第1話 アルブと差別の刻印
第一話です。神話の創世と宗教の始まり、生き方と神様について書いてみました。
夜明け前の空気は、まだ冷たい。けれど土はもう温みはじめていて、裸足で踏むと、じわりと足裏にまとわりつく。家々の間を抜ける風は、炊き損ねた粥の酸い匂いと、獣舎の甘い糞の匂いをいっしょに運んでくる。
アルブは桶を肩に掛け、井戸へ向かった。肩紐が濡れた麻を擦り、皮膚が赤くなる。桶の縁に残った昨日の穀粉が水気を含み、指にぬるりと絡む。
井戸端には、もう人がいた。背の高い男がふたり。額に刻み印のない者、つまり「中にいる者」だ。肩には神殿の穀物袋の紐が掛かり、腰には小さな銅の札が揺れている。札がぶつかるたび、乾いた音がした。
アルブが近づくと、ひとりが井戸桶を引き上げたまま、わざと動きを止めた。縄が鳴り、滑車が軋む。水滴が落ちる間が、やけに長い。
「……おまえは、先だっけ?」
男は笑いもしない。笑いの代わりに、鼻で息を吐いた。アルブはその言い方を知っている。先か後かではなく、ここに立つ資格があるかどうかを問う声だ。
アルブは黙って視線を下げ、左手の手首を袖で隠した。そこには、生まれつきの印がある。獣の蹄に似た黒い輪郭。幼い頃に「神に拒まれた証」だと言われ、母は泣き、父は何も言わなかった。
「……水は、みんなのものだろ」
口にした瞬間、喉が乾いた。乾いたのは恐れだけではない。朝から土埃を吸い込み、舌がざらついている。
「みんな、ね」
もうひとりの男が、桶の水面を覗きこむふりをして言った。
「“みんな”に、おまえは入ってない。掟がある。刻印のある者は、神殿の井戸を汚すな」
アルブは、井戸の石縁に残る黒い染みを見た。そこに刻まれた古い記号——神殿の印。石に爪で刻むようにして彫られたそれは、風雨に削られてもまだ残っている。掟は、石よりしつこい。
背中のほうで、誰かが咳をした。振り向くと、同じ「外」の者たちが、距離を置いて並んでいる。女が抱えた赤子は泣き止まず、乳の匂いがふわりと漂った。老人は肩をすぼめ、こちらを見ない。
アルブは桶を置いた。縄を握り、滑車を引く。腕の筋が張り、掌に古い豆が刺さる。水の重みが上がってくると、男がわざと足を出した。
桶が石にぶつかり、水が跳ねた。冷たい水滴がアルブの頬に当たり、背筋が反射で伸びた。
「ほらな。汚い」
男が言う。汚いのは水ではない。跳ねた水滴を見て、アルブの胸の奥が熱くなった。
「わざとだろ」
アルブが言うと、男は肩をすくめた。
「わざと? 誰が? 神が?」
その言葉で、周りの空気がひとつ冷えた。神の名は軽く口にしてはいけない。けれど彼らは、それを盾にできる。神殿の印を背に、掟を背に。
アルブは桶の縄を放し、静かに桶を持ち上げた。水が揺れ、桶縁から一筋こぼれる。それが土を黒く染めるのを見て、ふと、母の手を思い出した。洗い物の水で土が黒くなるたび、母は無駄だと言う顔をしていた。
今日の仕事場は神殿の穀倉の外だった。粘土板に記すために、穀袋を数え、刻みを確かめる。アルブは「外」の者でも、その手が正確だと知られていて、雑役に借り出されることがある。便利な手は、使われる。だが「中」には入れない。
穀倉に近づくにつれ、匂いが変わる。麦の乾いた匂い。油を塗った木の匂い。焼いた煉瓦の匂い。遠くから、羊を屠る血の匂いも混じってくる。神殿は、祈りだけではできていない。数える者、切る者、運ぶ者の汗でできている。
門の前に、粘土板を抱えた若い書記が立っていた。髪は油で撫でつけられ、指先は土一つついていない。腰には尖った筆、首には小さな銀片がひとつ。銀は、光るだけで人の目を従わせる。
アルブが袋を肩に担いで通ろうとすると、門の脇で誰かが呻いた。
小柄な少年がひとり、地面に膝をついている。アルブより少し幼い。顔に泥がつき、唇が切れて血がにじんでいた。手首には、アルブと同じような印——だがこちらは、火で焼かれた刻印だ。生まれつきではなく、裁きで押された印。もっと重い。
「袋が一つ足りない」
