87話 武辺者の新人メイド、夜間学校でがんばる。
夕暮れの空気は、まだ少しだけ温かい。
陽が落ちる寸前の空を見上げながら私はそっと手ぬぐいで頬を拭った。今日もなんとか叱られずにお仕事を終えられた。よしよしと自分を小さく褒めて、私物ロッカーに置いていた手提げ袋を取り出した。
夜間学校には制服は無い。みんな私服か作業着姿で通ってるから私もメイド服のまま。姿見で必ずメイド服にほつれや汚れが無いかは確認する。もしピナフォアに汚れやシミがついていたら領主ヴァルトア様の顔に泥を塗るのよ、とオリゴ様から言われてるから気を使ってる。メイド控室だから替えがあるので、気になったら交換する。
「クイラちゃんお疲れ様、いまから学校?」
控室に入ってきたのはマイリス副長だった。今日は同じ時間にアガリらしく、私物用ロッカーにヘッドドレスをそっと納めるとバッグを取り出した。
「はい、今から行ってまいります」
「頑張ってね。――もし授業で判らないところがあったら恥ずかしがらずに誰に聞いても大丈夫だからね?」
マイリス副長は優しい人だ。だが、ちょっと抜けている人だ。ロッカーのカギを差しっぱなしで「お疲れ様」と控室を出て行こうとしたので慌てて呼び止めたら、「あらやだ」と笑って戻ってきて鍵を抜き、「えへへ、じゃあね」とはにかみながら出て行った。
私も念のため、手提げ袋の中身を改めて確認する。教科書、ノート、筆記具、それから夕べ書いた詩のノート、予備のハンカチ。うん、大丈夫。今日もこれで忘れ物なし、たぶん。もし教科書も忘れて登校したら、何しにいったか判らない。
最近は詩作にはまってる。センヴェリア語に慣れてきたからなのかもしれないし、月詠の泉で拾ってきてしまったヴォナティという精霊のせいかもしれない。心に響いてくる言葉を自分なりに詩にしてる。ひょっとしたら詩作が好きなゾエさんとたくさんお話できるかもしれない。
靴音をきゅっきゅっと響かせながら夜間学校までの小道を歩く。そこの石畳の上を踏みしめる感覚がすごく心地よくて好き。仕事終わりの学校は正直大変だけど、夢のためだからと思うと頑張れる気がする。ちょっとだけ心が強くなる。
途中、屋根の上から猫がふわりと降りてきて、思わず「わっ」と声が出てしまった。「……プリスカさんかと思った」なんて冗談を心の中で言いながら、にやにやしてしまう。猫は私を一瞥して尾を高く掲げて行ってしまった。そこらへんもプリスカさんっぽい。
通りの灯りがぽつぽつと灯り始め、食欲をそそる香りがあちこちから漂っている。学校へ着いたら、近所の料理学校で作られるパンとスープが軽食として出るから少し楽しみ。
見えてきた、窓の灯りがちゃんとついている。昼間は初等学校として使われているけど夜になると夜間学校として解放されている。あの灯りの向こうに、ヴァシリさんがいて、ゾエさんがいて――きっと、今日もみんな頑張ってる。
「さぁ、勉強がんばろうっと」
思わず口にしたその言葉が、自分の足を少し速めた。仕事が終わったここからが“わたしのもうひとつのじかん”。
*
古い木の扉をそっと開けると、教室の中には見慣れた顔の生徒たちが居た。
一番奥の窓辺にヴァシリさんがいた。薄い雑巾で窓の桟を丁寧に拭き、拭き終えると別の雑巾で仕上げの乾拭きまでしていた。少なくともプリスカさんやロゼットさんよりも丁寧だった。毎回思うけれど、それって別にやらなくていいのでは……? と思いつつ、ヴァシリさんらしいと思ってる。誰にも強制されていないのに、授業前には真面目に“学びの場所”を整えている。それを見てちょっとだけ背筋が伸びる。これだけ前向きに勉強に取り組んでるのかな、私。
このヴァシリさん、元々運送業ギルドで長く働いていたらしい。七十歳で引退した後、「やり残したことがある」と言って夜間学校に通い始めた。文字や詩を読むのが大好き。いつも穏やかで、でもちょっと頑固。でもその頑固さはきっと“学びたい”って気持ちの裏返しだと思う。
そのヴァシリさんの前の席にゾエさんがいた。小さなノートを膝の上に開き、そっと指先でなぞっていた。たまに小さく呟くように読み、気に入らないところがあったのか鉛筆を走らせて何かを書き足していた。彼女の詩作ノートだ。時々詩が頭に降ってくるらしく、それを拾っては書き綴っているみたい。
