結婚相手の元婚約者から敵対視されてますが、何を言われようと私達は夫婦なので
※「結婚相手の幼馴染/従妹から〜」の続編となります
北部を取り纏める北部侯爵家に、十七歳で嫁いだシェルリス。
彼女は昨日、十八歳の誕生日を迎えた。
シェルリスの好物ばかりがのったテーブルに、抱えきれないほどのプレゼントを見て、彼女は顔を綻ばせる。
夫のスニルヴァンからはドレスや宝飾品の他に、ちょこんとお座りをしたキツネの置物が贈られた。
ガラスでできたそのキツネは、数ヶ月前の領地視察でシェルリスが関心を示していたものだ。
桃色のキツネと、一回り大きな青いキツネ。
可愛らしい二体のキツネは、シェルリスとスニルヴァンを模した特注品だろう。
『うわぁ、凄いですね。これほど繊細なガラス細工は初めて見ました』
『北部は器用な人間が多いからね。……シェルリスはキツネが好きなのかい? さっきの店でもキツネのブローチを買ってただろう』
『はい。西部にキツネはいないので北部に来て初めて見たんですが、今じゃ一番好きな動物はキツネです。でもこのキツネの置物は、売り物じゃないみたいですね』
視察中に交わした、なんてことのない会話だった。
けれどスニルヴァンは覚えていてくれたのだ。
そう思うとシェルリスの心は温かく、少しくすぐったくなるのだった。
侍女達からも花束や菓子を貰い、義理の両親からは南部の特産品が大量に送られてきた。
義理の両親である先代の北部侯爵夫妻は、今は北部を離れている。
先代侯爵夫人の体調が芳しくなく、南部で療養をしているのだ。
プレゼントと共に添えられた手紙には祝福の言葉と共に、順調に回復している旨が記載されていた。
その知らせこそが何よりのプレゼントだ、とシェルリスは思う。
――そうして満ち足りた誕生日を過ごした翌日。
北部侯爵家では外部の貴族を招いた、盛大な誕生日パーティーが開催されていた。
シェルリスが北部に来て初めての誕生日だ。
貴族のみならず王家の人間までもが参加する、大規模なパーティーとなっている。
王家からは王太子と王太子妃が祝いに駆けつけた。
シェルリスは恐れ多いからと遠慮していたが、王太子とスニルヴァンが旧知ということもあり、二人は快く参加の返事をくれたのだった。
王家の人間がこうして正式に北部を訪れるのは、実に数十年ぶりのことである。
その事実はシェルリスの北部侯爵夫人としての立場を、より強固なものとするだろう。
王太子夫妻を前にしたシェルリスは、珍しく緊張している様子であった。
もともと伯爵家の三女だったシェルリス。
王族の姿を遠目から拝することはあれど、直接会話をするなんて初めてのことだった。
挨拶前、繰り返し名乗りを練習するシェルリスに、スニルヴァンは大丈夫だと励ましながら、年相応の姿を温かな眼差しで見つめていた。
シェルリスとスニルヴァンが結婚して約一年。
嫁いできた初日からそれはもう堂々たる振る舞いを見せてきたシェルリスだが、今では年相応にはしゃいだり、不安を露わにしたりすることもある。
その姿を見るたび、スニルヴァンは安心するのだ。
彼女にとって北部が気を許せる場所となっているようで、嬉しかった。
誕生日パーティーには、シェルリスの両親と弟、姉家族も参加している。
久しぶりに会う家族にシェルリスは喜んだ。
「お父様、お母様! お姉様達も、パーティーは楽しんでいただけてますか?」
「もちろん。素敵なパーティーだね」
優しい笑みを浮かべる父親に、シェルリスは得意げにくるりと一周回ってみせた。
スニルヴァンと揃いの衣装には、白地に桃色と銀色の糸で刺繍が施されている。
胸元で輝くのは、深い青色の宝石があしらわれたネックレス。
一目で上等な品だと分かるそれらは、シェルリスが北部で愛され、大切にされている証である。
寒さ厳しい北部にいながら肌艶も良く、心なしかふっくらしている気さえする。
