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その檻の名は。

作者: 桔梗楓

ツイッターの診断メーカー『ヤンデレ小説を書いたったー』にて出てきたキーワードを元に書いた小説です。

『食い意地が張っていそう』な『ギャル男』と『マザコン』な『社長』でした。

 都内ビジネス街に佇むオフィスビルの一画。とあるアパレル系ブランドの商標が受付ロビーに大きく掲げられるそこは、彼女――天羽律子あまはりつこが所有するオフィスだった。

 Ranunculusラナンキュラス

 かつて彼女の母親が創立者としてブランドを興したアパレル商社。律子が幼少の頃から女手一つで彼女を育て、会社も一代で大きく成功させた。女傑、という言葉がとても似合う母親だった。

 父はいない。亡くなったのか離婚したのか、母は父について多くを語らなかった。しかし、その母もすでにもういない。遠い――そう、遠い天国に旅立ってしまった。

 律子は母の遺言である世襲に則って社長職を継ぐ。年は22歳。社長と名乗るにはあまりに若すぎる娘に、当初重役の人間はこぞって苦い顔をした。

 いっそ彼女を『お飾り社長』にしてしまって自分達が会社を乗っ取ろうかと画策する者まで現れた。

 

 しかし、その『反乱』を止めたのは意外にも律子自身で。


 彼女には才能があったのだ。

 かつて律子の母親が持っていたものと同じ、いや、それ以上の才能。律子は服飾デザイナーとしての才能を有り余るほどに所持していた。

 ラナンキュラスは主にハイティーンから若いOL層に人気のあるレディスファッションブランド。

 律子の母親が手がけたデザインはどれも多くの女性を魅了した。上品さを忘れない中にも斬新なデザイン。エレガントからフェミニンまで、様々な服が大衆に受け、ブランドショップも全国に展開するまでに成長した。しかし律子の才能はそれを上回る。彼女の母親が言わば『守りのデザイン』なら、律子は『攻めのデザイン』だった。

 時に目をむくような大胆なデザイン。しかしさりげにその時の流行を押さえていて、決して下品ではない。そう、母親のデザインに色艶がついたような。まさに『肉食女子』という言葉が似合うようなデザインを次々と見せてきた。

 しかし律子本人を見てみれば彼女は非常に大人しくか弱く、肉食という言葉から大分とかけ離れている。いつもオドオドとして悪く言えばリーダーシップに欠けていて、しかしそんな短所すらも覆してしまうような才能を律子は持っていた。

 結局の処、売れればいいのだ。

 『社長』が手がけたデザインを服飾にして売る。それで成功すれば彼女は社長として立派に仕事を成し遂げているも同然だ。

 意外と経営術は身につけており、人との交渉事こそ苦手なものの必要な事務仕事は淡々とこなす。

 かつて苦々しい顔をしていた重役達も、いつしか律子を新たな社長として認めるようになっていた。


◇◆


 ――お母さん、報告が遅れてごめんね。

 久々に取る事ができた休日。律子は一人、水を汲んだ桶とひしゃくを持って墓の前で佇む。墓石に刻まれた名は彼女の母親だ。

 二年前、急病に伏した律子の母は今、ここで静かに眠っている。


「会社は何とかうまくいっているよ。業績も悪くない……。そうだ、ドラマの話が入ったの。今度製作するドラマでね、ウチのブランドの服を使わせて欲しいんだって。だからそれにあわせてCMの話が出ていて、最近はとても忙しいんだ。あまりこっちに来ることができなくてごめんね」


 かつてカリスマ女社長と呼ばれ、多くの自立した女性の憧れを一手に集めた律子の母親。豪快で大らかで根が明るくて、律子は自分の母親が自慢で大好きだった。

 だけど、自分が社長につくとどうしても母親と比べられる。彼女に比べると大分と気弱で大人しい律子は、人を率いるという点において相当のリスクを抱えていた。

 デザインの仕事ができているからかろうじて社長職にかじりつけているけど、自分ももっとしっかりしなければ、いつしか社員に見限られてしまうだろう。

 水をひしゃくで汲み、パシャンと墓石にかける。飾る花は、母が大好きだった紅いラナンキュラス。

 線香を立て、手を合わせて目を瞑る。


 お母さん。私、どうしてもお母さんみたいになれないよ。

 どうして私に会社を継がせるような遺言を残したの?

