85話 武辺者、通商封鎖を食らう・4
クモートの町はずれにある倉庫街。
倉庫街という場所は、早朝から昼過ぎまでは上を下への大騒ぎだ。荷入れや荷出しの馬車がひっきりなしに行き交い、大八車の車力たちが怒声を飛ばす。その喧騒も、夕暮れを過ぎる頃には一転する。通りを歩く者はまばらとなり、通り全体がひっそりと静まり返る。昼の喧噪が嘘のようである。
元々士気の低い領主軍の衛兵たちにとって、夜の静寂に包まれた倉庫街の巡回は退屈でしかなかったのだろう。監視の緊張感など微塵もなく、衛兵たちは夜哨中だというのに酒盛りする有様だ。そこにホラスは『いつもお疲れさん』と言ってうまそうなワインを一ダース差し入れた。きっと今頃、詰所はどんちゃん騒ぎに違いない。これほど警戒が緩んでいる今こそ、作戦を決行する好機だった。
倉庫街の一角、ポーイヤック商会が借り上げている倉庫内には『輸出止め』の札を貼られた木の荷箱がいくつか並んでいた。ラオーズ商会の青い三日月紋、バルトン商会の小鹿紋。そして今先ほどポワフィレ商会の雄牛紋が積み重ねられた。それらポーイヤックの木樽に紛れるように並んでいる。
「いやぁ、売り先を探してくれるって申し出は助かりました、ありがとうございます。――ミレ夫人」
ポワフィレ商会の番頭が表情を緩ませながらドレスで着飾った淑女――ミレに頭を下げた。彼女はおほほと口元を扇子で隠しながら笑い、「気にしないで」と言って革袋を手渡した。本来の商取引では手形決済が一般だ。しかし敢えて現金での取引を選んだのには訳がある。――足が付かないためだ。
「こういうときこそ、皆んなで手を取り合うべきですわ」
革袋を懐に収めた番頭の手を取るミレ。突然のことに表情を蕩けさせた番頭は顔を赤らめて「えぇ、そうですね」と言うと、ミレはそっと彼の頬に顔を近づけた。
「これは、奥さんには内緒にしといてあげる――はやく帰ってあげたら?」
ミレは唇の前に人差し指をそっと付ける。番頭の目は一瞬ハートになっていた。そしていたずらっぽく笑うミレに小さく手を振ると、倉庫の扉を開けて荷馬車を出す。そして静かに出て行った。
扉が静かに閉まり、鍵がかかる音が倉庫にこだました。しばしの静寂のあと、ミレはドレスの裾をゆっくりと摘まんでひと息つく。
「……さて、これで随分と買い支えたわね」
ハラスはミレに変装し、荷止めを食らっている番頭たちに対し、止め置かれていた荷の買い取りを持ちかけたのだ。売り先に困っていた彼らにとって、相場よりやや高めの買値、しかも現金取引は魅力的だった。だが最終的に首を縦に振らせたのは、きっと“ミレ夫人”の色香だったに違いない。彼らは、こっそりと商品を『横流し』してくれたのだ。
キュリクス向けの荷物は相変わらず止められていた。理由は明言されていないが皆うすうす察していた、あの領主ロベルトの気に障ったのだろう、と。
「さぁ兄さん、そろそろ始めるよ」
ミレはドレスなどをさっと脱ぐと作業着に着替え、ハラスに戻った。夕暮れ時だったためメイクは最低限に抑えて薄めにしていたが、やはり作業をするには具合が悪い。倉庫の隅に置かれた鏡の前でオイルを使って顔に馴染ませながらメイクを落とす。
「お前――やってること完全に色仕掛けじゃねぇかよ」
ホラスは呆れ顔でつぶやいた。語気に怒りはない、だが本気で感心しているのか心底呆れているのか、その境目は曖昧だった。そしてホラスは塩が半分ほど入っている木樽を持ってくる。その木樽には二人が興したポーイヤック商会の焼印がされているが、『返品・非食用』『再仕分け不要』『異物混入品』と、いかにも商品に瑕疵があるような札が貼られている。
「やるなら何でもやるわ――儲かるんですもの」
ハラスの“役作り”は、手練れの芝居師と詐欺師のそれだ、兄としても苦笑せざるを得ない。そのためハラスがミレを演じる事に抵抗はないし、女性用のドレスや化粧品を買う事にも躊躇が無い。それはハラスは誰よりもお金が好きだからだ。どんな手を使ってでも情報をかき集め、堅実に稼ぐ。そのためなら気の置けない商売仲間にキスの一つぐらい安いと考えているのだ。
「とはいえ弟が見知った男とキスしてる姿は刺激的だな、あはは」
ホラスは半ば呆れて軽口を叩きながらも「じゃあやるぞ」と言い、番頭が持ってきた木箱を開け始める。そして二人は荷止め品を自分達で取り扱う塩の樽に移し、ごろごろと転がして中身を混ぜ、再び栓をした。
「どうやらルツェルで星の粉とかのスポット買いはうまくいったらしいぞ」