「どう? 綺麗でしょ?」
「えぇ、とっても綺麗。上手くいってるみたいで安心したわ」
母親も優しい笑みと共にシェルリスを祝福した。
先ほど、スニルヴァンとは挨拶を済ませている。
娘の立派な姿と、夫との仲睦まじい様子に、心配していた気持ちもあっという間に消え去った。
久しぶりに家族との団欒を楽しみ、馴染みの貴族とお喋りし、初対面の者達とも親交を深め。
パーティーは華やかながらも和やかに進んでいく。
そうして一通りの挨拶を済ませたシェルリスは、ちょっと化粧室に、と言って会場を出た。
王太子夫妻もいるなか、主催二人がいなくなってはいけないからとスニルヴァンは会場に残っている。
「――シェルリス様」
侍女を伴って廊下を歩いていたシェルリスに、後ろから声が掛かる。
振り返れば、シェルリスとよく似た風貌の女が立っていた。
桃色の髪に、淡い緑の瞳。
シェルリスと同じ、春の加護を持つ者特有の色を持つ女。
女は柔和な笑みを浮かべ、頭を下げた。
「先ほどは私のような者にもお声掛けいただき、ありがとうございました。どうぞ私のことはドローメルとお呼びください」
「ドローメル嬢、こちらこそ今日はご参加くださりありがとうございます。……体調は大丈夫ですか?」
「はいっ、問題ありません。シェルリス様に心配していただけるなんて光栄ですわ」
シェルリスの返事に女――ドローメルは嬉しそうに頬を染め、声を弾ませる。
二人はこのパーティーで初めて顔を合わせたのだが、シェルリスはドローメルのことをよく知っていた。
ドローメルは北部の生まれでありながら、その見た目からも分かるように春の加護を持っている。
非常に稀有な存在である彼女は、北部の民にとってはまさに奇跡であり、希望の光。
……そして、 スニルヴァンの元婚約者でもある。
スニルヴァンにはもともと何人かの婚約者候補がいた。
しかし素行に問題があったり体が弱かったりと、選定は難航していた。
その体の弱い子というのが、ドローメルだ。
彼女は生まれつき体が弱く、幼い頃は北部を離れて過ごすことも多かった。
そして十代半ばでようやっと体調も安定し、正式に婚約者として選ばれたのだ。
ドローメルが十五歳、スニルヴァンが二十歳の時のことだった。
これで北部も安泰。
かと思いきや、ドローメルは再び体調を崩してしまい、二人の婚約は三年ほどで解消されることとなる。
そこから慎重に協議がなされた結果、シェルリスとスニルヴァンの婚姻が決まったのだ。
そんな経緯があるので、シェルリスはドローメルのことをよく知っていたし、今日のパーティーに参加していることも知っていた。
更に言えば元婚約者のパーティー参加は、シェルリス自身が望んだことでもある。
ドローメルの家は北部侯爵家とも縁の深い、歴史ある伯爵家だ。
もとより円満な婚約解消であったが、両家が今も変わらぬ仲であること、そしてシェルリス自身も懐の深さを示すことができる良い機会だと考えたのだ。
伯爵家としても、北部侯爵家と良い仲であるとアピールできるに越したことはない。
そして先ほど、衆目の前で和やかに挨拶を交わし、その役目は果たされた。
その上でこうして更に話しかけてきたドローメルを、シェルリスは少しだけ警戒する。
「……あの、良ければ少しお話ししませんか? 春の加護を持つ者同士、分かり合えることもあると思うのです」
変わらず柔らかな笑みを浮かべて話すドローメル。
しかしシェルリスの直感が訴えている。
きっとまたスニルヴァン絡みに違いない、と。
会場内ではなく、廊下で声を掛けてきた時点で怪しいと思っていた。
何よりもドローメルの装いからは、そこはかとなく敵意が感じられる。
ドローメルの着ている、シェルリスと同じ白地のドレス。
北部において白は、神聖でありながら不吉という難しい色だ。
