第31話 完璧な聖域(サンクチュアリ)と、招かれざる客
王立大書庫の最奥、私が「第二の城」と定めた私的空間は、もはや世界で最も快適な研究室と化していた。
私が一つの古代文献を読み終え、「…なるほど。つまり、この時代の浄化魔法は、触媒としてオリハルコンの微粒子を用いていた、と」と呟けば、隣に控える【アーカイビスト・ゴーレム】が、即座に、関連する別の文献を無言で差し出してくれる。
『マスター。ソレニ関連シ、ドワーフ族ノ金属加工技術ニ関スル記述ヲ、第五書架ヨリ抜粋』
「ありがとう、アシスタント。仕事が速いですね」
『マスターノ思考速度ニ比較スレバ、マダマダ非効率デアル』
この、言葉のいらない、完璧な連携。
そして、小腹が空けば、神界モデルの【全自動・味付け完璧なべ】が、私の好みを学習し、絶妙な塩加減のコンソメスープを自動で温めてくれる。
私は、この永遠に続くかのような、穏やかで知的なソロライフに、心の底から満足していた。
そんなある日の午後、アストライアからの定時連絡が入った。
画面の向こうの彼女は、すっかりマネージャーとしての風格を身につけている。
『師匠、ご報告です! 先日、ルミナ王国から感謝の印として、最高級の宝石が山と送られてきました。環境再生地区は、今や王都一の観光名所として、莫大な利益を生んでいるそうです。これも全て、師匠のおかげです!』
「結構です。わたくしは、自分の仕事をしただけですので。それより、神殿の床のワックスがけは、怠っていませんね?」
『も、もちろんです! あの輝きを曇らせるなど、弟子としてありえません!』
アストライアは、ビシッと敬礼してみせる。その様子は、少しだけ面白い。
彼女は、ふと、思い出したように付け加えた。
『そういえば最近、大陸最大手の『蒼穹商会』というところから、師匠の環境再生技術について、かなりしつこい問い合わせが来ています。「ぜひ、そのノウハウを商業利用させてほしい」と。もちろん、わたくしの権限で、全て丁重にお断りしておりますが』
「…商会? 興味ありません。引き続き、うまくあしらっておいてください」
私は、その名を気にも留めず、再び古代の文献へと意識を戻した。
その日の夕方、私は気分転換に、ダンジョンの我が家へと帰還し、ジルドンとの交流地点へと向かった。
そこには、見慣れない、しかし、一目で彼の作品とわかる、見事なマグカップが一つ、置かれていた。
希少な魔導金属を削り出して作られたそれは、私の手の形に完璧にフィットし、中に入れた飲み物の温度を、半永久的に維持する機能が付いているらしい。
「……」
言葉はない。だが、この一つの作品に、彼の私への敬意と、職人としての魂が、雄弁に込められていた。
私は、お返しに、アストライアから献上された神界の最高級茶葉を、そっと隣に置いた。
この、静かで、穏やかな関係が、私にとっては、何よりも心地よかった。
だが、私の完璧な日常は、唐突に、しかし、必然的に、破られることになる。
ウウウウウウウッ!
突如、私の聖域全体に、けたたましい警報が鳴り響いた。ダンジョンの境界に設置した、侵入者感知結界が作動したのだ。
「…何事です?」
私が現場に駆けつけると、そこには、数匹のキタナギツネに追われ、「助けてくれー!」と情けない声を上げる、若い冒険者風の男がいた。
「いやあ、すいません! ちょっと道に迷っちまって…! 危ないところを助かりました!」
男は、私が浄化魔法でキタナギツネを消滅させると、やけに馴れ馴れしく頭を下げた。
だが、私は、彼の姿を、冷徹に観察していた。
(おかしい…)
冒険者と名乗るには、その装備は、傷一つなく、あまりに綺麗すぎる。ダンジョンで道に迷ったというのに、そのブーツには、泥の一滴すら付着していない。
そして何より、その目が、キタナギツネではなく、私の拠点や、周囲の環境を、探るように、いやらしく泳いでいた。
私は、何も言わず、ただ、静かに指を鳴らした。
次の瞬間、男の背後に、巨大な影が、音もなく出現する。
工場から連れてきた、番人ゴーレム【カストディアン】だ。
「ひっ…! な、なんだ、こいつは!?」
『当区画ハ、関係者以外、立チ入リ禁止区域。…速ヤカニ、ご退去ヲ』
カストディアンは、その巨体で、無言の圧力をかける。男は、恐怖に顔を引きつらせると、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「やれやれ。面倒なことになりましたね」
私が溜息をついた、その時。
男が逃げていった後の地面に、一枚のハンカチが落ちているのに、気がついた。
上質な、シルクのハンカチ。
そして、その隅には。
空色と白の糸で、翼をかたどった、見覚えのある紋章が、小さく、しかし、はっきりと刺繍されていた。
――『蒼穹商会』。
アストライアが口にした、あの商会の名。
偶然か。いや、違う。
私の完璧な聖域に、初めて、明確な「人間の悪意」が、侵入してきた。
私は、拾い上げたハンカチを、静かに握りしめる。その瞳の奥に、プロとしての、冷たい光が宿り始めていた。
私の平穏な休日は、どうやら、これで、本当に終わりらしい。