第9話 女神(ポンコツ新人)の初仕事と、プロの矜持
翌朝、私がプライベートゲートを抜けると、女神アストライアは昨日とまったく同じ場所に、石像のように佇んでいた。
その手には、私が置いていった作業日報が、まるで聖典のように固く握りしめられている。
『あ、アカリ様! おはようございます! 本日の業務、開始ですね!』
その瞳は、昨日までの絶望の色ではなく、新入社員のような、どこか場違いなやる気に満ちていた。
…少し、いや、かなり面倒くさい予感がする。
「ええ、定時ですので。本日はエリアA-2、通称『アンブロシアの濁流』地帯の浄化作業を行います」
『はい! それで、わたくしめには、何かお手伝いできることは…!?』
キラキラとした期待の眼差し。
私は一瞬、こめかみがピクッと動くのを感じた。
プロの現場に、素人は不要。それが私の信条だ。ましてや、この女神は、汚部屋を千年放置した筋金入りのズボラなのだ。手伝わせて、事態が悪化しない保証がどこにある。
「クライアント様は、クライアント様でいてくださるのが一番です。お気持ちだけ」
『そ、そんな! わたくしも、この奇跡を、この手で…! アカリ様のようなプロのお仕事を、間近で学びたいのです! お願いします!』
必死に食い下がってくるアストライア。
ここで断固拒否して、一日中「手伝わせてください」とまとわりつかれるのと、何か簡単な作業を言いつけて黙らせるのと、どちらが効率的か。
私は脳内で素早く損益計算を行った。
「……はぁ。わかりました。では、一つだけ、特別に研修を兼ねた作業をお任せします」
私はアイテムボックスから、先日「迷惑料」として受け取った秘宝の数々を取り出し、床に並べた。
「ここに、神界の秘宝があります。これを、『キラキラしているもの』と『そうでもないもの』の二種類に仕分ける。これが、本日のあなたの業務です。以上」
『し、仕分け…でありますか!』
「ええ。ただし、許可なく作業エリアに侵入したり、機材に触れたりした場合は、即刻クビ…いえ、契約内容の見直しを検討しますので、そのつもりで」
釘を刺すと、アストライアは『はいっ!』と、人生で一番良い返事をして、お宝の山へと向かっていった。
ふぅ、と息をつく。これで少しは、静かに作業ができるだろう。
私は気を取り直し、本日の現場――アンブロシアの濁流跡へと向かった。
神々の飲み物であるアンブロシアが、長い年月をかけて発酵し、床にべったりとこびりついている。しかも、ただの汚れではない。糖分が魔力と結合し、小さな『シュガー・ゴーレム』となって、うごめいていた。
「なるほど、第二形態ってわけね」
キタナギツネより、明らかに厄介そうだ。
私はマジカルモップを構え、まずは一体に浄化液を噴射した。ジュッと音を立て、ゴーレムの体が溶け始める。だが、完全に消滅する前に、他のゴーレムが仲間を助けようと、ねちゃねちゃとした腕を伸ばしてきた。
「連携までしてくるとは…! 面白い!」
私の闘争心に火が付いた。
左手に持ったブラシで敵の攻撃をいなし、右手のモップで的確に弱点を突く。まるで、ダンスを踊るように、私は次々とシュガー・ゴーレムを無力化し、床から完全に除去していく。
作業に没頭していると、ふと、背後から視線を感じた。
振り返ると、アストライアが、仕分け作業もそっちのけで、うっとりとした表情で私の「お仕事」に見惚れていた。
『すごい…アカリ様の動き、まるで戦乙女のようです…! 一点の無駄もない、究極の機能美…!』
その手元では、「キラキラしているもの」の山に、どう見てもくすんだ色の石が混じっている。…まあ、いいか。
小一時間ほどで、アンブロシアの川は完全に浄化され、床は元の輝きを取り戻した。
額の汗を拭い、私は自分の仕事に満足げに頷く。
「よし。次は…」
ふと、マジカルモップの先端に、ゴーレムの粘液がわずかにこびりついているのに気がついた。
(この粘着性…もう少し、ブラシの毛先を硬質化させるアタッチメントがあれば、もっと効率が上がるな)
私は頭の中に新しい設計図を描き、後でジルドンへの「発注書」を書くことを心に決めた。
その日の作業を終え、私が日報を書き上げていると、アストライアが自分の「成果」を、もじもじしながら差し出してきた。
『あ、あの…本日の業務、完了しました…!』
「…拝見します」
二つの山は、まあ、素人目に見ても仕分けが甘かった。だが、彼女なりに一生懸命やったのだろう。
私はペンで日報に追記する。「研修項目:仕分け作業。評価:可」。
「…及第点です。明日のあなたの業務は、今日の続きと、この聖域内の床の乾拭きです」
『か、乾拭き! ステップアップしました!』
大げさに喜ぶ女神を尻目に、私はプライベートゲートへと向かう。
去り際に、ちらりと振り返る。
アストライアは、一人、広くなった清浄な空間に佇み、そっと、磨き上げられた大理石の壁に触れていた。
その横顔は、ただのダメな女神ではなく、自分の「家」の温かさを、初めて知った少女のようにも見えた。
(……まあ、ほんの少しだけ、ほんの少しだけ、見込みはある、のかも)
そんなことを思いながら、私はダンジョンの我が家へと帰還した。
明日のログインボーナスは、何だろうか。そんなことを考えるのが、最近の私のささやかな楽しみになっていた。