貴族社会では自身の権威や威光を示す際に使われる。
一方で一年中雪の降り積もる土地柄、白は景色に攫われやすいとしてあまり好まれない、という面も持ち合わせている。
使い所を誤ると、あなたの不幸を願っています、といった恐ろしい意味合いになるのだ。
なので北部侯爵夫人の誕生日パーティーで白を身に着けることは、普通であれば躊躇われる。
躊躇いもなく身に着けることが許されるのは、王族ぐらいだ。
現に王族の二人は、白を基調とした衣装を身に纏っている。
ドローメルが許されているのは、昔から奇跡だなんだと讃えられ、お姫様扱いをされてきたからだろう。
シェルリスは考えた。
そして結論は早々に出た。
断ろう、という結論が。
「ごめんなさい。すぐに会場へ戻らなければいけないので、お話しならまた後でしましょう」
「そんな……。実は私、そろそろ帰ろうかと思っていたんです。医師からまだ無理しない方が良いと言われていて、あまり長居できなくて……」
「あぁ、それは残念です。でしたら、また次の機会を楽しみにしていますね。気を付けてお帰りください」
「え」
にっこりと笑い、ドローメルに背を向けるシェルリス。
売られた喧嘩は買うけれど、わざわざ同じ土俵に上がる必要もない。
なにせ今日はシェルリスの誕生日パーティーなのだ。
煩わしいことには極力関わりたくなかった。
「お、お待ちください! 少しで良いのです。私、シェルリス様とお話しできるのを楽しみにしていて」
「……」
必死に食い下がるドローメルに、怪しさはどんどん増していく。
仮にシェルリスの予想通り喧嘩を売ろうとしているのであれば、わざわざ誕生日パーティーを選ぶあたりなかなかに底意地が悪い。
そのような可能性がある人間と、やはり今は関わりたくなかった。
「お気持ちは嬉しいのですが……会場には王太子夫妻がいらっしゃるのです。長く席を外すわけにはいきません。今日でなくても機会はあるでしょうから、どうかご理解を」
「っ」
王太子の名を出されてはこれ以上食い下がることもできず、ドローメルは口を閉じる。
再度歩き出したシェルリスの後ろで、小さく「ひどいわ……」と呟く声が聞こえた。
歩みを止めることなくそっと後ろを覗き見れば、顔を両手で覆って泣いているドローメルの姿が。
彼女の儚げな容姿も相まって、まるで可哀想な被害者のようだった。
これが狙いかしら、とシェルリスは思ったが、気にせず化粧室へと向かう。
その後、会場に戻ったシェルリスはスニルヴァンへ問いかけた。
「私が席を外してる間、何かありましたか? ありましたよね?」と確信を持った物言いに、スニルヴァンは眉尻を下げる。
「泣いてる令嬢がいたんだが、もう帰ったよ。気にすることはない」
「ドローメル嬢ですね」
曖昧な説明で誤魔化そうとしたスニルヴァンだったが、ジッと見つめ、催促してくるシェルリスに白状する。
「あぁ……。シェルリスに嫌われたとか怒られたとか言っていたが、結局はドローメル嬢の両親やモア夫人に窘められて帰って行ったよ」
「一番怒っていたのはスニルヴァンだけどね」
「!!」
説明するスニルヴァンの後ろから、ひょこりと顔を出す王太子。
横には王太子妃もいる。
突然の登場に、シェルリスは飛び上がらんばかりの勢いで驚いた。
「あんな怖い顔をしたスニルヴァン、初めて見たよ。君、怒ることあるんだね」
「殿下……揶揄わないでください」
けらけらと笑う王太子は、王族でありながらも親しみやすい雰囲気を醸し出している。
スニルヴァンとは、彼が王都へ行った時に会話を交わす程度だが、気安い関係であることが窺えた。
王太子の登場と、スニルヴァンが怒ったという内容にシェルリスは困惑する。
見かねた王太子妃が、そっとシェルリスに耳打ちをしてくれた。
