第12話 弟子の成長と、お茶の時間
大叡智の書庫での、地道で、果てしない作業が始まってから、どれくらいの時が経っただろうか。
私とアストライアの間には、いつしか阿吽の呼吸とでも言うべき、静かな連携が生まれていた。
私がマジカル脚立の上で本棚を拭き上げていると、下からアストライアが『師匠! 次は神聖魔術論の棚です!』と声を飛ばす。私が手を差し伸べると、彼女は絶妙なタイミングで、分類済みの魔導書を手渡してくる。その動きには、もう以前のような迷いやおぼつかなさはない。
「クライアント様。最近、少し腕を上げましたね」
『えへへ、それほどでも! アカリ師匠のご指導の賜物です!』
彼女はホコリで汚れた頬で、はにかんでみせる。
最近の彼女は、ただ本を仕分けるだけではなかった。貪るように、その内容を吸収し始めたのだ。
『師匠、ご存じでしたか? 神々の間で太古に流行したボードゲーム、『ディバイン・ストラグル』の必勝法がこの本に…!』
「知りませんし、興味もありません。それより、そのゴシップ誌の山、早く片付けてください」
『あ、はい!』
時折、そんな風に脱線しては私に一蹴されているが、その瞳が知識を得る喜びに輝いているのは明らかだった。かつての怠惰な女神の面影は、もうどこにもない。
そんなある日、ジルドンから新たな神具(納品物)が届いた。
私が「大量の書籍を自動で運搬する何かが欲しい」と、少し雑な設計図を渡しておいたのだ。
届いたのは、【自律思考型・魔法のブックカート】。
美しい樫の木で作られたその手押し車に、本の束を乗せて「歴史書庫、C-3の棚へ」と命じると、なんと車輪がカシャカシャと動き出し、自動で目的の棚へと向かっていくではないか。
『すごい…! まるで生きているようです!』
「ジルドンの腕は、神の域ね…」
このハイテクな相棒の加入により、私たちの作業効率は飛躍的に向上した。
そして、ついに書庫の浄化作業も、最終段階へと差し掛かっていた。
その日の午後。
広大な書庫の、綺麗に片付いた一角に、私はお茶の準備をしていた。これは、最近の日課だ。
「休憩にしますよ、クライアント様」
『はい、師匠!』
アストライアはパタパタと駆け寄ってくると、私が淹れたハーブティーを、美味しそうに一口飲んだ。
『ふぅ…生き返ります。師匠の淹れるお茶は、世界一美味しいです』
「茶葉がいいだけです」
私たちは、静かにお茶を飲む。この、仕事の合間の穏やかな時間が、私は存外、嫌いではなかった。
『そういえば、師匠』と、アストライアがふと切り出した。
『先日、師匠の世界の物語が書かれた書物を見つけました。『マンガ』というそうです。そこには、とても魅力的な『推し』という概念が出てきました。師匠にも、その…『推し』は、いらっしゃるのですか?』
「……っ!」
私は、思わずお茶を噴き出しそうになった。
まさか、この世界で、女神の口から「推し」という単語を聞くことになるとは。
「な、なぜそれを…」
『わたくし、気になってしまって。師匠はいつもお一人で、ご自分の世界を大切にされているご様子。ですが、その『推し』という存在は、孤独を彩るとても素敵なものだと、その書物にはありましたので』
彼女は、純粋な好奇心の目で、私を見つめている。
…この女神、私のことを、ちゃんと見ていたのか。
私は少しだけ逡巡した後、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
私の愛するアニメのこと。その作品に登場する、孤高の剣士である推しのこと。彼の生き様が、どれほど私の心を支えてくれているか。
我ながら、早口で、要領を得ない説明だったと思う。
だが、アストライアは、相槌を打ちながら、とても真剣に、そして楽しそうに、私の話を聞いていた。
「…と、いうわけです」
『なるほど…! よくわかりました! つまり師匠は、そのケンスケ殿を、わたくしと同じくらい尊敬しているのですね!』
「推しとクライアントを一緒にするのはやめてください」
私がジト目で言うと、彼女は「えへへ」と笑った。
なんだか、調子が狂う。だが、自分の好きなものを誰かに話すのが、こんなにも気恥ずかしく、そして、温かい気持ちになるなんて、知らなかった。
お茶の時間を終え、私たちは書庫の最後のエリア――天井まで届く、巨大な巻物の山の前に立った。
これが、この現場のラスボスだ。
私が「さて、最後の仕上げを…」と言いかけるより早く、アストライアがぐっと拳を握りしめた。
「やりましょう、師匠!」
その顔は、もう私の指示を待つだけの、ただのクライアントではなかった。
一人の、頼もしいパートナーの顔をしていた。
私は、彼女の成長が、なんだか無性に嬉しくて。
自然と、口元に笑みが浮かんでいることに、自分でも気づいていなかった。
「ええ。――やりましょうか、弟子」
私の言葉に、アストライアは、これまでで一番美しい、太陽のような笑顔で、力強く頷いた。
この長い戦いが、もうすぐ終わる。
そして、私たちの間には、確かに、新しい名前の付く関係が始まろうとしていた。