 ……ううん。きっとお母さんは私に何かを残したかったんだね。お母さんが大きくした、お母さんの会社だから……他人に渡したくなかったんだ。

 でも、もしそうだとしたら、私は。


「私は、社長失格、だね……」


 ぽつりと呟いた娘の言葉は、匂い線香からなる伽羅の香りとともに、空の虚空にふわりと消えた。



 律子の住処はオフィス街に近い都内の繁華街。いわゆる高級マンションの一室に彼女は住んでいた。

 タッチキーで開錠し、カームブラックの扉についた金色のノブを引いて玄関に入る。一人で使うには広すぎるがらんとした玄関ポーチにはしかし、彼女以外の靴がぽつんと置いてあった。

 先の尖がった、鋲のついた黒い皮ブーツ。

 しかし律子はそれを当たり前のように見過ごし、掃き慣れたパンプスを脱いで白い大理石の床が続くホールを歩く。やがてドアを開けると、そこはリビングになっていた。律子にとって第二のオフィスでもあるリビングルーム。彼女が自社ブランドのロゴがついたバッグをカウンターキッチンに置くと、すぐさま奥の方から声が聞こえてきた。


「りっちゃんおかえりー!早速だけどお腹減っちゃった。何か作ってー?」


 ひょっこりと、リビングの端に置いてある黒い机からごろごろとキャスターつきの椅子を転がせて男が一人、顔を出す。

 それは一見して美形という言葉が似合うほど相貌の整った男だが、同時に『チャラい』という言葉が付け加えられるような見た目をしていた。つまりは派手な男。ほどよく日に焼けた小麦色の肌に、根元までしっかりと脱色された白金の髪は少し長めにカットされたウルフヘアー。じゃらじゃらとしたシルバーアクセやレザーブレスレットを身につけ、首にはまるで枷のようなチェーンチョーカー。指にも人差し指や中指など複数の指にゴシックなデザインの指輪が嵌められている。

 服こそラフなシャツとズボンといった姿だが、さりげなく色合いやデザインにセンスを感じる。それが律子の目の前にいる男だった。

 彼女は軽く溜息をついて、自分の身につけている服を軽く摘む。


「この服で作るわけにはいかないでしょ?着替えてくるから待ってて」

「えー。別にいいじゃない。エプロンつけたら汚れないよ。早く早く。もうりっちゃんが帰ってくるまで俺、我慢して我慢して我慢しまくったんだからさぁ。おなかへった!」


 むぅ、と表情を歪める律子に、男はキャスターつき椅子を逆向けにして座り、背もたれ部分に肘を置いて「おなかへったおなかへったお腹が減りました!」と喚き続ける。まるで餌を待つ雛鳥である。あのぴーちくぱーちくと鳴き続ける雛鳥と男は妙に重なる。髪が金色でひよこみたいなのも原因にあるのだろうか。

 男の腹へりコールに律子はとうとう折れ、仕方が無いと自社ブランドのカラースーツの上から白いエプロンを身につけ、冷蔵庫を開けた。


「今からだと簡単なのしか作れないよ?」

「いいよ。りっちゃんの作る料理はなんでもおいしいからね?楽しみ!何つくるの?」

「うーん……じゃあ、明太子パスタに、カスクードはどう?」

「ああ、大好き!でも、カスクードの具はいつもの生ハムじゃなくて普通のロースハムがいいな」

「え?……うん、いいけど」

「ふふ、ありがと。明太子パスタは大葉を多めにね?」


 律子の作る料理に必ず一言『注文』を入れるのが男の癖だ。とはいえ、そう無理難題を言われるわけではない。昔から作っていた料理にほんの少し味を加えたり、具を変えたりする程度。

