第29話 大地の脈動と、新たな混沌
その日の作業は、地道で、途方もないものだった。
私は、相棒の【ケルベロス】を駆り、広大な無菌の大地に突き立てられた【ガイア・ニードル】を、一本、また一本と巡っていく。
その都度、精密に調合したエメラルドグリーンの生命活性剤を、大地の奥深くへと注入する。
その光景は、後方で見守る者たちにとって、畏敬としか言いようのないものだった。
『見てください、グレンダル殿! 師匠がニードルを打つたびに、あのホログラム地図の緑の領域が広がっていきます! まるで、凍てついた王国に、春の女神が生命を吹き込んでいるかのようです!』
私の秘書が、興奮気味に実況する。
その隣で、魔術師長グレンダルは、もはや学術的な好奇心すら通り越し、恍惚とした表情で、魔法の石板に凄まじい速さでメモを取っていた。
「ああ、なんと美しい魔力循環の回復曲線だ…! あの座標、あの深度、あの注入量! 全てが完璧な計算に基づいている! これだ、これこそが、失われた『創生魔術』の真髄なのだ…!」
騎士団長は、何も言わない。
ただ、その厳しい顔で、大地に点々と生まれていく、小さな緑の奇跡を、瞬きもせずに見つめていた。
夕暮れが迫る頃、二百七十三本、すべてのニードルへの注入が完了した。
ホログラムの地図は、淀んだ黒い部分が完全に消え、全体が、力強い生命力を示す、鮮やかな緑色に輝いていた。
「…ふぅ。第一段階、完了です」
私がケルベロスのコクピットから降りると、アストライアがタオルと冷たいお茶を持って駆け寄ってきた。気が利くようになったものだ。
「お疲れ様です、師匠! これで、あの大地も元通りに…」
だが、私が「いえ」と首を横に振った、その時だった。
「…ん?」
騎士団の一人が、驚きの声を上げた。
見ると、私たちが最初に緑の芽吹かせた地点の、その双葉が、ありえない速度で成長を始めているではないか。
ぐんぐん、と音を立てるように、茎が伸び、葉が茂り、数分後には、鬱蒼とした低木へと姿を変えていた。
その現象は、ニードルが打たれた全ての地点で、連鎖的に発生。
昨日まで真っ白な不毛の大地だった場所は、わずか一時間のうちに、見たこともない植物が生い茂る、制御不能の「魔の森」へと変貌してしまったのだ。
『な、なんですの、これは!?』
「生命力が、暴走している…?」
アストライアと騎士団長が、愕然とする。
グレンダルが、ハッと我に返って叫んだ。
「いかん! 詰まりを取り除いた水道の蛇口を、全開にしたようなものだ! 魔力循環は回復したが、それを制御し、律する『生態系』が存在しない! このままでは、ただの緑の混沌が生まれるだけだぞ!」
だが、その混沌を前に、私は、ただ一人、冷静だった。
それどころか、その口元には、プロとしての、不敵な笑みすら浮かんでいた。
「ええ、分かっていますよ。もちろん、それも計算のうちです」
私の言葉に、三人は「え?」と、間の抜けた声を上げる。
「部屋のホコリを掃除機で吸ったら、終わりですか? 違いますよね。棚を拭き、窓を磨き、家具を最適な位置に配置し、美しい花を飾る。そこまでやって、初めて『快適な空間』は完成する」
私は、目の前に広がる、生命の暴力とも言えるジャングルを見据えた。
「地脈の詰まり(汚れ)を取り除いただけでは、ただの『更地』になったに過ぎません。ここからが、この現場の、本当の仕上げです」
私は、再びケルベロスの操縦席へと乗り込むと、アストライアに指示を出した。
「秘書。ジルドンに、第二陣の装備の納品を要請してください。設計図は、もう渡してありますよね」
『は、はい! 【プロジェクト・ガーデニング】と名付けられた、あの…!』
「ええ。これより、第二段階を開始します。――目標は、『生態系のデザインと、その定着』です」
私は、ケルベロスのアームを、高圧洗浄ノズルから、先日届いたばかりの、全く新しいアタッチメントへと換装した。
それは、超高速で木々を刈り込み、地形すら作り変えることができる、【超振動粒子ソー】。
「さあ、始めましょうか」
私は、制御不能のジャングルへと、ケルベロスをゆっくりと進ませる。
「この、荒れ放題の庭を、世界で一番美しい、理想の『公園』に、作り変えて差し上げますよ」
それは、もはや「掃除」ではない。
大地をキャンバスにした、「環境創造」という、神の領域の仕事。
私の、プロ清掃員としてのキャリアが、今、新たなステージへと、足を踏み入れようとしていた。