第37話 業務完了報告書と、最高の報酬
蒼穹商会の、ガラス張りのエントランスホール。
昨日までの、見せかけの豪華さと、その裏に潜む淀んだ空気は、すっかりと姿を消していた。
社員たちの顔から、長年の心労と恐怖が消え、代わりに、戸惑いと、そして、ほんの少しの希望の色が浮かんでいる。
私とアストライアが、設置したプライベートゲートの前に立つと、一人の男が慌てて駆け寄ってきた。
会頭の座を追われたヴァレリウスに代わり、新たにトップに就任した、良識派の若い理事だ。
「あ、アカリ様…! この度は、我々蒼穹商会を、その…お救いいただき、誠に、ありがとうございました…!」
彼は、深々と、腰が九十度に折れるのではないかというほど、頭を下げた。その声には、恐怖と、それ以上に、心からの感謝と畏敬の念がこもっている。
私は、そんな彼に、一枚の魔法の石板を手渡した。
「これは?」
「今後の、御社のための、『定期メンテナンス・スケジュール』です。わたくしが構築した新しいシステムを、健全に維持するための、具体的な指針が記してあります。これを遵守する限り、二度と、組織に『汚れ』が溜まることはないでしょう」
私の言葉に、新会頭は、まるで聖遺物でも受け取るかのように、恭しく、両手で石板を受け取った。
「…では、わたくしの仕事は、これで、全て完了です」
私がそう告げると、彼は、何か言いたそうに、しかし、言葉を見つけられない、という顔で、ただ、もう一度、深く頭を下げた。
ダンジョンの我が家へと帰還した私は、ジルドン謹製の戦闘用ビジネススーツを脱ぎ捨て、いつもの、着心地の良い部屋着へと着替えた。
瞬間、全身の力が抜け、どっと疲労感が押し寄せてくる。
「はぁ〜〜〜……疲れた……。もう二度と、人間相手の『お掃除』はやりたくない…」
私がソファに沈み込んでいると、アストライアが、興奮した様子で、一枚の明細書をホログラムで投影した。
『師匠! ご確認ください! 蒼穹商会より、先ほどの請求書への、全額の支払いが完了しました! その額、ルミナ王国の国家予算の、約二年分に相当します!』
「そうですか」
『それだけではありません! こちらを!』
彼女が次に示したのは、追加で送られてきたという、贈答品のリストだった。
『「心ばかりのお詫びと、心からの感謝の印」と称して、神界でも滅多に手に入らないという、最高級の『天上の涙』という品種のコーヒー豆が、木箱で百箱、贈られてきました!』
「…ほう。それは、いいことを聞きました」
金銀財宝には、一ミリも動かなかった私の心が、希少なコーヒー豆の名に、わずかに、しかし、確かに、ときめいた。
その日の夕方。
私は、最後に、一つの確認のために、ジルドンとの交流地点へと向かった。
そこには、見慣れた彼の相棒――あの、傷つけられたハンマーが、美しく磨き上げられた専用の台座の上に、誇らしげに飾られていた。
腐食魔法の痕は、完全に消え去っている。だが、あの時つけられた物理的な傷は、あえて残され、その傷を埋めるように、美しい金色の金属が流し込まれていた。それは、まるで、戦士の勲章のようだった。
そして、その台座には、一つの、小さな金属の塊。
そこには、彼の、無骨で、しかし、力強い文字で、ただ二文字、こう刻まれていた。
――【感謝】
「……」
私は、その二文字を、そっと指でなぞった。
どんな言葉よりも、どんな報酬よりも、雄弁に、彼の気持ちが伝わってくる。
私は、持ってきた天上のコーヒー豆の木箱を、そっと、台座の隣に置いた。
最高の仕事をする、最高のパートナーへ。最高のコーヒーを。
言葉はいらない。それで、十分だった。
全ての仕事が、終わった。
私は、王立大書庫の、私の聖域へと戻る。
アシスタント・ゴーレムが、早速、天上のコーヒー豆を完璧な作法で挽き、淹れてくれた、極上の一杯。その香ばしい香りが、静かな書庫に満ちていく。
私は、愛用のリクライニングチェアに深く身を沈め、そのコーヒーを、ゆっくりと味わった。
(面倒なクライアント、腐った組織、そして、大切なパートナーにまで及んだ、悪意ある汚れ…)
これまでのどんな現場より、ストレスフルで、厄介な「染み」だった。
(…ですが)
私は、カップの向こうに見える、完璧に整理整頓された、静かな書庫を見渡す。
(迷惑料は、たんまりと請求できましたし。何より、こうして、私の平和は、守られた)
(それが、全てです)
私は、心からの満足と共に、目を閉じた。
しばらくは、この聖域から一歩も出ずに、古代の叡智と、最高のコーヒーを、心ゆくまで満喫しよう。
プロ清掃員の、次なる「現場」からの、迷惑な呼び出しが来る、その日までは。




