第20話 汚れの迷宮(ダンジョン)と、壊れた番人(おそうじゴーレム)
廃工場の内部は、外から見た以上の、まさに「汚れの迷宮」だった。
ひんやりと湿った空気は、鉄錆と、正体不明の化学薬品の匂いが混じり合い、呼吸するだけで気分が悪くなりそうだ。私は即座に、【ケルベロス】のコクピットを密閉し、内部の空気清浄機を最大レベルで稼働させた。
「まずは、進行ルートの確保からですね」
目の前には、固形化した紫色のヘドロが、まるで川のように道を塞いでいる。
私は、ケルベロスのアームの一本、高圧洗浄ノズルを展開。ノズルから噴射されたのは、ただの水ではない。私が調合した、特殊なヘドロ分解剤だ。
シュゴオオオオッ!
高圧で噴射された分解剤が、頑固なヘドロを、まるでシャーベットのように溶かしていく。すかさず、もう一本のアーム、空間圧縮式バキュームを起動。溶けたヘドロを、残らず吸い上げていく。
数分後、そこには、本来のコンクリートの床へと続く、一本の綺麗な道が出来上がっていた。
「ふん。汚染レベルC+、といったところですか」
私が冷静に分析しながら進んでいくと、今度は壁や天井の配管から、スモッグ・ビーストたちが、ぬるり、と姿を現した。工場内部の瘴気を吸っているせいか、外にいた個体より一回り大きく、動きも俊敏だ。
だが、ケルベロスの前では、ただのホコリの塊に過ぎない。
私は、三本目のアーム、超高速回転ポリッシャーを起動。その回転が生み出す風圧と浄化作用で、スモッグ・ビーストたちを、近づくことすら許さずに分解・消滅させていく。
戦いではない。あくまで、害虫駆除だ。
その様子は、アストライアが展開した魔力スクリーンを通じて、後方の騎士団長たちにも中継されていた。
『なんと…! あの密集した魔物の群れを、一切危なげなく…! 一種の集団制圧術として、完璧ではないか!』
『違う、騎士団長! あれは戦闘ではない! 汚染物質の構造的脆弱性を突き、最小の魔力で連鎖的に分解しているのだ! あの効率! あの精度! ああ、なんという応用魔術…いや、もはやこれは、魔術ではない、新たな科学だ!』
騎士団長が戦術として、グレンダルが学術として、私の「お掃除」に感嘆の声を上げている。
私は、そんな彼らの反応など気にも留めず、ただひたすらに、汚染源の中心へと進んでいった。
やがて、たどり着いたのは、工場の心臓部である、巨大な制御室だった。
無数のケーブルが火花を散らし、壊れた計器類が悲鳴のような音を立てている。そして、その中央。巨大な魔力水晶が、禍々しい紫色の光を放っていた。
そして、そのクリスタルを守るように、一体の巨大なゴーレムが立ちはだかっていた。
そのゴーレムは、敵意や殺意といったオーラを放っていない。ただ、ひたすらに、悲しげな、そして、どこか歪んだ使命感に満ちていた。
『キケン…キケン…セイジョウナ…カオスヲ…ミダス…ハイジョ…スル…』
ゴーレムが、歪んだ合成音声で呟くと、その腕から、新たなヘドロを床に撒き散らし始めた。
攻撃ではない。私が綺麗にした道を、再び「汚そう」としているのだ。
私は、その行動を見て、全てを理解した。
「なるほどね。あなたは、敵じゃない。…ただ、壊れてしまっているだけなんだ」
『アカリ師匠?』
「あれは、この工場を清潔に保つための、お掃除ゴーレムよ。でも、長年の汚染で、そのプログラムがバグを起こしている。『綺麗』と『汚い』の認識が、完全に反転してしまっているのね」
私は、ケルベロスの武装を全て収納した。
「アストライア。これより、この現場の責任者の、修復作業に入ります」
私はコクピットを開けると、一つのアームだけを起動させた。超高速回転ポリッシャーだ。
私は、そのアームで、ゴーレムの目の前の床を、一点だけ、ピカピカに磨き上げた。
すると、ゴーレムは、その輝く床を見て、『ヨゴレ…ハッケン…! ジョキョ…スル!』と、一直線にそこへ向かい、ヘドロを塗りつけようと躍起になる。
その隙に、私はゴーレムの背後にある、制御盤へと駆け寄った。
カバーを開けると、そこには、ホコリとススにまみれた、複雑な魔力回路が広がっていた。
「ここね、故障の原因は」
私は、戦闘用の神具ではなく、腰のポーチから、小さな、精密機器用の清掃キットを取り出した。
特殊な洗浄液を染み込ませた綿棒で、回路の基盤を優しく拭き上げ、固着したススをエアダスターで吹き飛ばす。そして、最後に、腐食した魔力端子を、導電性の研磨剤で、丁寧に、丁寧に磨き上げた。
それは、まるで、壊れたアンティーク時計を修理する職人のような、静かで、平和な作業だった。
全てのメンテナンスを終え、私は、制御盤にあった、一つの赤い『再起動』スイッチを、強く押し込んだ。
瞬間、巨大なゴーレムの動きが、ピタリ、と止まる。
その全身から放たれていた禍々しいオーラが霧散し、不気味な赤い光が、穏やかな青い光へと変わった。
ゴーレムは、自分のヘドロにまみれた腕と、周囲の惨状を見下ろし、そして、クリアになった合成音声で、静かに呟いた。
『……システム、再起動。清掃プロトコル、正常化。…工場内汚染レベル、カテゴリーS。危険。…これより、オペレーション・クレンリネスを開始します』
巨大な番人は、私に深々と一礼すると、向き直り、自らの腕を高圧洗浄ノズルへと変形させ、自分が汚した制御室の床を、勢いよく清掃し始めた。
私は、その頼もしい後ろ姿を見ながら、満足げに頷いた。
敵を倒す必要なんてない。
だって、わたくしは、プロの清掃員。
汚れているものは、綺麗にすればいい。壊れているものは、直せばいい。
ただ、それだけのことなのだから。