 律子は母ひとり子ひとり。つまり母子家庭だった。仕事が大変な母に代わって律子は幼少の頃から家事を一手に担っていた。

 大好きな母に沢山褒められたい。その一心で覚えた料理は自然と母好みの味になっていって、それはいつしか律子の作る料理の基盤となっていた。

 しかし最近はこの『同居人』の男によって微妙に味付けや具を変えざるを得ない状況に陥っているのだが。きっと、彼は相当の食道楽、つまり食い意地の張った人間なのだろう。だが、文句を言うわけにはいかない。……言える、立場ではない。

 何故ならこの男こそが律子の生命線。彼女を社長とたらしめる唯一の手段。

 ――男が先ほどまでいた黒い机の上には数枚の白い紙にスケッチブック。そこに描かれているのは婦人服のラフデザイン。どれも、律子がオフィスでさも自分が書いたように会議で見せている、デザイン画だ。


 男は律子にとってゴーストライナーならぬ、ゴーストデザイナー。


 戌亥睦いぬいむつみ

 男との出会いは偶然だった。母が亡くなって喪が明けた頃、弁護士が口にした突如振って湧いたような社長職就任の話に律子は呆然としていた。

 母親は尊敬していた。大好きだった。いつかあんな風になりたいと憧れのような念を抱いていた。だけど、服飾関係の専門学校を卒業してまだ2年という年月しか経っていないのにいきなり社長職だなんて。

 確かに経営術は習っていたから全く仕事が判らないというわけではない。だが、自分はどう見ても社長の器ではないのだ。デザイナーとしての仕事だってまだ見習いに近い。それに……。

 律子には、才能がなかった。

 自分でもわかっていた。自分は母のようにはなれない。カリスマもなければ、あの肝の強さもない。そしてデザイナーとしての才能も、ない。

 母親が持っていたものを軒並み持っていない律子は、思った通りオフィスで弁護士と共に挨拶に行った時、重役という重役から戸惑いと嫌悪の目を向けられた。

 さすがに荷が重いでしょう。どうですか、ひとつ我々に経営をまかせてみては……。

 そんな事を言う重役もいた。


 悔しくて惨めで、だけど無いものは無くて、律子は母を思い出しては落ち込んだ。

 母のようになりたい。でも、なれない。


 そんな時、彼女の前に現れたのが戌亥睦だった。

 母が存命の頃、自分の才能を買われてラナンキュラスのデザインを少し手伝っていたとか。


「俺、好きでやってるけどこんな見た目だからさぁ。頭の固い大人サンは皆まともに取り合ってくれなかったんだよ。だけど君のお母さんは違っていてさ。ハケンでデザイン関係の仕事やってて、毎日毎日つまんないパターン作成やトレースの仕事で腐ってた俺を拾ってくれたの。たまたま俺が暇つぶしに書いたデザインに目を向けてくれてね?だから、今度は君が俺を雇ってよ」


 そうして、睦の言うままに彼のデザインしたラフ画をいくつか持って会議に臨んでみれば、誰もが目新しいデザインに目をむき、驚いた。

 中には斬新すぎるといった苦言もあったが、試作してみればどれもラナンキュラスというブランド名にふさわしい、品のある佇まいにうまく流行りを取り入れ、更には新生と言っても過言ではない程の、まるで美しく生まれ変わったような婦人服が出来上がった。

 誰もが確信する。これは、売れると。


 その確信は、当たりだった。


 律子の用意するデザインはどれも売れに売れ、二年も経てば彼女が手がけた、という鶴の一声だけで数多の女性がラナンキュラスのショップに並び、新作を手にする。

 そんな律子の成功劇の裏には、この男が常にいた。――影のように。


 しかし、ゴーストデザイナーとその雇い主という関係でありながら、睦と律子は非常に円満な関係を保っていた。

 特に脅されたり、多額の金額を請求されたりもない。

 睦の出した『デザイン料』は、律子と同居する事と、毎日の食事を手作りする事。

 時々外食はするが、基本的に手料理だ。睦は見た目のわりに騒がしい所を好まず、人ごみを嫌う。しかしそれは律子も同じで、また長年家事をやっていたのもあって、料理は苦ではない。

