第8話 プロのお仕事(お掃除無双)と、クライアントの仕事(見守り)
私の目の前には、神の怠惰が育て上げた、邪悪なオーラを放つ黒カビ。
それは、ただの汚れではない。長い年月をかけて魔力を吸い、一種の生命体のように脈動さえしている。
だが、それがどうした。
プロとして、汚れの種類は問わない。ただ、そこにある「穢れ」を「清浄」へと変えるのみ。
「――行きます」
私は小さく呟くと、【対・神性カビ用研磨ブラシ】を構え、黒カビに覆われた大理石の柱へと滑らせた。
シュンッ…!
ブラシの先端、アダマンタイトの繊維が、神性カビに触れた瞬間。
まるで闇が光に焼かれるように、黒カビは悲鳴のような音を立て、一瞬にして光の粒子へと昇華されていった。ゴシゴシこする必要すらない。ただ、撫でるだけ。それだけで、千年の汚れが、存在しなかったかのように消滅していく。
ブラシが通り過ぎた後には、本来あるべき姿の、乳白色に輝く美しい大理石が姿を現した。周囲の汚濁とのコントラストが、その清浄さを一層際立たせる。
「…………すごい」
ぽつり、と背後から呆然とした声が聞こえた。
振り返ると、女神アストライアが、自分の頬をつねっている。
『ゆ、夢じゃない…? 私の神殿の柱が、光ってる…!?』
「ええ、これが本来の姿でしょう。では、クライアント様は、そちらの比較的安全な場所でお待ちください。作業の邪魔になりますので」
私はアストライアをゴミ山の麓にある、かろうじて立てるスペースに追いやると、本格的な作業計画の策定に取り掛かった。
「まず、この玄関ホールを『エリアA』と設定。エリアAをさらに四分割。A-1は、あのデリバリー容器の山脈ね。A-2は、粘着性の液体が川になっている廊下。A-3は、天井から垂れ下がる、あれは…霊的ホコリでできた鍾乳洞?」
あまりの惨状に、ネーミングセンスもファンタジーになってくる。
「よし、今日の目標は、このエリアA-1のゴミ山脈を完全に撤去し、このゲート周辺を前線基地として確保すること!」
私は高らかに(心の中で)宣言すると、次の神具を構えた。
オリハルコン製の【空間湾曲式チリトリ】だ。
デリバリー容器の山脈は、見た目以上に厄介だった。容器に残った神々の食べ残しが、異臭を放つスライム状の魔物へと変異している。
だが、私の前では無力だ。
「トルネード・クレンザー!」
まず、ほうきで魔物を浄化し、光の粒子に変える。そして、残された膨大なゴミの山に、私は黒く輝くチリトリを、ただ、突き刺した。
ズボッ…!
チリトリの縁が、黒い光と共に空間を歪ませる。山脈は、まるで巨大な掃除機に吸い込まれるように、チリトリの中へとごうごうと音を立てて消えていった。数分後、あれほど高くそびえていたゴミの山は、跡形もなくなっていた。
「素晴らしいわ、ジルドン…!」
この効率性! このパワー! 私は、まだ見ぬドワーフの仕事ぶりに、改めて感謝した。
そこからは、まさにお掃除無双だった。
粘着性の川には、【霊的ホコリ吸着式・浄化スプレー内蔵型マジカルモップ】から、特殊分解酵素を噴射。ヘドロをサラサラの砂状に変え、一気に拭き上げる。
天井のホコリ鍾乳洞は、ほうきの竜巻で根こそぎ吸引。
私の動きに合わせて、神殿は、ほんの少しずつ、しかし着実に、本来の輝きを取り戻していった。
数時間後。
ゲートを中心とした半径二十メートルほどの円内は、床も壁も天井も、一点の曇りもない完璧な「聖域」となっていた。
「ふぅ…。初日はこんなものかな」
私はアイテムボックスから愛用の折り畳みテーブルとチェアを取り出し、聖域の真ん中に設置した。そして、【四次元おやつポーチ】から取り出したクッキーと、水筒に入れたハーブティーで、優雅な休憩時間を過ごす。
その様子を、アストライアが、ゴミの国から聖域を眺める難民のように、おずおずと見ていた。
「あ、あの…」
「はい、なんでしょう。クライアント様」
「き、きれい……」
彼女は、生まれて初めて見る美しいもののように、磨き上げられた大理石の床を見つめ、涙ぐんでいる。
「本日の作業は、ここまでです。進捗率、推定0.01%。このテーブルの上に、本日の作業日報を置いておきますので、ご確認を」
『さ、作業日報…!?』
私が指差したテーブルの上には、「作業内容:エリアA-1の固形廃棄物除去、及び床面洗浄」「使用機材」「明日の作業予定」などが、プロの書式でびっしりと書かれた羊皮紙が置かれていた。
「では、わたくしはこれで。明日も定時(朝九時)に伺いますので」
私はアストライアに軽く一礼すると、彼女の返事を待たずに、悠々とプライベートゲートをくぐった。
背後で女神が「これが…プロのお仕事…!」と感動に打ち震えている気配がしたが、知ったことではない。
我が家に戻った私は、ジルドン印のフライパンで美味しい夕食を作ると、ふかふかのベッドに倒れ込んだ。
明日の仕事に備えて、早く寝よう。
史上最も過酷で、そして、最もやりがいのある仕事が、私を待っているのだから。