私と目が合うと、ゾエさんは一瞬びくっと肩をすくめる。でもすぐにふわっと、小さく手を振って笑ってくれた。その笑顔が見られるたびに、少しだけ得をしたような気分になる。
ゾエさんは十八歳。初等学校に通っていた頃にひどいいじめに遭い、不登校に。結局卒業できず、学校という場所をずっと怖がっていたみたい。だけど領主館の布告で、
『みんなのための夜間学校、はじめます』
というのを見て、このままではいけないと思って勇気を振り絞ってやってきたらしい。最初の頃は一言も喋れなかったけれど、最近はほんの少しずつ、私やヴァシリさんと話すようになった。詩を書くのが大好きで、彼女のノートには言葉の花がいっぱい詰まっている。
私はゾエさんの横にある自分の席に向かう。手提げ袋からノートを取り出し、開いたページの端に今日の目標を書く。
――「声を大きく出す」
――「詩作の授業でゾエさんの詩をちゃんと聴く」
――「ヴァシリさんが寝てたら小声で起こす」
ほんのちょっとだけ笑いそうになる。ネリスが見たら「真面目か!」って言いそう。そういうネリスもノートの隅に『下を向いていたら虹は見えないよ』って書いてるのは知ってる。訓練隊時代のノートの隅にいつも書いてあった。当時はセンヴェリア語が判らなかったから、意味も判らなかったけど、いまは私も真似してノートの右下には書くようにしている。
教室の扉が開いてワゴンを引いたテンフィ先生が入ってきた。
ヴァシリさんが拭き終えた雑巾をたたんで席につき、私の方をちらりと見て、「今夜の軽食、楽しみですね」と嬉しそうに囁いた。そういえば昼から忙しかったから少しお腹が空いてるんだった。腹の虫が鳴らないことを祈りたい。今日も、いい日になる気がする。
テンフィ先生は教室に入ってくると、ワゴンに乗っていた大きなトレーを開ける。
「はい、それでは授業前に軽食を配りますね。順番にどうぞ」
トレーの中の木箱には、あたたかな香りのパンと湯気を立てるスープの入った小さな容器が入っていた。これは領主ヴァルトア様の計らいで、近くの料理学校の実習班に依頼して毎日作ってもらっているもの。授業が夜に及ぶこともある夜間学校ではお腹が空いては勉強どころじゃない──という、領主様らしい心配りだった。
これ目当てで通っている人も多いのかもしれないってぐらい美味しい。焼きたてパンは少し甘め、スープは根菜の出汁がやさしく沁みる味。私も列に並んでパンとスープを受け取ると静かに口にした。ふわりと身体の中が温まっていくようで、自然と背筋が伸びる。
そしてテンフィ先生は、いつもの丁寧な口調で告げる。
「では今夜は詩の朗読を中心に進めましょう。自分で書いたものでも好きな詩集の抜粋でもかまいません。声に出して詠みあげる事で、言葉の響き方や、自分や相手の心にどう伝わるかを感じる授業ですよ」
夜間学校の一限目は軽食を食べながらの授業だ。私は領主館のメイド。背筋を伸ばし、パンを細かくちぎって口に含み、スプーンで掬って口に入れる。――きっと誰も見てないだろうけど、やはりこの食べ方、疲れるなぁ! これも修行。
黒板には先生の小さな文字で『今夜の主題:言葉の響き』と書かれている。テンフィ先生の専門は数学のはずだけど、詩の授業のときは少し声が楽しげになるのが不思議で、私はそれがちょっと好きだ。しかしテンフィ先生の横にマイリス副長の顔がチラつく。仲良し夫婦だと聞いてるからね。
最初に立ったのはヴァシリさんだった。
「ええと、これは、退職した年の秋に感じた夕暮れについての詩です」
ヴァシリさんの朗読が始まると、教室の空気がすっと静まる。彼の声は低く、少し掠れているけど、情景が胸の奥からゆっくり立ちのぼるみたいに広がっていった。すごく素敵だった。
読み終わったあと、小さな拍手が起こる。「素敵でした」と誰かがつぶやいた。
続いて、ゾエさんがそっと立ち上がる。詩ノートを胸に抱きながら、少し震える声で短い詩を読んだ。題は「ひかりのことば」。花の咲く音を月が聞いている、という幻想的な詩だった。ゾエさんの想像力豊かな世界が、言葉の一つひとつにちぎられて、空に浮かんでいるようだった。