 そんな訳で律子と睦の奇妙な同居生活が始まり――それからもう、二年になる。



「おいしい」


 広いリビングでたった二人、大きなダイニングテーブルで向かい合って食事を食べる。明太子パスタにカスクード。

 高級マンションで食べるにしては、随分と家庭的で庶民的なメニューだ。それもそのはず、昔はこんなマンションになど、住んでいなかったのだ。

 会社が軌道に乗り、母がそれなりに稼ぐようになってから引越しした。その頃の律子は高校2年生で、今更食生活の水準を上げる事ができなかった。

 時々は奮発してご馳走を作るのも好きだけど、普段はこのくらいの方がいい。

 しかしそれは睦も同じようで、彼自身、あまり贅沢をする男ではない。

 仮にもゴーストデザイナーなのだから、もっと自分からお金を取るなり我侭を言うなりしても良いものだが、睦は一貫して同居と食事しか求めず、彼に無心をされた事は一度も無い。

 しかしさすがにそれでは律子の気が納まらず、彼女は決して少なくないお金を睦名義の銀行に毎月振り込んでいた。もちろんそれは律子のポケットマネーからなのだが。

 彼名義のカードを作る時にそれも話してあるし、キャッシュカードも渡してあるのだが、彼は一度もその金に手をつけていない。時々服や身の回りのものが欲しい時だけ、律子を連れて買い物に出かける。それくらいなものだ。


「やっぱり明太子パスタには大葉多めだよね~」

「そうかなぁ。お母さんはあんまり大葉が好きじゃなかったから、入れない方が多かったんだよね」

「そう?でも大葉入りのほうがおいしいでしょ?」

「ん~…まぁ、そうだね。どっちも美味しいけど…大葉入りは口当たりが爽やかになるのがいいね」


 そんなとりとめのない会話をしながら続く食事。律子はこの穏やかな食事時間が好きだった。二年という時を通じて、母を失った心の隙間が、少しずつ、埋められていくような気がする。

