資料1 アンナ
「ごめん、アンナ。俺は許されないことをした」
家に帰るなり夫が青い顔をしてそう切り出した。
「え、何よ突然」
私は笑った。
「また職場でヘマしたの?」
先月彼は勤めている工房の魔道具をうっかり壊してしまい、買い換えた費用の半額を弁償するはめになった。まだ若いふたりにとってはかなり痛い額を月々の給料から天引きされることになってしまったのだ。
「ちがうんだ、そうじゃなくて、もうずっとアンナに言わなくちゃいけなかったのに、俺、怖くて……どうしても言い出せなくて、それでずるずると今日まで来てしまったけど、もうどうしようもなくて」
「もう、言い訳はいいからはっきり言ってよ。どうしたの」
夫はがばりと頭を下げた。
「俺と別れてくれ。
子どもができたんだ。もう明日にでも産まれそうなんだ。アンナには本当にすまないと思ってる。でもこうなったからにはもうどうすることもできないし、産まれてくる子どもに罪はないだろう。俺は子どもをきちんとした家庭で育ててやりたい。
この家は子どもができても十分な広さがあるし、俺の職場にも近いだろ。急なことで悪いんだけど、アンナにはここを出て行ってほしいんだ。その……できるだけはやく」
それからの数日、私は何をどうしたのか、ほとんど記憶がない。
身の回りの物を鞄に詰め込み、夜明けと共に家を飛び出して、役所で離縁の手続きをし、そのまま故郷の村へ向かう馬車に乗り込んだ。
結婚する時に親が持たせてくれた銀貨がまだ少しは残っていたからどうにか馬車の代金は出せたけれど、それも片道ぎりぎりだった。
故郷の町まで三日三晩の旅路を、私はほとんど飲まず食わずで馬車に揺られ続けた。
両親は私が出戻ってきたことを喜ばなかった。
実家の商店は兄夫婦に代替わりしていたし、兄には小さな子どもが男の子ばかり四人もいて、両親の他に私まで置いてもらう余裕はない。
それでも仕事が決まるまでの間は肩身の狭い思いをしながら実家の世話になり、昔の伝手で声をかけてもらって、私は町外れの農園で住み込みの下働きの職を得た。
下働きというから手がひび割れるようなきつい仕事を覚悟していたのに、実際には奥様付きの侍女のような立場に置かれたのには面食らった。
「あんな男のことなんかはやく忘れてしまいなさい」
奥様はもともとこのあたりを治める領主婦人だった方で、ご子息が家督を継いでからはこの農園でのんびりと田舎暮らしをしている。
前領主はとうに亡くなり、気楽な隠居暮らしだ。
「あれだけアンナに惚れたはれたと大騒ぎしていたくせに、浮気して放り出すなんてね。信じられないわ。
あの男、家に女を引っ張り込んで、何食わぬ顔して暮らしているらしいの。赤ん坊も産まれたそうよ。泥棒猫はもともと酒場の女給らしいけど、あまり産後の肥立ちが良くないみたいでやつれてフラフラしてるんですって。
ざまあ見ろだわ」
奥様に紅茶のおかわりを差し出し、私は苦笑した。
「お調べになったんですか」
「当たり前よ。アンナはわたくしの可愛い教え子ですもの。このままではすまさないわ」
「それならばロイだって奥様の教え子じゃありませんか」
「あんなやつもう教え子でもなんでもないわ」
元夫、ロイとは同じ町で育った。
奥様は嫁いでくるなりこの領地に小さな学校をいくつも建てて、王都から教師(たいていは離縁されたり未亡人となった元貴族の女性たちだった)を呼び寄せ、子どもたちに読み書きを教えはじめた。
私の両親も、兄も、奥様の作った学校で読み書きを学んだのだ。
私が通った学校は領主の城から程近く、奥様が自ら
先生となって教えてくださった。
私は物覚えがよい方で、奥様にずいぶん目をかけていただいた。
奥様から私ひとりだけ魔法の個人授業まで受けさせてもらったりもしたのだ。
魔力の質が奥様に似ているらしく、教えられたことはすんなりと体に染み込んだ。
私たちは日が暮れるまで魔法の勉強にのめりこみ、お城の偉い人を呆れさせた。
反対にロイはおとなしく座っているのは大の苦手で、さんざん奥様をてこずらせたけれども、それでも奥様は元気なロイを……言葉は悪いが犬をかわいがるように可愛がっていたというのに。
「私はもうあの人に未練も何もありませんよ。これ以上あんな人のために奥様の手を煩わせる必要もございません。