「怒ったって言っても、怒鳴ったわけじゃないわ。静かに注意して、退場を促しただけ。パーティーの雰囲気も悪くなってないし、誰一人あなたを責める者はいなかったから安心して」
「は、はい。ありがとうございます」
「まぁ私達も一緒になって追い出しちゃったしね」
ふふっ、と悪戯っ子のように笑う王太子妃に、シェルリスは呆気に取られる。
追い出したとは言うが、王太子夫妻は後ろで見ていただけだ。
それでも王族に黙って見つめられるというのは、恐ろしかったに違いない。
両親とモア夫人、北部侯爵から注意され、更にはその姿を王太子夫妻に注目されてしまうなんて。
できればこれに懲りて諦めてくれれば良いな、と思うシェルリスだった。
……が、やはりそう簡単にはいかないものだ。
誕生日パーティーから数週間が経った頃、ある噂がシェルリスのもとまで届いていた。
ドローメル主催の茶会で、彼女がシェルリスに嫌われてしまったと涙を流し、令嬢達からの同情を誘っているらしい、と。
北部のお姫様は、それはそれは悲しそうに、辛そうに語るそうだ。
『シェルリス様は私のことがお嫌いみたいなの。私が白のドレスを着ていたこと、大変怒ってらしたわ。きっと私がスニルヴァン様の元婚約者だから気に入らないのね。私は仲良くしたいのに……』と。
この話を聞いた令嬢達は、可哀想にと表面上は同情しつつも、果たして本当にシェルリスが悪いのか、と懐疑的であった。
北部へ来てからの一年、シェルリスは未婚の令嬢から既婚のご婦人、平民の女子供達とまで積極的に交流を図ってきたのだ。
その甲斐もあってシェルリスの味方は多い。
更に言うと、令嬢達は学んでいた。
北部侯爵夫人が北部にとってどんな存在なのか。
年齢はそう変わらずとも、決して侮って良い存在ではない。
そんな当たり前のことを、令嬢達はこの一年で改めて学び、よくよく理解していた。
北部侯爵夫人であるシェルリスと、北部のお姫様ドローメル。
どちらを信じ、どちらの側につくのか。
令嬢達の心はほとんど決まったようなものだった。
ドローメルはじわり、じわりと追い詰められていく。
徐々に茶会の招待状が減り、招待しても不参加の返事が増え、ドローメルが泣いてみせても皆曖昧な反応をするばかり。
ならば、と夜会で男性陣に泣きつくも、既にスニルヴァンの手が回っており、結果は散々であった。
そしてそんな彼女が次にとった行動は、やはりと言うかなんと言うか。
北部侯爵邸へ謝罪がしたいと言ってやって来たドローメルに、シェルリスだけでなく侯爵家の使用人達すらもまたか……と思うのだった。
シェルリスとしては追い返しても良かったけれど、さっさとけりを付けたかった。
社交界に流れるギスギスとした空気を解消するのも、北部侯爵夫人の務めだろう。
そうしていつだったかスニルヴァンの幼馴染と話をした応接室で、シェルリスとドローメルは向かい合って座ることとなった。
また紅茶を被られたらどうしよう、なんて考えながらもシェルリスは紅茶を口に含む。
「シェルリス様、あの、パーティーでは、大変失礼いたしました」
「ドレスの件ですよね? 気にしていないので大丈夫です。ドローメル嬢とスニルヴァン様が婚約関係にあったことも気にしていないので、どうかこれ以上、私に嫌われていると言うのはおやめくださいね」
「あっ……」
ドローメルは途端に涙を浮かべ、傷付いた表情をする。
そしてあっという間にぽろりぽろりと涙が溢れ出した。
「も、申し訳ございません。私、私、そんなつもりはっ……!」
ハンカチで涙を拭いながら「ごめんなさい」と繰り返すドローメルを、シェルリスはまじまじと見つめる。
今のどこに泣ける要素があったのか。
「ううっ……お、お許しください……」
「悪気がないなら良いんです。今後、あのような言動を控えてくだされば」
「悪気なんて……! そんなこと、わたしっ……」
何を言っても被害者面で泣き続けるドローメルを見て、シェルリスはなるほど、と思う。