 暖かくて、やさしいものが、すきま風の吹く寒い隙間に入ってくる。


「カスクードも、生ハムってさ、ちょっと塩がつよくない?それにロースハムの厚みが好きなんだよね。マヨネーズと合うし」

「あ、それは思う。お母さんはね、生ハムが好きだったの。だからなんでもハムは生ハムがいいって言うから、自然と生ハムばっかり使うようになったんだよね」

「相変わらずりっちゃんはお母さん大好きだねー。でも、俺はロースハム好きなんだから、これからもちゃんとロースハム使ってね?」

「……うん、そうだね」


 少し目を伏せて律子は頷く。

 確かに、もう食事を口にすることができない人が好んだ味を守り続けるよりも、今食べてくれる人が満足してくれる方がいい。

 頑なに母の味を守り続けるのは、酷く後ろ向きな気がする。

 母はなによりも前向きな人だった。後ろ向きな娘など見つけたら「なぁにしてんのよっ」と笑って背中を叩いてくるだろう。


 だけど、もう二年、か。


 パスタを食べる手を軽く止め、律子は少し物思いにふける。


 ゴーストデザイナーである睦に頼り続けてもう二年。つまり律子は二年もの間、社員全員を騙しているも同然だった。

 そこに罪悪感が湧かないわけではない。いつもいつも睦のデザインを会社に持っていく度、心にズキリとした針が刺さる。

 ――私も、睦に頼ってばかりいないで、ちゃんとしなければいけないのかもしれない。

 社長に就任して2年。24という年になった律子はもう、決して子供とは言えない年だ。そろそろ自分の力で歩き、進むべきなのかもしれない。

 いや、本来は最初からそうあるべきだった。だけど弱気な心からつい、睦に頼ってしまってそのままずるずると彼に依存する事になってしまったのだ。

 睦と律子は同い年。

 彼もまた、ゴーストデザイナーなどといった日の目を見ない仕事で現役を終えたくはないだろう。

 これだけの才能があるのだ。一人でデザイン会社を興してもきっと成功するはず。


 自分に少しでも罪悪感があるのなら、それが残っているうちに、これが当たり前だと思わないうちに。

 彼を、睦を、解放するべきなのかもしれない。


◆◇


「りっちゃん、最近ちょっと帰りが遅くない?」


 ある日、夜半すぎに家に帰ると、睦がやや機嫌を損ねたような顔をして腕を組み、玄関ホールで待っていた。


「ご、ごめんね」


 少し後ろめたい気持ちから顔を伏せ、律子は短く謝る。そそくさと睦の横を通り過ぎ、リビングに入ると彼の為に作っておいた食事がそのままだった。


「あれ、睦くん、食べてないの?」

「食べないよ。……一人でごはんなんか食べて、何がたのしいの?」

「う、ごめん……なさい」

「少しくらいなら残業かなって思うけど、最近連日でしょ。何、そんなに今、仕事忙しいの?」

「そ、そういうわけじゃないんだけど……あの、練習してて…あ、じゃなくて、その……」


 慌てて口を閉じ、律子は「ゴハン、暖めるね」と言ってテーブルに置いたままの食事トレーをキッチンに引き下げる。

 今日の夕飯は睦の大好きなビーフシチュー。母はあまりシチュー系を好まなかったのでクリームシチューにしろビーフシチューにしろ、作る機会は無いに等しかった。でも、睦が好きだと言ったので彼女なりに本を読んだりして何度も作り、やがて食道楽な彼が太鼓判を捺して「おいしい!」と言う程の味にすることができた。

 シチュー皿に入ったそれを鍋に戻し、もう一度暖めなおす。同じように手をつけられていないバケットは冷たく硬くなっていたのでオーブントースターで軽く焼く。

 ついでに簡単なサラダも作ろうかと冷蔵庫を開けた所で「なに、これ」と呟くような声が聞こえた。

 ハッとして振り返ると、睦が彼女のビジネスバッグからファイルされた書類を取り出し、それを見つめていた。


「あっそ、それはっ!」

「ワンピースのラフ?これはトップスかな。ねえ、これはなに?」

「……あの、デザインの勉強、……してて」


 蚊の鳴くような声でぽそぽそと答える。すると睦は瞳を半眼にして律子を睨み、ばさりと乱暴に彼女のラフ画をテーブルに置いた。


「どうして今更デザインの勉強なんてしてるの?俺がいるのに」

「そっ、その。もう、そういうの、駄目かなって……思って」

「駄目?どういうこと?」

「だ、だって、このままだと睦君、ずっと私のゴーストデザイナーだよ?折角そんなにも才能があるんだから……。本当なら、もっと日の目を見ていいはずの人間なんだよ、睦くんは」

「日の目を見たいなんて、それを決めるのは俺であって君ではないはずだけど?」

「そ、そうかも……しれないけど、このままじゃ……」


 くぱくぱと、ビーフシチューの煮える音がする。

 どこか静寂な空気の中、律子はうなだれたように肩を下げ、心の吐露を口にする。


「私きっと、睦くんに頼り切る生活に慣れちゃう。そんなの駄目でしょう?いい大人なのに、自立してなくて……。天国のお母さんもきっと呆れてるよ。社長職にすがりたい一心で才能のある人を才能のない自分の影にするなんて、間違ってる」