私はこうして奥様にお仕えできて、今とても幸せなんです」
「アンナ、あなた本当にこれで終わりだと思ってるの?」
「……?」
「ロイはこのままでは終わらないわよ。わたくしにはわかります」
奥様の言ったことは、予想もしない形で現実となったのだった。
秋が来て、農園の収穫も終わり、冬支度のために慌ただしく過ごしていたある日、王都からの使者が奥様のもとに手紙を持って現れた。
使者は立派な鎧を身につけてはいたが、薄汚れて異様に目をギラつかせ、乗ってきた馬は今にも倒れそうなほど疲弊していた。
執務室に案内されるやいなや、男は息せき切って話し出した。
「隣国との境界で魔物のスタンピードが発生しました。この国の王都が呑まれるのも時間の問題でしょう。ここも危ない。公爵閣下は貴女様を安全な場所へお連れするようにとおおせです。すぐに支度をなさってください」
「弟はどうしているの」
奥様はこの国の筆頭公爵家の出で、弟君が当主の座に就いている。
「閣下は国を出るわけにはいかないと……閣下の守護魔法と、聖女様の結界で、王都はかろうじて魔物の侵入を防いでいます。ですがお二人ともご高齢です。すでにいつ倒れてもおかしくないご様子でした。
お願いです。
閣下の最後の頼みを無碍にするわけにはいかないのです」
そこで彼はちらりと私を見た。
「セレーネ様。この地の民に混乱が伝わる前に、信頼できる侍女だけを連れて、ここを出ます」
「こんなおばあちゃんが逃げて、生き残ったところでどうするのです。
弟は役目を果たしているのでしょう?
私もここで、できる限りのことはするわ」
使者の顔がくしゃりと潰れた。
「セレーネ様、もう無理です。国が、滅びるのです。
できることなどないのです。
私たちには、もう、何もできないのです。
ただ、滅びを待つことしか」
奥様は目を伏せ、すぐさま私の方へ振り返った。
「アンナ、おまえ、ここを出なさい。この者と一緒に行くのです。これは命令よ」
「いいえ、奥様。私は奥様とともにおります」
「ダメよ。ぐずぐずしないで行くのです。さあ、行って!」
私は歯を食いしばって床に膝をついた。
「いやです、行きません。奥様、いやです」
「カルロといったわね、あなた、この子はアンナといってわたくしの大切な教え子なの。この子を何があっても守りなさい。さあ、行くのです!」
カルロと呼ばれた使者はすっと真顔になり、つかつかと私に歩み寄ると、そのまま敷物でも抱えるように私を担ぎあげた。
「奥様!奥様!」
どんなに暴れても、叫んでも、男は私を放してはくれなかった。
そのまま廊下を進み、控えていた執事に新しい馬を用意するよう命じる。
馬の用意ができるまで、男は私を抱え上げたまま黙って立ちつくしていたが、やがてぽつりと口を開いた。
「ここを逃げたところで、生きのびられるかどうかはわからないのだ。
貴女が望まないのに、無理に連れ出して、結局ここに残る以上の苦しみを味わうことになるかもしれない」
「下ろしてください。私はここに残ります。私だけ生きのびても、それは死んでしまうのと変わりません。いいえ、死ぬよりもっとひどいわ。お願いします、あなたにとっても、私のような足手纏いは置いて行った方がよいはずです」
その時、屋敷の外が騒がしくなった。
誰かが大声で何か叫んでいる。
異様な雰囲気に私たちははっとして口を閉ざし、騒ぎのもとへ注意を向けた。
「アンナ!アンナ!」
忘れるはずがない。
叫んでいるのは……ロイだった。
カルロさんが私をそっと絨毯の上に下ろした。
「知り合いか?」
私は唇を噛んだ。
「別れた夫です。王都にいるはずの」
ロイは暴れているのか、門番や庭師の低い罵声と争うような音がする。
それでもロイは私の名前を呼び続けていた。
馬番のドイルさんがあわてて駆け込んできた。
「アンナ、ロイが来ておまえを出せと騒いでいる。どうする?会うか?」
ここの使用人はみな、私たちの間に何があったかを知っている。みんな私をなぐさめ、ロイに憤ってくれた人ばかりだ。
私は首を振った。
会いたくない。こんな時に何をしに来たのか。
私たちはもう終わった。王都には彼の新しい家族がいるではないか。奥さんと、かわいい赤ん坊が。
そこでふと思い出す。
……王都。
スタンピード?
ロイはスタンピードから逃げてきたのだろうか?
