第10話 書庫の主と、女神の小さな一歩
あれから、一週間が過ぎた。
私とクライアント――女神アストライアとの間には、奇妙なルーティンが生まれていた。
私が朝九時にゲートをくぐると、アストライアが『アカリ師匠! 本日のご指導、よろしくお願いします!』と深々と頭を下げて出迎える。私は彼女が昨日担当した乾拭きの跡をチェックし、「拭きムラが3%改善されました。ですが、まだ圧が均一ではありません。手首のスナップを意識してください」などと、プロ目線でのフィードバックを与える。彼女はその一言一句を、真剣な顔で神聖な羊皮紙にメモしている。…何をそんなに書くことがあるのかは謎だ。
「よし。玄関ホールおよび第一回廊、完全浄化完了です」
数日間の奮闘の末、入り口付近は、チリ一つない完璧な聖域へと生まれ変わった。
私は満足げに頷くと、次の戦場を指し示した。
「本日より、エリアB――『大叡智の書庫』の浄化作業に移行します」
そこは、かつて神々の叡智が収められていたであろう、巨大な図書館だった。
だが、今の姿は見るも無残だ。本棚は将棋倒しになり、貴重なはずの巻物は天井まで届くほどの山を築いている。床には、乾いてこびりついた何種類ものインクのシミ。そして、なによりも――。
「うわ…」
紙が、生きている。
破り捨てられたページが集まってできた『ペーパー・サーペント』が床を這い、放置された魔導書が独りでに開閉しては、独り言のような呪文を呟いている。
ここは、混沌が生み出した、紙と知識の魔境だった。
『……ここは、わたくしが、神としての勉強をする場所、でした』
隣で、アストライアが悲しげに呟く。
その瞳には、深い後悔の色が滲んでいた。
「クライアント様。感傷に浸るのは、全てが終わってからにして下さい。仕事の邪魔です」
『は、はい! 申し訳ありません!』
私が冷たく言い放ち、作業に取り掛かろうとした、その時だった。
書庫の奥、最も高く積まれた巻物の山の頂から、禍々しいオーラが立ち上った。
『……秩序を求める愚か者よ。この心地よき混沌の園から、立ち去れ』
声と共に、古びたローブをまとった人型のナニカが姿を現す。その体は、ホコリと、本のシミと、千年分の怠惰でできているようだった。
【大司書のリッチ】。鑑定結果が、最悪の事実を告げる。
リッチが手をかざすと、私がたった今浄化したばかりの床に、棚からひとりでに落ちた本が散らばり、インク瓶が倒れて新たなシミを作った。
「なっ…! せっかく綺麗にしたのに!」
こいつは、ただの汚れじゃない。汚れを、混沌を、積極的に生み出す、清掃員の天敵!
『ここは叡智の眠る場所。眠りを妨げる者は、排除する』
リッチの号令で、ペーパー・サーペントたちが一斉に私に襲い掛かってくる。隣では、アストライアが『ひぃぃ!』と情けない悲鳴を上げていた。
だが、私は怯まない。
プロとして、どんな困難な現場も乗り越えてきた。相手が汚れの親玉なら、やることは一つ。
「クライアント様!」
私が鋭く名を呼ぶと、アストライアの肩がビクッと震えた。
「あなたに、初めてまともな業務命令を与えます。いいですか、私が奴を引きつけている間に、あなたはその散らばった本を、ただひたすら、本棚に戻しなさい!」
『え、ええ!? わたくしが!?』
「奴の力は、この混沌そのもの。ならば、秩序を取り戻せば、力は弱まるはず! これは、清掃の基本である『整理整頓』です!」
私の言葉に、アストライアは一瞬、戸惑いの表情を見せた。だが、私がリッチの放つインク弾をマジカルモップで弾き飛ばすのを見て、その顔に決意の色が浮かんだ。
『りょ、了解しました! やってみせます!』
女神は、生まれて初めてかもしれない、力強い返事をした。
二手に分かれての、戦いが始まった。
私は神具を駆使し、リッチの攻撃を捌きながら、そのホコリまみれの体を浄化していく。
そして、アストライアは。
おぼつかない手つきで、一冊、また一冊と、床に散らばった本を拾い上げ、本棚に収めていく。その動きは、不格好で、ひどく時間がかかる。
だが、彼女が本を棚に戻すたびに、リッチの力が、ほんのわずかに、しかし確実に、弱まっていくのを私は感じていた。
『おのれ…! 我が混沌を、秩序で穢すか! やめろ、やめろぉ!』
リッチの焦りの声が、書庫に響く。
(いける…!)
私は、ホコリとインクと紙吹雪にまみれながら、必死に本を運ぶ女神の姿を横目に見た。
その姿は、決して美しくはない。だが、神としての威厳をかなぐり捨て、自分の過ちと向き合うその姿は、これまでで一番、神々しく見えた。
「悪くないですよ、クライアント様」
私の小さな呟きは、激しい戦闘音にかき消された。
だが、確かに、私と彼女の間には、単なる契約関係ではない、新たな「絆」のようなものが、芽生え始めていた。
書庫の完全浄化まで、まだ道は遠い。
だが、光は、確かに見えていた。