ごめんなさいと言いながら、もうしませんとは言わないのだ。
どうやらドローメル、儚げな見た目からは想像もできないほど強かな女のようだ。
そこでシェルリスは泣き続けるドローメルを眺めることにした。
これが赤子であれば寄り添い、慰めもするけれど、相手はシェルリスよりも年上の令嬢だ。
ろくな謝罪もできない人間にかける言葉はなかった。
「ぐすっ……ぐすんっ……」
「……」
ドローメルはスンスンと鼻を啜っているが、鼻水が出ている様子はない。
もしかして、と注意深く観察してみれば、ハンカチの中に何やら目薬のような物が。
上手く隠し、上手いタイミングで目薬をさしているドローメルに、シェルリスは思わず感心する。
これだけ上手いのだから、相当練習したに違いない。
恐らく今まではこうしてジッと観察されることもなく、目薬の存在に気付かれることもなかったのだろう。
北部のお姫様が泣けば、周りは必死に慰めたはずだ。
「うっ……うぅ……」
「……」
涙の正体に気付きはしたものの、シェルリスはここでそれを指摘するような野暮な人間ではない。
目薬が無くなるまで付き合おうと、ドローメルを眺め続けた。
シェルリスの予想通り、これまで泣けばすぐに周りが慰めてくれていたドローメル。
なのでただ黙って見つめ続けるシェルリスに、内心狼狽えた。
徐々に居心地も悪くなる。
長時間の嘘泣きは、なかなか厳しいものなのだ。
シェルリスが「ごめんなさい、私が悪かったわ、もう泣かないで」と言ってくれれば、すぐに泣き止めるものを。
耐え切れず、ちらりとハンカチの隙間から窺い見れば、にっこり笑顔のシェルリスと目が合った。
「っ!!」
瞬間、ドローメルは理解する。
嘘泣きだとバレている。
カッとドローメルの顔が赤く染まった。
年下の前で嘘泣きし、しかも嘘泣きだとバレていて、そのことに気付かず泣き続けていたなんて。
ドローメルは恥ずかしくて恥ずかしくて堪らなかった。
「ぁ、わ、私」
「大丈夫ですか? 泣き止みました?」
「っ、はい」
「それは良かった。ではドローメル様、今後は不用意に私の話をしないということで。良いですよね?」
「……はい、申し訳ございませんでした」
赤く染まった顔を隠すようにして、ドローメルは深く頭を下げた。
きゅっと握り締めた手の中には、目薬が入っている。
その存在が一層自分を惨めにさせた。
しかしドローメルは、ここで終わるわけにはいかなかった。
まだ言いたいことがあるのだ。
惨めな思いをした今だからこそ、尚更伝えなければならない。
自分はこんなに惨めな思いをして良い人間ではないのだから。
「……今日は謝罪と共に、シェルリス様にお礼を申し上げたかったのです」
「お礼ですか?」
「はい。私の代わりにスニルヴァン様と結婚してくださり、ありがとうございました。本当なら私が結婚する予定でしたから……」
申し訳なさそうな笑顔には、どこか優越感が滲んでいる。
シェルリスはぱちりと目を瞬いた。
「私の代わりを引き受けてくださったこと、ずっとお礼を言いたかったのです」
「どういたしまして?」
「私の代わりに、どうか北部とスニルヴァン様をよろしくお願いします」
「はい、お任せください。頑張りますね」
明らかな煽りにもシェルリスが気にした様子はなく、ドローメルの頬がひくりと引き攣る。
煽られて、怒るなり傷付くなり、動揺するなりすれば良いと思っていたのだ。
それなのに、先ほどからどうにも上手くいかない。
蝶よ花よと育てられたドローメルは、いつだって世界の中心だった。
彼女に嫌な思いをさせる人間はいなかったし、体の弱いお姫様を皆が気遣い、優先してくれていた。
なので思い通りにならなかった時の耐性が、ドローメルにはない。
ドローメルは苛立ち、本人も気付かぬうちに小さく足を揺らし、貧乏揺すりをしていた。
