第4話 汚部屋女神(クライアント)と清掃員(プロ)の力関係
ジルドン謹製のフライパンは、私のダンジョンライフを革命的に変えた。
キノコを炒めれば、旨味が凝縮されてプロの味に。洞窟で捕まえたトカゲのような生き物の肉を焼けば、皮はパリッと、中は驚くほどジューシーに仕上がる。
「はぁ〜、QOLが爆上がりだわ…」
私はすっかり快適になった我が家で、食後のハーブティーをすすっていた。ジルドンからのお供え物、もといログインボーナスはあの日以来、三日に一度のペースで洞窟の前に置かれている。新鮮な食材から、便利な薪割り斧まで。どうやら私は、彼の中で「気まぐれだが恵みをもたらすダンジョンの主」的なポジションに落ち着いたらしい。
(まあ、快適だから別にいいけど)
人間関係のストレスゼロ。うまい飯。安全な寝床。そして潤沢な軍資金(魔晶石)。完璧だ。
私は満ち足りた気分で、アイテムボックスから先日回収した「不浄のオリハルコン」を取り出した。ずしりと重い、鈍色の金属塊。
「しかし、これどうしようかな。フライパンは貰っちゃったし。鑑定だと『精錬は極めて困難』って書いてあったしなあ」
まるでゲームの超レア素材だ。下手にいじって価値を下げたくない。私が指で表面をなぞり、その冷たい感触を確かめていた、その時だった。
ピコン!ピコン!ピコン!
目の前に出現した女神通信機が、これまでにない激しい警告音と共に、赤く点滅し始めた。
「うわっ、びっくりした! なによ、緊急事態?」
画面に映し出された女神アストライアの姿を見て、私はさらに驚いた。
いつもは完璧にセットされているプラチナブロンドの髪はボサボサで、頬には何かのソースがついている。その表情は、いつもの尊大な笑みではなく、切羽詰まった焦りの色を浮かべていた。
『ちょ、ちょ、ストーーップ! それ! それよ、アカリ!』
「はあ? それって、このオリハルコンのこと?」
『そうよ! なんであなたがそんなものを持ってるの!? それ、浄化できるの!? できるなら今すぐ、わたくしに献上しなさい! これは神託よ! 命令よ!』
アストライアが、かつてない剣幕で身を乗り出す。
そして、私は見てしまった。
彼女が動いたことで、その背景がはっきりと、広範囲に映し出されたのだ。
そこは、神殿などでは断じてない。
食べ終わったカップ麺の容器が積み上がり、飲みかけのペットボトルが転がる。開封されたポテトチップスの袋が散乱し、ソファと思われる場所には、脱ぎ散らかされた服が山となって雪崩を起こしている。
それは、私が元の世界で幾度となく戦ってきた、あの光景。
カビとホコリと怠惰が支配する、混沌の空間。
――完全無欠の「汚部屋」だった。
「…………」
私は、オリハルコンから女神の背景へ、そして再び女神へと、視線をゆっくりと往復させた。
ああ、なるほど。点と点が、線でつながった。
やたらと「浄化」にこだわっていた理由。時折見切れていた、背景の不審な山。
目の前の女神は、神聖な力を持つ、崇拝すべき存在などではない。
ただの――。
「……あなた、さては」
私の静かな声に、アストライアがビクッと体を震わせる。
『え? あ……』
「汚部屋の住人ですね?」
図星を突かれたアストライアの顔が、見る見るうちに真っ赤になり、そして青ざめていく。完璧な美少女が、みるみるうちにただの狼狽した子供のようになった。
『ち、違う! これは、その、創造の過程で生まれた聖なる混沌であって…!』
「言い訳は結構です」
私はスッと立ち上がると、プロの清掃員としてのスイッチを入れた。もはや、相手は神ではない。新規の、しかもかなり厄介な「お客様」だ。
「お客様、大変申し上げにくいのですが、そのお部屋、衛生レベルは最低ランクです。おそらく害虫やカビも相当発生しているかと。健康にもよくありませんよ?」
『ひっ…! な、なんでそんなことまで…』
「ええ、わかりますとも。伊達にこの道十年やってませんから」
私はにっこりと、完璧な営業スマイルを浮かべた。
その笑みが、アストライアには悪魔の微笑に見えたらしい。彼女はついに、わっと泣き出した。
『うわーん! ごめんなさーい! そうです、わたくし、片付けられない神なんですぅ! この神殿、もう足の踏み場もなくて、先日ついに床が抜けましたぁ!』
「床が」
思ったより重症だった。
『だから、あなたの浄化スキルを見て、これだと思ったの! いずれ私の部屋も掃除してもらおうって!』
やはり、それが目的か。
私は一つ、大きなため息をついた。
「はぁ…。事情は分かりました。ですが、わたくし、今はダンジョンの環境整備で手一杯ですので」
『そ、そこをなんとか! あのオリハルコンも! 他の宝物も! みーんな差し上げますから! お願いします、アカリ様!』
様付けになった。
完全に、立場は逆転した。
私はアイテムボックスからメモ帳とペンを取り出すと、テーブルに置いた。
「では、まずはお見積りからですね。お部屋の平米数、汚れの種類とレベル、ご希望の作業内容をお聞かせいただけますか? ……あ、このオリハルコンは、コンサルティングの契約金として、先に頂戴しておきますので」
私の言葉に、女神――いや、クライアント様は、涙と鼻水を垂らしながら、コクコクと何度も頷いた。
(さて、とんでもない依頼が舞い込んできたな…)
次のクエストは、ダンジョン攻略より遥かに難易度の高い、「女神の汚部屋掃討作戦」だ。
私は、史上最高額の見積書をどう作ってやろうかと、静かに思考を巡らせ始めた。