第32話 汚された仕事道具(パートナー)と、プロの逆鱗
私の完璧な聖域に、初めて、明確な「悪意」の染みが落ちた。
あの日以来、私の穏やかな日常は、静かな緊張感へと変わっていた。研究に没頭する傍ら、私はダンジョンの防衛システムの感度を最大まで引き上げ、侵入者の痕跡を徹底的に分析していた。
(あの男…ただの斥候。本命は、これから、か)
蒼穹商会。アストライアが口にした、大陸最大手の企業。
彼らの目的が、私の持つ超高度な浄化技術であることは、想像に難くない。
だが、そのやり方が、私の予測を遥かに超えて、陰湿で、そして、許しがたいものだった。
その日、私は、いつものようにジルドンとの交流地点へと向かった。
彼が打ってくれた、人間工学マグカップを片手に。中には、神界産の最高級茶葉が、心地よい香りを立てている。
しかし、お供え場所に置かれていたものを見て、私は、息を呑んだ。
そこに置かれていたのは、食材でも、新たな作品でもない。
一本の、古びたハンマーだった。
それは、彼が長年愛用しているであろう、ドワーフ族の銘入りハンマー。私が、以前、彼が置いてくれた道具の数々から、彼の「相棒」だと認識していたものだ。
そして、そのハンマーは、ひどく傷つけられていた。
柄の部分には、何者かが意図的にかけたであろう、強力な腐食魔法の痕跡。金属部分には、職人の命であるバランスを、微妙に、しかし確実に狂わせるための、微細な傷。
それは、単なる破損ではない。
職人の魂を、その誇りを、内側から殺すための、悪意に満ちた「汚損」だった。
ハンマーの横には、小さなメモがあった。
そこには、彼のものと思われる、震える文字で、ただ一言、こう書かれていた。
――『仕事が、できん』
「…………」
私の手の中で、ジルドン謹製のマグカップが、ピシリ、と小さな音を立てた。
怒りではない。
それよりも、もっと冷たく、もっと重い感情が、私の胸の奥底から、静かに湧き上がってくる。
私は、無言でハンマーを回収し、書庫の分析ラボへと戻った。
ハンマーに残された、微弱な魔力の残滓を分析する。結果は、一瞬で出た。
蒼穹商会が、自社の織物工場で独占的に使用している、特殊な工業用漂白剤の魔術的痕跡。…ご丁寧に、証拠まで残してくれていたらしい。
私は、そのまま、地脈ソナー・ドローンを、ジルドンの工房があると思われる、人里離れた山脈地帯へと飛ばした。
モニターに映し出されたのは、予想通りの光景だった。
蒼穹商会の制服を着た、数名の男たち。彼らは、ジルドンの工房の、巧妙に隠された入り口を、執拗に、そして、乱暴に探っている。
(…パートナーの仕事場まで、荒らすつもりか)
私が、モニターを睨みつけていると、タイミングを見計らったかのように、公式の魔力通信が入った。
画面には、人の良さそうな、しかし、目の奥が全く笑っていない、初老の男が映し出された。蒼穹商会の会頭だ。
『これはこれは、特級コンサルタント・アカリ殿。お初にお目にかかります。あなたの素晴らしいご活躍、かねがね、お噂は伺っておりますぞ』
「……」
『単刀直入に申し上げましょう。あなたのその類まれなる技術、我ら蒼穹商会で、世のため、人のために、生かしてみませんか? もちろん、報酬は、あなたの言い値で構いませぬ。…この世界、才能ある職人も、力あるギルドに所属してこそ、真価を発揮できるというものですからな』
その言葉は、甘い蜜の中に、鋭い毒を隠していた。
ジルドンのような、ギルドに属さない独立した職人には、未来はない、と。そう、暗に脅しているのだ。
私は、無言で通信を切った。
そして、次の瞬間。
私の聖域の境界線で、再び、けたたましい警報が鳴り響いた。
モニターを切り替えると、そこには、空間の裂け目から、粘度の高い、おぞましい産業廃棄物が、滝のように、私のダンジョンへと投棄されている光景が映し出されていた。
彼らは、交渉が決裂したとみるや、私を外に引きずり出すための、最も直接的で、最も愚かな手段を選んだのだ。
自分の聖域が。
自分の仕事が。
そして、自分の唯一のパートナーの誇りが。
利益という、くだらない目的のために、無責任な「汚れ」によって、踏みにじられていく。
私の頭の中で、何かが、プツリ、と切れた。
私は、静かに立ち上がると、アストライアへと通信を入れる。
その声は、自分でも驚くほど、冷たく、そして、穏やかだった。
「アストライア」
『は、はい、師匠! ただいまの不法投棄、神の権限において、厳重に抗議を…!』
「いえ、その必要はありません」
私は、彼女の言葉を遮る。
「新規の依頼(案件)です。クライアントは、蒼穹商会」
『ええ!? あの、しつこい!? 断るのでは…』
「ええ。彼らが依頼してくる前に、こちらから、無償で、最高のコンサルティングを提供して差し上げることにしました」
私は、モニターに映る、自らの聖域を汚す、醜悪なヘドロを見据える。
「――その名も、『特別経営監査』です」