「まぁ! “あの大将”、本当によくやるわねぇ」
「じゃあ俺達はしばらく『インチキ塩』を作り続けないとな」
ホラスの言葉に、ハラスは口元だけで笑った。二人がかりでインチキ塩の作業はずいぶんとかかり、夜明けまで続いた。
*
夜明け頃。ホラスは帳簿のページをめくり、羽ペンでさらさらと数字を記す。
「今夜の出来高は“返品分”が十七樽か……さすがに疲れたな」
「明け方に出て、塩をまたたくさん仕入れて戻って来るわけ?」
「あぁ、そしてまた『塩の返品』を持って国境を通過する」
ハラスは「しばらく塩は見たくないわね」と言いながら空箱となった木箱を倉庫の隅にそっと重ねた。これらは後日、ポワフィレ商会などに返却する手はずになっている。そして塩まみれになった軍手を外し、転がる樽に背を預けて座り込んだ。夜明け前の冷気が倉庫の隙間から忍び込む。
「てかハラス。“あの大将”はこの荷止めを予測してたんじゃねぇかって思えてならねぇんだけど」
「え、どうして?」
ハラスは懐から煙草を出そうとしたが、ホラスから「倉庫内は禁煙だ」と言われ渋々胸元に戻した。どこでもそうだが倉庫内は火気厳禁だ。
「まず、キュリクスへの星の粉などの『密輸方法』があからさまに考え抜かれている。だって、星の粉も砥の粉も白っぽい粉末だ。それを塩と混ぜて『商品に瑕疵があったんで返品物です』って言えば誰も疑わねぇ。しかも返品の申請書類はすぐ通る。おまけに星の粉ってやつは、水に溶けねぇ」
「キュリクスに着いてから水にさらして脱塩処理は必要だけどね」
「――あと、商会立ち上げ時の大将が出した条件、覚えてるか?」
「うん。――『国境ではサキーヤの衛視に酒を渡しておけ』だったね」
現にホラスたちはキュリクスからの便では、マニフェストに記載していないワインを積み、申告漏れと称してサキーヤの衛視たちにいつも渡している。ホラスの性格なら本来は『誠実であるべき』を地で行く生真面目そのもので、賄賂など言語道断だと考えていた。だが商会立ち上げに際してトマファから『国境では衛視に酒を渡しておけ』とあっさり言われた時は、目が点になったのを今でもよく覚えている。
しかもその『袖の下』のおかげで衛視たちとの関係は良好だ。他の商会は国境通過でまごつく事はあるが、ホラスはほぼ素通りしているのだから。彼にとっては未だに気乗りしない手段だったが、衛視たちの警戒が緩む効果は確かにあった。
実際に、『これ、返品なんで』と言って疑う衛視はいないし、そもそも酒を渡しているので審査が緩い。もし仮に荷改めを受けたとしても精製が雑な塩にしか見えない。だから返送品と言われても疑問に思われないのだ。
「それにルツェル公国からスポットで仕入れられたのも鮮やかだ――まぁ、向こうに知り合いの官僚がいるのかもしれんが」
「でもさでもさ、不思議なのはこんな輸入リスクを抱えていたのにどうして仕入れ先を前もってルツェルとで分けたりしなかったんだろう? 頭が良いのならとっとと仕入先を見直すと思うんだけど?」
「簡単だ。いきなりそれをやったらクモートのキュリクス系商会の不信を買う。だからロベルトが自分から引き金を引くのを、“待ってた”んだろう。まぁコスラボリーの先物投機の失敗をも察して“引かせた”のかもしれんが」
「まぁ先物を焦げ付かせたのはワタシの実績ですわよ」
ハラスは笑っておどけてみせる。ミレ夫人として招かれたお茶会で、コスラボリー商会の主が、ビルビディア王国産の小麦先物投機で下手打ったという噂をつかんだのだ。詳しく調べてみると不作を見越して大量に買い込んだ矢先、まさかの大豊作。高値で仕入れた小麦が今も倉庫で『塩漬け』になっているという。
「しかもそれを泳がせてキュリクスで欠品の声が上がる、クモートや周辺の市場が狂うってのを見計らっていた、と」
「じゃあ、あの大将の筋書きどおりってこと?」
「だろうな」
ホラスは帳簿を閉じて鼻を鳴らす。明け方の空に鳥の声が遠く聞こえた。
「なんだかあの大将が怖くなってきたわ。……敵だったら絶対勝てない気がする」
ハラスが冗談めいた調子で漏らした。
「味方でいるうちにきっちり稼がないとな」
ホラスはあははと空笑いを浮かべるのだった。
*
クモート領主館の執務室には、昼間から葡萄酒の香りが漂っていた。
領主ロベルトは上機嫌だった。椅子にふんぞり返り、金の縁取りが施された豪華なカップで酒を飲みながらゆるんだ笑みを浮かべている。
「そういえば、キュリクスからの使者は?」
ふと思い出したように問うロベルトに、隣で帳簿を繰りながら酒を飲んでいた腹心のニョルマンが肩をすくめる。