読み終わったあと、けっこう大きな拍手が起こる。ゾエさんは顔を真っ赤にして席に座ったけど、誰かが「すごい」とか「綺麗な詩」ととつぶやいていた。
そして、私の番が来た。私は立ち上がり、用意してきた紙をそっと開く。夕べ、何度も何度も書き直した詩。題は『月詠と奏姫』。
声に出して読むのは少し緊張したけれど、あのときヴェッサの森で見た、あの泉の光を思い出しながら、心の中でゆっくり一歩ずつ歩くように読んだ。
――月の声を 泉は映し ――ひとの手に触れぬまま ――静けさだけがやさしく響く
読み終わると、ゾエさんが目を丸くして私を見ていた。「……すてき」と、ぽつりと言ってくれた。
ヴァシリさんも少し頷いて、「幻想的な詩だな、情景が見えるようだった」と笑ってくれた。
ちょっとだけ恥ずかしかったけど、とても嬉しかった。
休み時間になり、テンフィ先生が「十分間の休憩です。自由にしてください」と言うと生徒たちはそれぞれに伸びをしたり、水を飲みに出たりしていった。その間にテンフィ先生は配膳された小箱を回収し、ワゴンに乗せて職員室へと戻っていった。
そんな中、ゾエさんがそっと私の席の隣に立った。「あの詩……ほんとうに、すてきだった」と、少し俯きながら言った。
「ありがとう。ゾエさんの“ひかりのことば”も好きだったよ。花の咲く音って、言われてみると、なんとなくわかる気がする」
ゾエさんは驚いたように目を丸くして、それからぽつんと笑った。
「……他にもいろいろ書いてみたんだけど、クイラさん、ちょっと読んでもらってもいい?」
「うん。それなら、交換……しよっか」
ゾエさんはうんと小さく頷いた。私のノートを受け取ると、静かに開いて読み始めた。私もゾエさんの小さなノートを開く。小さくかわいらいい文字がページ一杯に踊っていた。
ヴァシリさんが近づいてきて、私たちを見てにこにこしていた。「ふたりとも、詩というものの醍醐味をよく判っているみたいだね。やはり若い感性が生きてるみたい」
そんなことを言い出すもんだから、ゾエさんは「ヴァシリさんもまだまだ若いじゃないですか」と言ってた。私も心に沁みましたよって感想を伝えた。
「そうかい? わしはもう、夕暮れの空と湯たんぽぐらいしか詠めんがね」
みんなで笑ってしまった。その笑い声が、教室の中でぽんと弾けたように温かく響いた。
「ねぇクイラさん。どうしてノートの隅に『下を向いてたら虹は見つけられないよ』ってかいてあるの?」
ゾエさんが訊く。私はメイド隊配属前の訓練隊時代の話をした。やる気が無さそうでぼんやりした小柄な少女が相棒になった事、この子が実はめちゃくちゃ負けず嫌いだった事。あと私にセンヴェリア語を教えてくれた事、そして『前向きになれる言葉』として自分自身にずっと言い聞かせてた事を伝えた。
「素敵な相棒さんだね」
「ちょっと風変わりな友人です。――休みの日が併せられたら一緒にお食事に行きません?」
「おぉ、いいね! みんなで行こうや」
「じゃあヴァシリさんがご馳走してくださいね?」
ゾエさんが静かに笑う。ヴァシリさんは美味しい飯屋を知ってるから任せろと笑顔で言ってた。
次の授業の準備を促す小さな鐘の音、予鈴が教室に響く。ざわめきが少しずつ静まり、皆が自分の席へと戻っていく。私はゾエさんの詩集ノートを閉じて、そっと胸元に手を当てる。なんだか今日は、言葉がちゃんと届いた日だった気がする。
ゾエさんと詩を交換して、ヴァシリさんと笑い合って。ここは昼の世界とは少し違うところだけど、確かに私の居場所になってる。
――また次の詩、書いてこよう。
そう思いながら、私は背筋を伸ばして次の授業へと顔を上げた。
*
それからしばらくして、選択授業の用紙が配られた。
初等学校には『読み・書き・算術』の必須単位以外に選択単位を二つ受けなければならない。選択単位は自由で何を取ってもいいらしいのだけど、そう言われると何を取ればいいかで悩んでしまう。
ゾエさんは「声楽とダンス」と即答だった。きっと思いきって新しいことに挑戦しようとしているのだと思う。ゾエさんは手足が長いし、声も綺麗だからどちらも似合ってると思う。
ヴァシリさんは「声楽と書写」だそうだ。昔は『マイスタージンガー』だったらしく、歌声には自信があるらしい。ちょっと聞いてみたいかな?