「……スニルヴァン様は私と婚約している間、とても優しく接してくださいました」
「優しい方ですからね」
「……私には特に優しくしてくださいました」
「婚約者だったんですから、当然です」
「っ、違います!!」
ドローメルは思わず立ち上がり、叫んだ。
頭に血が上り、もはや取り繕うことなく本音をぶちまける。
「スニルヴァン様は私を愛してくださっていました。私には特別優しくて、特別紳士的で」
「そうですか……。素敵な婚約期間を過ごされたんですね」
「そうです。 私達は愛し合ってた。シェルリス様が選ばれたのは、春の加護を持っていたからですよ。ただそれだけです。愛されてるわけじゃない。春の加護がなければ、あなたなんて選ばれなかったんだからッ!!」
怒り、はぁはぁと息を切らすドローメル。
言われた内容に、シェルリスは不思議そうに首を傾げる。
それから訝しげに眉を寄せ、まるでおかしな物でも見るかのようにドローメルを見上げた。
「それは、当たり前では?」
「……え?」
「春の加護を持っていたから選ばれた、そんなの当たり前ではありませんか。私だけでなくスニルヴァン様も、なんなら北部で暮らす人々はみんな知っています。下手したら全国民が知っていることかと」
「なっ」
「私達の結婚に、スニルヴァン様や私の意思は関係ありません。加護を含め、あらゆる条件を加味した結果、私が選ばれたんです。例え愛がなくとも、私達はこれからも北部のために夫婦であり続けますよ」
必要とされているのは、春の加護のみ。
そう言って罵りたかったのだろうけれど、シェルリスにとっては至極当たり前のことであった。
もちろん愛し合える夫婦になれるのであれば、それに越したことはない。
現にシェルリスもスニルヴァンも互いに良い関係が築けるよう歩み寄り、夫婦としての時間も大切にしている。
貴族の義務だとか務めだとか、そういったものを抜きにした夫婦としての時間。
その結果、愛していないと言われたシェルリスの心の裏側が、チクリと小さく痛んだことは、紛れもない事実であった。
けれどそんな痛みよりも、シェルリスには大事なことがある。
彼女にとって何よりも優先すべきは、北部の安寧なのだから。
ドローメルはシェルリスの真剣な眼差しに言葉を詰まらせ、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「……そうですよね、スニルヴァン様」
シェルリスの目線が、ドローメルの後ろにある扉へと向けられる。
ドローメルがハッとして後ろを振り返れば、急いで来たのか、少しだけ髪の乱れたスニルヴァンが困ったように二人を見ていた。
「あ、ぇ……い、いつから……」
「シェルリスが選ばれたのは春の加護を持っていたから、あたりかな」
「!! ぅそ、ちがう、違うんですっ……」
スニルヴァンはいつかのように、口を挟むなとシェルリスから目で制されていた。
ドローメルは青褪め、冷や汗を浮かべて狼狽える。
ふらつき、今にも倒れてしまいそうだ。
スニルヴァンが彼女の横を通り過ぎようとすれば、必死な形相で追い縋った。
「待ってください。違うんです。スニルヴァン様、私は……」
「ドローメル嬢、離してくれ」
「っ、もしも、もしも私と婚約解消していなかったら、私と結婚していましたよね? 今からでも遅くないんじゃ」
「ドローメル嬢」
ドローメルの手を剥がし、スニルヴァンはシェルリスの隣へ並び立つ。
「私達の結婚に、もしも、なんてものは無いんだよ」
「でも」
「私はシェルリスと結婚した。シェルリスの言う通り、私達はこれからも北部のために夫婦であり続けるよ。それに少なくとも私には、シェルリスへの愛がある」
うんうんと頷きながら聞いていたシェルリスは、スニルヴァンの言葉にはたと動きを止める。
今なんて?
