第39話 書庫の記憶と、もう一人の“同業者”
私の聖域に、初めて、心地よくない静寂が訪れた。
アシスタント・ゴーレムも、私の思考を邪魔すまいと、その場に静止している。
画面に映し出された【解析不能】の四文字。それは、プロである私の経歴に、初めて刻まれた「染み」だった。
『し、師匠…! 大変です! あの黒い“無”の領域が、わずかに、ですが、拡大を続けているとの報告が…!』
通信の向こうで、アストライアが悲鳴に近い声を上げる。
だが、私の心は、不思議と、凪いでいた。
パニックは、非効率の源だ。プロは、どんな現場でも、まず、冷静に状況を分析することから始める。
「…分かりました。物理的、魔術的な直接観測が不可能である、と。ならば、アプローチを変えるまでです」
私は、目の前の現実から、過去の記録へと、調査の軸足を移すことにした。
この世のあらゆる叡智が眠る、この王立大書庫。私が、私の流儀で、完璧に最適化した、最高のデータベース。ここに、答えがないはずがない。
「アシスタント」
『御意ニ、マスター』
「全書庫の記録を対象に、クロス検索を開始します。キーワードは、『空間消去』『因果律干渉』『存在の無効化』、そして、『概念的虚無』。関連する可能性のある文献を、一文字たりとも、見逃さないでください」
『検索クエリ、受理。…実行シマス』
ゴーレムの水晶のモノクルが、青白い光を放ち、高速で明滅を始める。
書庫中の、何百万冊という書物が、ひとりでに棚から飛び出し、彼の前で、パラパラと、凄まじい速さでページをめくっていく。
それは、叡智の嵐。この聖域の、真の主となった、私だからこそ可能な、力技の調査だった。
数分後。
ゴーレムは、一冊の、古びて、黒い革で装丁された魔導書を、私に差し出した。
『マスター。該当スル可能性ノアル、唯一ノ文献ヲ発見。…タイトル、『禁忌魔術考:非創造論について』。最高レベルノ封印が施サレテイタモノです』
「…開いて」
ゴーレムが、私以外の者では決して開けぬであろう、古代の封印を、いとも簡単に解除していく。
中には、難解な古代神聖語で、理論上のみ存在する、とされる、禁断の魔術について記されていた。
全てを「無」に帰す、という、あまりに非生産的で、神の理に反する、究極の破壊魔法。
「…これですね。この魔術を、誰かが、この世界で、現実に、使っている…」
私が、その呪われた理論を、指でなぞりながら読み解いていた、その時。
羊皮紙の、ページの隅に、インクの色も、筆跡も、明らかに本文とは違う、小さな、小さな走り書きがあるのに、気がついた。
その、見慣れた文字の形に、私の心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。
ありえない。ここに、あるはずがない。
だが、それは、間違いなく――。
――「日本語」だった。
『こんな面倒な世界、全部消して、ゼロにすればいいのに』
その、あまりに幼稚で、あまりに投げやりな、絶望の言葉。
私は、その一文を、ただ、呆然と見つめていた。
全てのピースが、繋がった。
解析不能の現象。禁断の魔術。そして、この、日本語のメモ。
この「汚れ」の主は、神でも、悪魔でも、古代の怪物でもない。
わたくしと、同じ。
この世界に、何らかの理由でやってきた、「異世界人」。
そして、おそらくは、わたくしよりも、ずっと若い、同業者。
私は、静かに、アストライアに通信を繋ぎ直した。
私の声に、もはや、焦りの色はない。ただ、プロとしての、静かな確信だけがあった。
「アストライア。予備調査は、完了しました。この現象は、自然災害ではありません。一個人が、意図的に引き起こしている、人為的な『汚染』です」
『こ、個人が!? いったい、どんな神にも等しい力を持つ者が…!』
「いいえ。神ではありません」
私は、立ち上がった。
その手には、いつもの神具(掃除道具)ではなく、一枚の、白紙の設計図が握られている。
「…それより、遥かに、厄介な相手です」
プロの魂に、再び、火が灯る。
だが、それは、これまでの「お仕事」とは、全く質の違う炎だった。
(異世界に来てまで、投げやりな仕事をするなんて…)
(同じプロとして、そして、同じ世界の出身者として、許せませんね)
私は、これから始まる、史上最も面倒で、最も不毛な「新人研修」を思い、深く、深く、ため息をついた。
(あなたのその、手抜き極まりない『お掃除』のやり方。…わたくしが、一から、根こそぎ、叩き直して差し上げますよ)