ロイの働く工房は軍の魔道兵器も手掛けている。そのため情報をいち早く手に入れることも可能かもしれない。
彼はスタンピードのことを告げにきたの?私に?
気がついたら、もう足が動いていた。
屋敷から門までの舗装されたゆるやかな坂道を、全速力で走った。
ロイは門番によって縄をかけられ、地面に這いつくばっていた。
「アンナ、おまえの旦那が迎えにきたとよ」
門番のアレンさんは唾を吐き捨てた。
ロイは取り押さえられたまま必死に顔をあげて私をみつめた。
「アンナ、スタンピードがくる。この国はもう終わりだ。
どこにも逃げられない。このあたりの国はみんな呑まれる。絶対に助からない。
だから、俺、おまえの隣で死にたいと思ったんだ。
どうせ死んでしまうなら、もう責任なんか取らなくていい。だったら俺は、本当に愛する人のそばで死にたい。
うっかり子どもができちまったせいで、俺は、責任を取らなきゃクズだってみんなに責められて」
ロイはぐずぐずと泣き始めた。
「俺が悪いんだから責任は取るさ。でも、俺はアンナが好きで、やっと結婚できて、アンナと幸せに暮らしていけたらそれでよかったのに、まわりのやつらが面倒なことばかり言うから!俺はずっと言ってたんだ、愛してるのはアンナだけだって。それなのに責任取れって、じゃあアンナはどうなるんだよ。俺を信じて王都までついてきてくれたのに、アンナを追い出すのが正義なのかよ。
責任責任って、そうやって愛してもいない女と結婚するのが本当に正しいことなのか?
親方もあの女も、あの女の親も、結婚してやったのにまだ俺を責めるんだ。
もういいだろ、どうせみんな死ぬんだから。
それなら俺はアンナに会いたいよ。
アンナと一緒に死にたいよ。
アンナ、会いたかったよ。
あんなふうにおまえに出て行かれて、会えなくなるなんて、もう耐えられない」
私は頭が冷えていくのを感じた。
「ロイ、あなた、奥さんと赤ちゃんは今どこにいるの?町の宿にでもいるの?」
「王都に置いてきたよ。子どもを産んでから、あいつ、すっかり弱ってしまってさ、寝込んでるんだ。馬車に乗るなんて無理だよ」
「赤ちゃんは」
「あいつの隣で寝てたから。大丈夫だ、心配いらない」
「スタンピードが来るってわかってて、ふたりを置いてきたのね、最低」
ロイの顔が歪む。
「だから、スタンピードが来るってわかったから、だろ!?もう誰も、誰かを守ることなんてできないんだ。えらそうなことを言ってたやつらも、全員、何もできないんだよ!俺だけを責めるな!」
「ロイ、あなたは最低の夫で、父親よ。恥を知りなさい。
あなたと一緒に死ぬなんて絶対いや。お断りよ」
「なんでだよ、もうそんな、善人ぶる必要ないだろ。俺はたくさん間違えたけど、今ここに来たことは間違いじゃない。
俺はおまえさえいれば、それでいいんだ……!アンナ、おまえがずっと好きなんだ。はじめて会った時から……!」
私は目を閉じた。
真っ暗な視界の中で凍てつくような怒りを感じた。
ロイに別れを告げられてからも、私は心のどこかでロイが迎えにきてくれることを望んでいたのかもしれない。
さっさと孕って夫を奪っていった女が心底憎かったのかもしれない。
私たちは学校で出会った。ロイの両親は彼が小さい時に亡くなっていて、物心つく前から彼は町の孤児院で暮らしていた。それなのにロイの金色の瞳には暗い影が一切なかった。彼の目はいつも明るく澄んでいて、私に全力で愛を伝えてくれた。
彼の子犬が遊んでいるような無邪気さが好きだった。
ロイ以外の男には目もくれなかった。
しかし、今は。
私の中にロイへの感情はなにひとつ残っていなかった。
産後、寝たきりだという彼の妻が気の毒でならなかった。
衰弱した母親の隣で寝かされているという赤ん坊が憐れでならなかった。
奥様はざまあ見ろと言ったけれど、私にはそんなことは口が裂けても言えない。
だって彼女も、赤ん坊も、生まれてきた命はみんな、幸せになるほうがいいのだから。
そうだ、この世界のすべての命は、こんなロイみたいな男に弄ばれ、軽んじられるべきではない。
断じて!!