と確認するように隣を見上げれば、優しい青の瞳と目が合った。
途端、ぼぼぼっと赤く染まるシェルリスの頬。
意外な反応に驚きつつも、スニルヴァンは愛おしそうに目を細めると、シェルリスの肩を抱き寄せた。
応接室の外で見守っていた使用人達も「あらあら」なんて言って、微笑ましそうに見守っている。
そんな様子を目の前で見せられたドローメルは、たまったもんじゃなかった。
「ぁ……」とか「ぅ……」とか言いながら、ついにはソファの上へと崩れ落ちてしまう。
いつもなら誰かがすぐに駆け寄ってくれるけれど、ここに彼女の味方はいなかった。
「……少し休んでいきなさい。もちろん帰る前にはシェルリスへ謝罪するように」
ドローメルの体が弱いというのは本当なのだ。
婚約していたこともあり、彼女の扱いには慣れているスニルヴァン。
侍女に指示を出して客室へと案内させようとしたが、ドローメルは弱々しく首を振り、それを拒んだ。
「いいえ……結構です……。あの、スニルヴァン様、私……」
何か言い訳しなければと頭を働かせるも、何も思い付かなかった。
スニルヴァンはドローメルとの婚約中、確かに優しかった。
特別優しかったのも嘘じゃない。
しかしそれはドローメルが婚約者だったからだ。
ドローメルが婚約者になれたのは、春の加護を持っていたからだ。
シェルリスの覚悟を前に、そんな当たり前のことに今更気が付いた。
何よりもドローメルは、愛しているなんて言われたこと、ただの一度もないのだ。
そのことに気付いた時、力の抜けたドローメルの手から何かが滑り落ちた。
コツンと軽やかな音を立てて床に転がったのは……目薬だ。
「あっ」
「あ」
「ん?」
ドローメルとシェルリス、二人の声が重なる。
スニルヴァンは不思議そうな顔で目薬を見つめていた。
ドローメルは慌てて目薬を拾い上げると、シェルリスに向かって頭を下げる。
「シェルリス様、申し訳ございませんでした。度重なる無礼な発言、本当に、本当に申し訳ございませんっ……」
惨めで恥ずかしくて、顔から火が出そうだった。
今すぐここから消えてしまいたくて、つい言葉も早口になる。
じわじわと本物の涙も浮かんでくる始末だ。
そんなドローメルからの謝罪を受けて、シェルリスは少しだけ悩む素振りをみせた。
「そうですね……。このまま何もお咎めなしという訳にもいきませんし、ドローメル嬢、祈祷院へ行かれてはいかがですか? 北部における春の加護の重要性をよくよく理解しているドローメル嬢には、ぴったりかと」
「き、祈祷院……? あ、ぁ……私……」
「もちろん体調が不安定で難しいということであれば、無理強いはしません」
びくりとドローメルの肩が揺れる。
シェルリスの言わんとしていることが、ドローメルにはしっかりと伝わっていた。
北部にある祈祷院は、北部外から春の加護を持つ者が派遣され、祈りを捧げる場所だ。
基本的には平民が派遣される場所であり、そこで従事するというのはドローメルにとって耐え難い屈辱であった。
だからと言って、体調を理由に断るのも難しい。
ドローメルは頻繁に茶会を開き、夜会に参加することができる程度には健康だ。
さっきなんて「今からでも遅くないのでは」と、スニルヴァンとの結婚まで仄めかしてしまった。
これだけ健康であるにも関わらず、北部侯爵夫人からの提案を断るとなれば、あとはもう北部を出ていく他ない。
祈祷院へ行くか、北部を出るか。
シェルリスが言っているのは、そういうことだった。
「……しょ、承知いたしました。あの、両親とも相談を、いたしますので……」
ドローメルは再度深く頭を下げた後、ふらふらと応接室を出て行った。
侍女が付き添っているため、途中で倒れてしまう心配はないだろう。
二人きりになった応接室で、スニルヴァンはしげしげとシェルリスを見つめていた。
「シェルリスがあぁいうことを言うのは珍しいね」
「それは……これまではスニルヴァン様に甘えてしまっていたので……。今後はこういったこともできるようにならないと」