書記が言った。声は柔らかいが、柔らかい刃のように人を切る。
「おまえが運んだんだろう。どこへやった」
「……知らない。俺は、数えた……」
少年の声は震えていた。震えは嘘の震えではない。痛みと、恐れの震えだ。
書記の後ろにいた衛兵が、少年の背を蹴った。乾いた音がして、少年が前に倒れる。土埃が舞い、アルブの鼻に入った。口の中が一瞬苦くなる。
「掟だ」
衛兵が言う。「外」の者が、神殿の物を盗めば、手首を切る。切られた者は、さらに「外」へ追いやられる。外の中にも、底がある。
アルブの指が、自然に動いた。袋の縄を締め直すふりをして、少年の前へ出た。足元の土は固く、ここは踏み固められている。固い土は、逃げ道も固い。
「その袋なら、さっき門の内で落ちたのを見た」
アルブは言った。見たわけではない。けれど、袋が一つ足りないなら、そこらにある。誰かが数え間違えたか、書記が儀礼のように見せしめをしたいか、どちらかだ。
書記の目が、アルブの袖のあたりを一瞬見る。隠したはずの手首が、汗で袖を貼りつかせ、印の輪郭が透けていた。
「おまえが口を挟むのか」
書記は静かに言った。静かさが、逆に怖い。人を裁く者の静けさだ。
「俺は、数える仕事をしている。数が合わないなら——」
「外の者に、数は任せている。だが、口は任せていない」
言葉がそこで切れた。衛兵が一歩前へ出る。革の帯が鳴る。剣の柄が陽を受けて鈍く光る。
アルブは、少年の顔を見た。少年は、助けてと言わなかった。言えないのだ。助けを求めること自体が、掟への反抗に見えるから。けれどその目は、濁っていない。まだ、何かを信じている目だった。
アルブは、呼吸を整えた。心臓が肋の内側で暴れる。だが、歩いた。言葉ではなく、身体が前へ出た。
「——盗んだと言うなら、証を見せろ。神の前で、嘘は言えないんだろ」
その瞬間、空気が裂けたように感じた。
書記の唇がわずかに歪む。衛兵の目が細くなる。周囲の「中」の者たちが、ざわりと視線を寄せる。そして背後から、別のざわめきが来た。「外」の者たちだ。
「やめろ、アルブ」
誰かが小声で言う。女だ。赤子を抱えていた女が、唇を噛み、目で拒んでいる。
「目立つな。巻き込むな」
老人も、こちらを見た。見て、すぐ視線を外した。あれは憎しみではない。生き延びるための視線だ。目を合わせれば、同罪になる。
アルブは、その両方の視線を一身に受けた。書記と衛兵の冷えた目。「外」の者たちの怯えた目。どちらにも、居場所がない。
それでも、足は止まらなかった。止めれば、今度は自分が自分を見捨てる。
衛兵がアルブの胸倉を掴んだ。粗い布が喉に食い込み、息が詰まる。麦の匂いの奥に、衛兵の汗と鉄の匂いがした。
「刻印持ちが、神殿で吠えるな」
低い声。吐息が熱い。アルブはその熱さの中で、不思議なくらい冷えたものを感じた。これはいつもの日常の延長だ。差別は、殴るための理由をいつも待っている。
少年が、地面から顔を上げた。アルブと目が合う。目の奥に、恐れと、何か別のもの——怒りに似たものが揺れた。
そして、背後の「外」の者たちが、さらに距離を取った。助けるでもなく、責めるでもなく、ただ離れる。離れて、生きる。
アルブは、喉を締めつけられたまま、空を見た。神殿の屋根の上に、薄い雲が流れていく。雲は何も知らない顔で、ただ流れる。
——神よ。
呼びかけたのか、確かめたのか、自分でもわからない。けれど、その問いは、胸の内に確かに生まれた。
ここにいるのか。見ているのか。それとも、いないのか。
衛兵の手がさらに強くなる。書記が小さく頷き、裁きの言葉を口にしようとする。その刹那、アルブは理解した。
自分に刺さる恨みは、これから一方向ではない。守った相手からも、守ったつもりの共同体からも、同じ矢が飛んでくる。
それでも——と、身体の奥で、何かが硬く決まった。
アルブは少年の前に立ち、誰の味方でもない場所に、ひとり立った。
あんまり重くならないように書いてますが、やっぱり重いです。