……で、私はと言えば、紙の前でひとり唸っていた。うーん、何がいいのかさっぱりわからない。提出日まで時間があるから、いろんな人に相談した上で決めようと思った。
迷った末にたまたま洗濯干しの係が一緒だったプリスカさんに相談してみた。
「選択授業、何が良いと思います?」
「え? テキトーで良いっすよ? あたし適当に料理と裁縫選んだもん」
ですよね。答えは期待してなかったけど、本当に期待は裏切らない人だと思った。
次にロゼットさんに聞いてみた。「ねえ、どれが良いと思います?」
「友達と一緒が楽っすよ? だからプリスカと一緒」
それはわかるけど……安直過ぎですよね。
ゾエさんと同じにするならダンス……ダンス……? 私は自分が踊る姿を想像できない。やったこともないし、たぶんできる気がしない。たまに役者がかった動きをするプリスカさんとロゼットさんだけど、もともとダンスをやってたから出来るのであって、わたしがやったら滑稽だ。
そのとき背後からすっと気配がして、私は反射的に背筋を伸ばしてしまった。目の前のプリスカさんもロゼットさんも表情固くして背筋がぴんと伸びていた。
「クイラさん。選択授業の件で悩んでるようね」
メイド長、オリゴ様。
「ちょっとこちらに来なさい――プリスカもロゼットも、仕事中の私語は謹みなさい」
「はいッ!」「御意です!」
中庭の物干し場を離れて領主館の三階、メイド長執務室へと連れてかれた。叱られることをしたっけとずっと考えていた。
「クイラさんここに座って。選択授業ね?」
まさかオリゴ様がこんな相談に乗ってくれるなんて。緊張でソファに座りつつ、私は背筋をさらに伸ばした。オリゴ様は丁寧な所作で紅茶を出された。
「あなた、夜間学校でお友達ができたそうね」
「――あ、はい」
叱られるのかな。私は夢を一つずつ叶えてゆくために学校へ行かせてもらってるはずだし。うつつを抜かしてるわけにもいかないって事よね。
「もしあなたがアニリィの従者としての道を諦めていない、初等学校を出てから幼年兵科学校へ進学するって夢を持ち続けているのなら――」
続けているのなら――?
「なんでもいいわよ」
なんでも良いんだ。
「ただ、幼年兵科学校の算術試験のレベルは高いから、判らない場合はテンフィ先生やオッキさん、トマファ殿に訊く事。これはトマファ殿から取り寄せてもらった過去五年分の算術過去問です。……精進なさい」
「御意です」
オリゴ様から過去問を貰った。退室してから渡された過去問に目を通すと固まってしまった。
出発地より90km離れたB地点に移動すべき部隊総員が230名である。
この中から30人乗り馬車を4台を利用してなるべく早くB地点に赴くとして、午前10時に出発地を出発するとすれば、何時に全員がB地点に到着するか?
ただし馬車の時速は40km、部隊の徒歩行進の早さは毎時5km、馬車に乗り降りする時間は考えないものとする。
「何言ってるの、これ?」
解ける解けない以前の問題だった。何を書いてあるのかが理解できなかった。
ぼんやりと過去問を見ていたら、たまたまトマファ様と出会ったので解き方を教えてもらった。
「これ230人の部隊だから、先発隊と後発隊で考えると判りやすいんです」
「まず先発隊が出発地から時速40kmの馬車に乗って、途中下車xで下車。そこから徒歩になる。その時間がコレですね」
「後発隊は、10時ちょうどに出発地を出ているので、ピックアップ地点まで歩きます」
「馬車は途中下車xからピックアップ地点まで回送で走ります」
「これらを足したら、T=5.110、15:06:36が答えですね」
トマファ様が何を言っているのか、全くわからなかった。これを二年以内にマスターしなきゃいけないのかと思うと、心が折れそうになった。
『下を向いていたら虹は見えないよ』
ネリスの言葉を思い出し、前向いて頑張ろうと思った。
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よろしくお願いします。
・作者註
『下を向いていたら虹は見えないよ』
You'll never find a rainbow if you're looking down.
チャップリンの名言、中の人の好きな言葉の一つ。
・作者註2
実際に陸軍幼年学校の過去問を改変しました。
答えはたぶんあってると思う、うんたぶん。