「苦手なことはできる方がすれば良いんだよ。無理する必要はない」
シェルリスがここまで厳しい処分を言い渡すのは、初めてのことだった。
他人の人生を左右する大きな決定を下すのは、恐ろしく、勇気がいるものだ。
そんなシェルリスの躊躇を、スニルヴァンも分かっていた。
なので「シェルリスの望むように」と毎回言ってはいたものの、深く追求することはしなかった。
にも関わらず、今回シェルリスが一歩を踏み出したのは、北部侯爵夫人としてこのままでは駄目だと思ったから……だけではない。
ドローメルの発言に少なからず傷付き、嫉妬してしまったからこそ、自分でけりをつけたかったのだ。
自身への好意に鈍いスニルヴァンが、この事実に気付くことは一生ないだろうけれど。
「スニルヴァン様の苦手なことって……やっぱりあれですか?」
「ん? あれって…………あっ! いや、シェルリス、それは、うん……」
シェルリスの考えを察したスニルヴァンは、途端に口ごもってしまう。
その様子を見て、シェルリスは思わず笑ってしまうのだった。
――その後、ドローメルは週に三日、祈祷院へ出仕することとなった。
連続した三日間を祈祷院で過ごし、そこで寝泊まりもしている。
汚くはないが、貴族令嬢であるドローメルが過ごすには適さない環境に、彼女の心は疲弊する。
祈祷院では食事が出るものの、パンとスープ、果物だけの食事は味気ない。
しかもこの食事、シェルリスによって改善されたものだと言うではないか。
ドローメルは悔しさに顔を歪め、黙ってパンを食い千切った。
祈り自体は数分の黙祷と、決まった内容の祝言を日に何度か繰り返すだけだ。
当たり前だけれど、北部侯爵夫人が行うものとは全く違う。
その事実がまた、ドローメルの自尊心を削っていく。
何よりも彼女を苦しめたのは、周りからの視線だ。
共に祈りを捧げる平民はもちろん、貴族社会に戻っても遠巻きにされ、今までのようにちやほやされることはなくなった。
そしてドローメルの両親は彼女の振る舞いに、平身低頭して謝っていた。
ドレスの件も、浅はかであったと認めている。
しかし伯爵家は平民にとって、北部の希望が生まれた家だ。
事情を知らない彼等から希望を奪うことは躊躇われ、表向きは何事もなかったかのように処理されている。
ドローメルの出仕も、北部侯爵夫人の手伝いの一環と伝えられている。
実際は共同事業の利益配分が変更されたり、伯爵領で獲れる最上級の毛皮や肉を破格で融通することになったりと、それなりの罰が下された。
ちなみに毛皮は、シェルリスが好きなキツネの毛である。
シェルリスは「これがあのキツネちゃん……」と少し複雑だったが、モア夫人より北部特有の毛刈り方法を学び、今では笑顔で身に着けている。
来年の誕生日は、キツネの置物用にマフラーを頼もうか。
あるいはもう一体、シェルリスを模したキツネよりも、更に小さなキツネを頼んでも良いかもしれない。
そんなことを考えながら、シェルリスは青いキツネの頭を優しく撫でた。
◆
これはもしもの話だけれど。
もしも、万が一、仮に、何らかの事情によってシェルリスの加護が消えてしまったら。
そうなった時、二人はきっと北部のために離婚する。
北部のために結婚し、北部のために離婚する。
その選択ができるだけの覚悟を、二人は持っている。
薄情だと思われるかもしれないが、二人はこのお互いの覚悟ごと、お互いを認め、尊重し、愛している。
それにもしもの話なので、このような未来が訪れることはない。
これから先も誰に何をされようと、何を言われようと、二人は夫婦なので。
幼馴染、従妹、元婚約者
スニルヴァンが誤解を与えている三大令嬢でした。
似たような話が三回も続いてしまいましたが、これにて北部侯爵夫人シリーズは完結です。
ちなみに登場人物の名前は、北欧由来でした。
気付かれた方いるかな?と思いつつ……
ここまで読んでいただきありがとうございました!