 彼女の言葉に睦は黙ったまま。

 沈黙を恐れた律子は、思わず畳み掛けるように言い募る。


「前に睦くんにあげたキャッシュカード、あるでしょ?全然金額とか、見てないみたいだけど……もう、結構たまってるんだよ。私、毎月ちゃんと貴方にデザイン料としてきちんと相場の金額を振り込んでいるの。あれだけのお金があれば、自分で会社を興すことだってできる。いつまでもラナンキュラスのデザインなんてしなくていい。自分の好きなデザインをしていいんだよ?」


 律子なりに懸命に考えた答えだった。

 才能のある人間を解放するのは、才能のない人間ができる最後のプライド。もし、彼がこの後ラナンキュラスのゴーストデザイナーをしていたと世間に公表したとしても、それは仕方のない事だと律子は諦めていた。

 思えば、それだけのことをしていたのだ。

 世間にも社員にも、裏切る行為をしていたのだ。


 睦は黙ったまま、泡を立て具材が踊る鍋の火をカチンと止める。

 そして軽く律子を見やると、とんでもなく冷たい声で言い放った。


「そのデザイン、絶対採用なんてされないよ。そんなの会議で出したらどうなると思う?ひんしゅくものだよ?」

「わ、わかってる。まだ勉強中なの」

「なるほど。だから俺に隠れてやってたんだね。それまでは俺を利用する為に。……ふぅん?ちょっと甘やかしすぎたかな。君はいつも会社にいて、一度も寄り道なんかをしなかったから油断していたよ。全く、そんな事を考えていたなんてね?……フフ、許せないなぁ」


 くすくすと肩を震わせて笑い出す。ビーフシチューの鍋を前にして俯く睦の顔は伏せられて表情がよく見えない。ただ、あまりに笑い方が薄昏く、律子は少し怯えながら睦の顔を伺い見た。

 彼は、笑っている。それが逆に、とても恐ろしかった。


「りっちゃんわかってる?君と僕はすでに一心同体。運命共同体ってやつなんだよ。今更裏切りは許さない。そんな綺麗事は許さない。君は俺と一生一緒にいるんだ。君が社長をして僕が影のデザイナーになる。それは一番最初に決めた契約のはずだよ?」


 顔を上げた睦の顔はどこまでもニコニコとした笑顔だった。

 能面のように笑顔を貼り付けて、男が律子に一歩一歩と近づいていく。やがて二人の距離は至近距離になり、そっと彼女の頬に長い指が添えられた。


「俺は君の為にデザインを起こし、君の影になる。君の裏にはいつも必ず俺がいるんだ。俺が破滅を望めば、君は破滅し、俺が死を望めば、君は死ぬ」

「そ、そんな……」

「もちろん本当には殺さないよ?社会的にって意味だね。ふふ、もしかしたら思い余って殺しちゃうかもしれないけど。君が俺を捨てるっていうのは言わばそういう類のものなんだよ。それを、ちゃあんと判らせてあげてなかったね?ごめんごめん。ほんと、甘やかしてた。でも仕方ないよねえ?」


 くすくすと。厭な笑みを浮かべながらそっと睦が口付けてくる。

 ――同居して初めて、そんな事をされたからこんな時にも関わらず酷く吃驚する。


「君は可愛いんだもの。甘やかしちゃうよね、仕方ないね?」

「か、可愛い、なんて……」

「可愛いよ?俺のりっちゃん。だからゆっくりゆっくり、君を堕とすつもりだった。君の中にあるどうしようもない『呪い』を少しずつ解いてあげて、君の心に空いた穴を少しずつ埋めていって……。ねえ、俺はどれだけ君の心の中にいるのかな?どれだけ、君の中に入れたのかな?」


 緩く抱きしめられ、律子は戸惑った。

 どうして睦は自分に口付け、抱きしめてくるのだろう。

 しかし睦はゆっくりと律子の頭に鼻を擦りつけ、匂いを嗅ぐようにはぁ、と息を継ぐ。


「俺達の罪は一生俺達が抱え、秘めていくもの。俺は君の影になることを望み、何の不満も感じていない。なのにどうしていきなり勉強なんて言い出すの?俺から離れようとするの?」