その時、私の体から真っ白い光が放たれた。
いくつもの悲鳴と、人ではない何か大きな獣のようなものの咆哮が轟いた。
光は凄まじい衝撃と共に周囲の空間を切り裂き、暴れ狂い、天まで駆け上った。
どのくらいの時間がたったのだろう。
光の柱の中で、私はすべてを理解した。
目を開けると、私の前に巨大な一匹の龍が口から泡をふいて痙攣しているのが見えた。
龍は金色の目を弱々しく見開いて、涙を流している。
「悪しき龍よ、魔物と共に消えよ」
私の手の一振りで、龍は雷に打たれたように大きく跳ね、地響きをたてて地面に叩きつけられた。
「アンナ」
龍の口から最後に小さくそう聞こえたが、その巨体は砂のようにさらさらと崩れ、やがてひとつかみの塵になって消えてしまった。
「聖女アンナを讃えよ!」
「魔物の脅威は去った!聖女アンナを讃えよ!」
いつのまにか農園の敷地には大勢の人が集まり、聖女を讃える声がいつまでもやまなかった。
春。
王都は白やピンクの花が咲きみだれ、道行く人々の顔は明るい。
先代聖女の結界は、あの日王都を守りきった。
龍が塵になって消えたあの同時刻、押し寄せていた魔物の群れも一瞬で消え去ったという。
私はセレーネ様と共に王都へ迎えられた。
「ロイの奥さんね、助からなかったわ」
王都での儀式とお披露目を終えた頃、セレーネ様からそう告げられた。
「そうですか……では、赤ちゃんは」
「子どもは心配ないわ。だって、龍の子ですもの。母親を亡くしてもぴんぴんしてるそうよ」
「そう、ですか」
「母体は龍の魔力に耐えられなかったのね。こうなるだろうとは思っていたのだけれど」
セレーネ様はため息をつく。
「ロイは最後のさいごまで、自分が龍だということに気づいていなかったの。
明るくて、楽しいことが大好きな子だったから。
工房の仲間と飲んで騒ぐのも好きだった。
盛り場の女の子と盛り上がって、子どもまで作っちゃったけれど、きっと楽しいことの誘惑に抗うことができなかっただけなのよ。
愚かな龍だった。
貴女のことを本当に愛していたのに。
自分を人間だと思い込んで、人間の理屈で責任とやらを取ってはみたものの、ふと気づいたら貴女を失っていたことに混乱してしまったのね。
その怒りが、魔物たちを目覚めさせてしまった。
龍の怒りが魔物を呼ぶの」
私は静かに尋ねた。
「セレーネ様は……いえ、この国の上層部は、ロイが龍であることをご存知だったのですね」
セレーネ様は顎を上げ、肩をすくめる。
「貴女が聖女であることもね、もちろん把握していたわよ。
貴女とロイの出会いを用意して、ロイが聖女の魔力に魅了され、あのままおとなしく愚かな職人として魔道具の金型でも作っていてくれれば良かったの。軍の目の届くところで幸せに暮らしていけるようにすべてをお膳立てしたけれど、結局思った通りにはならなかった。国王もわたくしの弟も、ロイのことを完全には理解できなかったのね」
「当の本人としてはあまり気分のいいものではありませんね」
「そうかもしれないわね。わたくしたちの失敗は、ロイを龍としてしか見ず、貴女を聖女としてしか見なかった、そこにあるんでしょう」
セレーネ様は自嘲するように笑った。
「龍は聖女の魅了から逃げられない。でも、身持ちの悪い若い男なんて、愛してもいない女と簡単にベッドを共にしてしまう。ちょっとした気晴らしくらいの軽い気持ちでね。
わたくしはロイに高度な教育を与えなかったわ。どうせケダモノなのだからとはじめからみくびって。
おかげでまた龍の子どもができてしまった。
あの子のことはこれから、この国が責任をもって飼い殺しにするでしょう。
父親のようにならないように、細心の注意を払ってね」
吐き気がした。
苦いものがこみ上げたが涙は流れなかった。
私の心は乾ききっており、現状を把握するためにすばやく頭を巡らせた。
「ロイが龍にならず、人として生涯を終えたならば、私が聖女として覚醒することもなかったのですね」
セレーネ様は私に微笑みかけた。
「特定の誰かを愛するならば、聖女にはなれないの。あなたからロイへの愛が失われることはないのだろうと、わたくしは諦めていました。
よくぞ、卑小な理から抜け出し、大きな愛を見出しましたね。
わたくしは貴女を誇りに思います。
聖女アンナ。
わたくしはもう長くないわ。
この国を頼みます」




