第41話 創造的清掃(プロジェクト・ジェネシス)と、汚された虚無
私の聖域は、今や、神界と地上を巻き込む、巨大プロジェクトの作戦司令室と化していた。
ホログラムのモニターには、世界の各所で、黒い「虚無」がリアルタイムで拡大していく様子が映し出されている。その中には、ルミナ王国の公園や、ジルドンの工房がある山脈も含まれていた。
『師匠! このままでは、本当に…!』
通信の向こうで、アストライアが悲痛な声を上げる。
だが、私の心は、驚くほど、凪いでいた。
怒りや、焦りではない。目の前の、あまりに雑で、無責任で、そして、プロ意識に欠ける「仕事」に対する、静かな、しかし、燃え盛るような、闘志。
「落ち着きなさい、アストライア。…わたくしは、今、目の前の、真っ白なキャンバスを、どうデザインしようかと、考えているところです」
『え…? キャンバス、ですか…?』
「ええ。何もない空間。…これほど、一から、完璧な仕事をしやすい現場も、そうそうありませんからね」
私の言葉に、アストライアは、ただ、呆然とするしかなかった。
数日後。
ジルドンから、彼の魂と、私の無茶な要求の、全てが注ぎ込まれた、新たな「神具」一式が届けられた。
【プロジェクト・ジェネシス】。それが、今回の一大プロジェクトのコードネームだ。
私は、再び、あの青年と対峙した、世界の果てへと、ゲートを繋いだ。
アストライアは、私の身を案じ、固唾をのんで、神殿から、魔力スクリーンで、その様子を見守っている。
虚無が、大地を侵食している。
私は、その境界線に沿って、ジルドンが打ち上げた、巨大な水晶の杭――【因果定着アンカー】を、次々と、大地に打ち込んでいく。
アンカーが起動すると、その周囲の世界の情報――地形、魔力、生態系、その場所に刻まれた歴史、その全て――が、光の粒子となって、アンカーの水晶の中へと、バックアップされていく。
これで、たとえ世界が消されても、その「在ったという事実」は、失われない。
「さて。これで、保険は、万全ですね」
私は、相棒の【ケルベロス】に乗り込むと、そのアームを、今回の主役である、新たなアタッチメントへと換装した。
【概念創造スプレー】。
そのノズルから噴射されるのは、ただの液体ではない。あらゆる存在の「元」となる、混沌とした、しかし、無限の可能性を秘めた、虹色の「概念の霧」だ。
私は、ケルベロスを、虚無の境界線ギリギリに止めると、ノズルを、あの、全てを吸い込む、絶対的な「黒」へと向けた。
そして、躊躇なく、トリガーを引く。
シュゴオオオオッ!
虹色の霧が、黒い虚無へと、噴射された。
消滅しない。
弾かれもしない。
まるで、真っ黒なキャンバスに、一滴の絵の具が落ちたように。
虹色の霧は、虚無の上に、「染み」として、確かに、存在した。
その瞬間、私は、感じた。
世界のどこかにいるであろう、あの青年が、初めて、明確な「苛立ち」の感情を、発したのを。
(…気づきましたか。あなたの、完璧で、何もない、静かな部屋に、わたくしが、泥のついた足で、上がり込んできたことに)
青年は、その「染み」を、消そうとする。
だが、私がスプレーに混ぜておいた【因果定着剤】の効果で、その染みは、しぶとく、消えない。彼が力を込めれば込めるほど、染みは、まるで、擦って広げた汚れのように、じわり、と、広がっていく。
彼の、完璧な「無」は、もはや、完璧ではなくなった。
それは、彼にとって、耐え難い「汚れ」の出現だった。
私は、ニヤリ、と笑う。
ここからが、本番だ。
「第一工程、終了。これより、第二工程、環境デザインへと移行します」
私は、バックアップ・アンカーから、この土地の、本来あるべき姿のデータを、ケルベロスへと転送する。
そして、再び、虚無へと、概念の霧を噴射した。
だが、今度は、ただ、闇雲にではない。
「まず、地面の基礎となる、岩盤の『概念』を。次に、それを覆う、豊かな土壌の『概念』を。そして、そこに流れる、清らかな水の『概念』を…」
私は、まるで、超高性能な3Dプリンターを操るように、虚無のキャンバスの上に、世界を、「描き」始めた。
虹色の霧が、形を成していく。
一本の、草が生まれる。
一個の、石が生まれる。
一滴の、水が生まれる。
それは、あまりに、地道で、精密で、そして、創造的な「お掃除」だった。
遠くで、青年が、焦り、苛立ち、その力を、さらに強めているのが分かる。
だが、もう遅い。
「あなたの『何もない』は、最高の仕事場です」
私は、静かに、しかし、確かな勝利を確信して、独りごちた。
「おかげで、一から、理想的な世界を、デザインできますからね」
「――さあ、研修の始まりです。新人君。プロの『仕事』というものを、その目に、焼き付けなさい」