「……それは、だって」


 俯き、唇を震わせる。

 自立しなくてはいけないとか、睦を解放しなければとか、そんなのは彼の言う通りただの『綺麗事』だ。本当の理由は別にある。それはとてもとても情けなくて、惨めな理由。

 彼女は本当は、とても辛かったのだ。毎日が苦しかったのだ。あの、社長就任の日から――。


「お母さんに、なれないんだもの」

「りっちゃん……?」

「こんなんじゃ、いつまでたってもお母さんみたいになれない。あの人みたいにならなきゃいけないのに。私はお母さんから会社を託されたから一人でしっかりしなきゃいけないのに、皆を率いていかなきゃいけないのに。いつまで立っても気が弱くて自信がでなくて、デザインすら睦くんに頼りっぱなしで……っ」


 情けない、情けない。

 自分で嗤ってしまうほど、自分が惨めだ。

 律子はあの会社で何もしていない。確かに社長としての事務仕事はきちんとこなしているが、逆に言えばそれだけだ。母のような革新的な経営方法など編み出せるわけがないし、母のようなデザインの才能もない。自分はどこまでもどこまでも平凡で、芸ひとつなくて。つまらない人間なのだ。

 そんな何もない人間がドラマにも採用されるような有名アパレルデザインの会社の社長に納まっているなんて……。

 笑い話も、いいところだ。自分は全くかやの外。彼女は自他共に認める『お飾り社長』なのだ。


 ぐすっと小さく鼻をすする律子。そんな彼女を睦は無感動な瞳でしばらく見下ろしていたが、やがてにっこりとした笑顔になる。

 そして優しく、彼女の耳元で囁いた。


「りっちゃん。そんなに自分を責めなくていいんだよ?」

「え……」

「君は本当にお母さんという存在がコンプレックスだったんだね。だけど大丈夫。俺だけは知ってるよ。君の魅力、俺だけが全てを理解している。君はちゃんと『社長』をできているよ。だって代が変わっても一人も解雇者を作ることなく、皆の生活を守り続けているんだからね?それも立派な社長の仕事だよ?」

「そ、そんなの当たり前だよ。そうじゃなくて、私は……っ」

「うん。判ってる。君の葛藤や悩みも、俺は全てを判っている。だからさ、一緒にやろう?」


 今度こそ律子はきょとんと睦を見上げた。

 涙も引っ込み、何を言っているんだろうと不思議そうな顔で首を傾げる。そんな彼女に睦はニコニコと微笑み続ける。


「デザインの仕事、一緒にやろうよ。ここでさ、二人で考えるんだ。いろいろ話し合って、アイディアを出し合って、きっと今よりずっといいものが作れるよ」

「で、でも、私……さっきも睦くんに言われたけど、デザイン、全然才能、なくて……」

「そんなことないよ。ごめんね?さっきはつい、りっちゃんに強く当たってしまったんだ。本当はね、ちゃんとりっちゃんには才能があるんだよ。それは君のお母さんにもなかった君だけの才能。りっちゃんのデザインする服はね、とっても素朴で、馴染みやすさがあるんだ。奇抜なのもいいけど、控えめなものも悪くないでしょ?」


 律子は瞳をまるくする。そんな風に言われたのは初めてだったからだ。専門学校で沢山のデザインを考えてみても、いつも講師からつまらない、画一的、ひねりがないといわれ続けてきた。

 だけど律子は服のデザインに対するこだわりを捨て切れなかった。律子は母の仕事を見て、沢山のデザインを見て、ずっと思っていたのだ。

 一部の人にしか着れないような服よりも、沢山の人が沢山似合う服をつくりたい。

 斬新なデザインよりも親しみやすいデザインをつくりたい。

 ……だけどそのこだわりは、自分の間違った部分だと思っていた。なのに睦はそれを彼女の才能と言ってのけたのだ。


「君のその優しいデザインは君にしかだせない。俺にもそんなデザインをすることはできない。だから……教えてよ。俺にだけ、教えて?りっちゃんの考えてる事、着たい服、作りたい服、一杯…話して?一緒にやろうよ」

