことなく闇の中に落ちていった。
夕暮れ時、父はついに少女の発見を断念し、捜索隊を引き上げさせる。
憎々しげに吐き捨てるは、祖先の行いを恥じた言葉ではなく、少女への暴言。
「忌み子風情が私を謀るとは。あいつに呪いを負わせるため、わざわざ孤児だった娘を攫い子を孕ませ、神の呪いが下るよう呪術師に式を執り行わせたというのに。……相手の男とともに末代まで呪ってやる。決して幸せになどさせんぞ。神の罰から放たれようとも、私の恨みからは逃れさせん。永遠に、苦しむが良い」
歯が軋むほど強く噛み締め、山を睨みつける。
しかし、どれほど深い怒りの念があろうとも、少女が呪われることはない。なぜなら少女は、もうこの世にいないのだから。
少女の魂が受け継がれることも、ない。
その夜は珍しく、狼の鳴き声がいつまでもいつまでも聞こえていたという。
時は移り、村というものが殆ど姿を消した時代に、あの洞穴は見つかった。平穏な心を持った人間はそこに立派な神社を建て、洞穴は神聖なる祠として大切に扱われた。舗装された洞穴の前に、祀るものを示した石碑が立てられる。
そこには「二対の人狼 ここに眠る」と記されていたそうな。
ここまで読んでくださりありがとうございます。数か月前に課題用で書いたのもですが、結局別の作品を出したのであげることにしました。
何かに影響されてのこういう私はあまり書かないエンド。たまにはこういうのもいいですがやはりどこかもやもやしてしまいますね。異類婚姻譚の話を授業で習い、自分もそういった要素のある作品を書きたいと思ったのが始まりだった気がします。日本人は昔から割と異類婚姻譚が好きみたいです。
それではまた。
2016年 8月26日(金) 春風 優華