第15話 出張準備(という名の要塞構築)と、質の悪いクライアント
「さて、と…」
依頼を受けてしまったからには、仕方ない。
プロとして、仕事は完璧にこなす。ただし、私の精神衛生と快適なソロライフも、完璧に守り抜く。
今回の出張は、私にとって未知の領域への遠征だ。準備に、一点の妥協も許されない。
私はアイテムボックスを開き、出張用の荷造りを開始した。
まず、ジルドン謹製の神具(掃除道具)一式。これは当然だ。次に、先日彼に作ってもらった「対・広範囲ガス状汚染用・拡散式中和剤噴霧器」の試作品。そして、私が考案した、あらゆる騒音を完璧に遮断する「静寂のイヤーマフ(魔法付与)」。
それから、愛用のリクライニングチェア、肌触り最高のブランケット、お気に入りのハーブティーセット、【四次元おやつポーチ】は満タンに補充。
「よし。これで、どんな環境でも、私だけの聖域を構築できる」
私は満足げに頷くと、最後に、ジルドンへの新たな発注書を羊皮紙に書きつけた。
今度の依頼は、王都の汚染を浄化するための、さらに大規模なプラントの設計図だ。途方もない作業になるだろう。私は報酬として受け取った魔晶石の、実に半分を革袋に詰めると、それを設計図と共に、いつもの場所へ置いた。
(相棒、今回も頼んだわよ)
心の中でそう呟き、私はアストライアが私の拠点内に設置した、白銀に輝く王都直通のゲートの前に立った。
「準備はよろしいですか、師匠!」
「あなたは黙って私の後ろにいるだけで結構です、秘書」
『はい!』
秘書という新しい肩書が嬉しいのか、アストライアは元気よく返事をした。
私は一つ、大きなため息をついてから、ゲートへと足を踏み入れた。
瞬間、世界が反転する。
薄暗く、ひんやりとして、私の心に馴染んだダンジョンの空気から、一転。
さんさんと降り注ぐ陽光、むせ返るような草いきれ、そして、遠くから聞こえてくる、人のざわめき。
情報量が、多すぎる。
私は思わず「静寂のイヤーマフ」を装着した。
「お待ちしておりました。女神アストライア様より遣わされし、浄化の専門家殿」
硬質な声に顔を上げると、そこには、絵に描いたような二人の男が立っていた。
一人は、白銀の鎧を寸分の隙もなく着こなした、いかめしい顔つきの騎士団長。彫像のように微動だにしない。
もう一人は、金の刺繍が施された豪奢なローブをまとい、細いフレームの眼鏡の奥から、こちらを値踏みするように見つめる、神経質そうな宮廷魔術師長。
アストライアが、私の前に出て、胸を張る。
『ええ、わたくしが女神アストライアです。そして、こちらが今回の案件を担当する、わたくしの右腕、特級コンサルタントのアカリです!』
マネージャーとして、なかなか堂に入った挨拶だ。
だが、男たちの反応は、冷ややかだった。
「ふん。これが噂の『掃除屋』か」
魔術師長が、鼻で笑う。
「見たところ、ただの人間の女のようだが。我ら宮廷魔術師ギルドの総力を挙げても解明できぬ『呪われた霧』を、このような者が、果たして本当に浄化できるのか。見物だな」
「グレンダルよ、口を慎まれよ。神がお選びになった方だ」
騎士団長が、低い声で魔術師長を窘めるが、その目にも、ありありと不信の色が浮かんでいる。
(……なるほど)
私は、初めて二人の顔をまともに見た。
そして、内心で、静かに見積書の修正を始めた。
(今回のクライアントは、神様より遥かに質が悪い。これは、基本料金に加えて、特別迷惑料を30%、いや、50%は上乗せする必要がありそうですね)
私の心の声など知る由もなく、騎士団長は、遠くに見える王都を指し示した。
美しい城壁に囲まれた街。だが、その北西の一角だけが、まるで呪われたように、不気味な紫色の霧に沈んでいる。
「あちらが、問題の工業地帯です。専門家殿、あなたの『お掃除』とやらで、この国の危機を救えると、本気で思っておられるのかな?」
試すような、挑戦的な視線。
私は、装着したイヤーマフの位置を、ほんの少しだけ直し、無表情のまま、静かに口を開いた。
「――わたくしは、プロですので」
その言葉に、どんな感情も乗せない。
ただ、事実として、そこにあるだけ。
だが、私のその一言が、逆に二人のプライドを刺激したらしい。彼らは不快そうに顔を歪め、私に背を向けた。
「…まあ、いい。ついて来られよ。王がお待ちだ」
波乱の幕開けだ。
私の不本意極まりない王都出張は、どうやら、想像以上にストレスフルなものになりそうだった。
だが、それでいい。
迷惑料は、きっちり、きっかり、請求させてもらうのだから。