「……いいの?……うん、ありがとう。ありがとう、睦くん」


 涙をごしごしと手首でふいて、律子は泣き顔で笑う。そんな彼女に睦は目を細めて優しく微笑むと、やがて「おなかすいちゃったね」とおどけて言う。

 律子は慌てて「そうだね」と、ビーフシチューをシチュー皿によそい、二人で食事を始めた。


 おいしいと、いつものように笑顔で食事をする睦。

 そんな彼を見て、律子はふと、さっき思った質問をする事にした。


「ねえ睦くん。……あの、どうして睦くんはそんなに私によくしてくれるの?親切にしてくれるの?」

「え、それを言わせるの?……そうだね。君ははっきり言って鈍いもんねえ。そろそろちゃんと自覚して欲しいところだし、ちゃんと言うよ。察して欲しい所だけどね。勿論君の事が好きだからだよ?」

「――え?」


 ぽとりとバケットを落とす。睦は「やっぱり」というような呆れた瞳で彼女を軽く睨んだ。


「どうして気付かないかなー。あんなに好き好きオーラを出してたのに。鈍いってのも罪だよね」

「だっ、だっ!だって言ってくれないし!じ、じゃ、さっきのキス……は」

「勿論。好きじゃなかったらキスなんてしないですー」

「う、うわわぁぁ」


 かぁーっと顔が赤くなってしまう。恥ずかしい話だが、生まれて初めて恋の告白などされたのだ。紅くなって然るべきである。

 しかし睦は少し面白くなさそうな顔をしてシチューを一口、軽く啜った。


「うわーじゃなくて、君はどうなの」

「へっ!?あ、あう、そ、それは……」

「それは?」

「……っす、すき……かも?」


 かもぉ?と不満な声。律子は慌ててぶんぶんと手を振り「だって!」と赤い顔で反論する。


「いっ、いきなりだもん!びっくりして、いきなり好き、なんて、こっ答えられないよ……」

「まぁ、りっちゃんがそういう子だってわかってたからいいけどね。こっちだって長期戦のつもりだったんだし、ゆっくりとほだされればいいよ。なんたって君と俺は一心同体なんだし?」

「う、うぅ……」


 自分はゆでたこのようになっていないだろうかと思いながら律子はぱたぱたと手で顔を仰ぎ、バケットにシチューをつけて食べる。

 あわてふためく彼女を見て、睦はくすくすと笑った。



 ――そう、ゆっくり、ゆっくりと。

 俺に堕ちてこればいい。時間はまだまだたっぷりとあるんだから。

 

 君をはじめて見たときから、ずっと好きだった。いつかきっと君を手に入れるんだって心にきめた。


 『もう、邪魔者は、いない』


 俺と君の仲を壊す存在は『もう』いない。

 だから俺はゆっくりと君を口説く。優しい言葉と、優しい仕草で、永遠にとらえてあげるよ?


 だから堕ちておいで。



 依存という名の、俺だけの檻の中に。



 強い強い鎖のような束縛と、病的な執着心。それを黒い瞳に乗せて、男は愛しい女にニッコリと微笑んだ。



Fin

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― 新着の感想 ―
[良い点] お前かぁぁぁああああ!!!! って感じがあって面白かったです。
[一言] そう来たか。 ヤンな男だとは思っていましたが、心も体も欲しがる欲張りさんでもあったのですねぇ。 賢いヤンデレ様に、爽快に裏切っていただきました。 ありがとうございます。
[一言] このヤンデレは…いい(恍惚) 昨今のヤンデレは殺伐としていて愛しているはずの女性にも危害を加えるものが多く、「お前のそれは愛なのか!?ただの執着だろ!?」というものが多いのですが、個人的には…
2014/09/23 03:40 退会済み
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