44:デメトリオの渇望
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エマと初めて気まずい空気になってしまった。
自由な思考のままでいて欲しいと思うが、身の危険や、ひどい噂の的にはなって欲しくはない。
王城を抜け出すにあたって、父と俺に報告があった。父親であるルシエンテス男爵がチェス大会に出向くから見送りに行く、と。
卿にそんな予定はない。
エマと結婚するにあたり、卿には予定を事前に提出するよう頼んでいる。毎年この時期に隣の大陸で開催されるチェス大会は、近隣の雪崩による災害で延期が決まっていた。
別に、実家に帰ることについて不満があるわけではないし、嘘をつかれた理由もなんとなく察している。
菓子も作ると聞いて、食べたいと言うと、当初は今すぐ作るような反応をしていたのに、急に時間が必要だと言い出した。
あぁ『恋人の祭典』だなと察しが付いてしまった。
この国ではまだ浸透していないが、王族や海外遠征をする騎士たちの間では結構有名なイベントだ。
素直に嬉しいし、一四日が待ち遠しかった。
ただ、当日の朝にやはり下級の使用人たちや役人たちが、将来王妃になる者の行動じゃない。下級貴族である実家とは縁を切るべきだ。もしや浮気をしに戻っているのでは。などと噂しているのを聞いてしまった。
エマに悪い感情を持つ者はかなり少ない。祖父の遺言書のことを知っている親族や高位貴族たちが、軒並み同情しているからだ。
反感を持っている相手は、とてもわかりやすい。俺の婚約者候補だろうと、まことしやかに囁かれていた令嬢たちとその親族だろう。
カサンドラが常に側にいたから身を引いていた者たちが、エマがいけるなら自分にもチャンスがあると勘違いしているようだという報告は受けている。
それとなく婚約の話が出る度に、必要性を感じないと断っていた俺のせいでもあるんだろうが。
「ごめんなさい」
泣きそうになるのを我慢したような顔で、キュッと唇を噛み締めたエマ。抱きしめて、キスをして、俺もごめんと謝って、泣いていいと言ってやりたい。
でもそれは、俺が楽になりたいだけの行動だ。
そして、エマをいつか余計に苦しめるだけだ。
それでも、額にキスだけはさせて欲しい。怒ってないよ、と伝えたい。
「俺も、せっかく楽しそうな気分を壊してすまなかった。また後でな」
「はい」
エマは心が豊かで強い。思考も早い。
ルシエンテス夫妻が、大切に伸びやかに育ててきたからこそ、いまの彼女があるのだろう。ただ、どれだけ心が豊かであろうとも、悪意にはとても弱い気がしている。
俺がどこまで守れるか分からないからこそ、自衛を覚えて欲しいと思うのだが、それはエマの良さを打ち消してしまわないかと不安でもある。
どういう夫婦の形にしたらいいのか、まだ分からない。父に聞いても、人それぞれだよ、エマ嬢と話し合いなさい、と言うだけだ。
――――エマ。
心の中で名前を呼ぶだけで、息が苦しくなる。
エマと祖父と三人で過ごしていた日々は楽しかった。とても愛おしい時間だった。顔を見て話せるだけで満足していた。
祖父の死後、エマと婚約して二人きりで過ごす時間が増えたはずなのに、なぜか足りない。ずっと渇いている。
そして、怖さを知った。エマを失うのがとても怖ろしい。
――――エマ。
君は、今日の『恋人の祭典』を知っているのか?
今日のために何かをくれるんだよな?
俺が欲しいものは一つしかないんだが、何か知っているんだろうか?
――――俺は、君が欲しいんだよ?