「追い返しましたよ。手土産もなければ『黄金色のお菓子』のひとつも持ってこない。そんな連中と何を話せと?」
「ははは! まったく、キュリクスの連中ってのは相も変わらず頭が固いんだな!」
ロベルトは腹を抱えて笑った。ニョルマンも薄く笑いながら、グラスの縁を指でなぞる。
「真面目と堅実が美徳と考えてる、つまらない人種ですからね」
そもそもキュリクス出身者は総じて真面目で礼儀を重んじる傾向が強く、袖の下など“公正を損なう行為”を極度に嫌う性質があるようだ。そのためロバスティア人の間では「頭が固くて融通が利かない連中」として知られている。逆に陽気で朗らか、むしろ能天気だと言われるロバスティア人では多少の贈答や便宜供与は“社交の潤滑油”であり、交渉の入口ですらある。その価値観の違いが両者の隔たりを広げていた。
「しかも、書状を手渡してきたので……その場で火鉢にくべてやりました。よく燃えましたよ」
「お前、それはさすがに……いや、いや、よくやった!」
ロベルトは笑いながらカップを掲げた。ニョルマンも乾杯のふりをしてグラスを傾ける。
「で、キュリクス系商会の締め出しの首尾はどうなっている?」
「万全です。通関書類は却下を続けており、連中もさすがに在庫を抱えて目を回しているはずです。キュリクス領主館からも『通関否決事由開示請求書』は何通か届きましたが、無視してます。きっとあちこちでひーひー言ってる頃かと」
「だろうな、なんてわかりやすい」
ロベルトは満足げに鼻を鳴らした。
「明日あたり街の様子でも見てきてくれ。市民が“キュリクス排除”で溜飲が下がったなどの効果が出ているのなら、それは我々の手柄だ」
「はっ。お任せを」
ニョルマンは一礼して立ち上がる。その顔にはゆるぎない自信と勝ち誇った色が浮かんでいた。
*
翌朝、ニョルマンは街の鉱物市場通りを視察していた。
まだ朝霧の残る時間帯だが、すでに多くの荷車と人足が行き交い、商人たちの声が飛び交っている。この通りは鉱物市場が近いためキュリクス系商会が集まっている、まずは疲弊している彼らの見物に来たのだ。
(あれ……?)
まず目に入ったのはキュリクス系のポワフィレ商会の店舗だった。いつも通り開いており客も少なくない。同じくバルトン商会の前を通るとこちらも帳場には数名の客が並び、荷を運ぶ人足の姿が見える。
(なんだ、あまり変わってないな)
彼らの店先は綺麗に掃き清められ、商談相手の出入りも盛んだ。むしろ“ひーひー言ってる”のはキュリクスではなかった。
(なぜだ、なぜキュリクス系が息をしている? こちらは物流を止めたんだぞ?)
その違和感を引きずりながら中央市場通りへ進むと、通り全体がどこか沈んでいた。先ほどのキュリクス系商会の並ぶ地区とは違い、店頭には値下げの札が目立ち、どの商会も値札を張り替える手が止まらない。しかも人通りもまばらでどの帳場も閑散としており、番頭が頬杖をついてぼんやりと空を見上げていた。
市場の中心にある穀物屋街では麻袋に積まれた小麦が売れ残ったまま棚に残っていた。近くの野菜市場では山積みになった野菜を前にため息をついている。買い手が減り、価格を下げたのだろう、値札は何枚も張り直された跡があった。活気はある――ように見えるが、それは売り手の声ばかりで、買い手の姿が少ないのだ。つまり、動いているのは“声”だけで、人とカネは動いていないのだ。
(おかしい……物流が止まれば、まず物価が上がるはずだ。だが下がっている。なぜだ?)
彼の頭に、かすかな恐れがよぎった。
(まさか……流通の一部を締め出したことで補完財の需要が下がり全体を押し下げた? そんな馬鹿な……)
だが現実には、そうなっていた。
キュリクス行きの一部鉱物が止まり、在庫の売り捌き先についての予測が錯綜した結果、市場に不安感が生まれたのだ。すると鉱物とはあまり関係のない塩、酒、麦などの売買に関する積極性が減り、それらを使って加工・販売する業者の動きが鈍り、流通全体が低調になっているのだろう。 市場の回転が鈍れば、別の品も入ってこない。商品が動かねば、価格は下がる。
ニョルマンは額の汗をぬぐい、重々しく息を吐いた。
(こんなはずでは!)
*
「ふむ……」
その日の午後、領主館の執務室ではニョルマンが報告を終えた。ロベルトは顎をさすり、渋い顔をしている。
「お前、締め出しは万全だと言っていたよな?」
「ええ、通関は今も止めております。不正な裏流通の報告も今のところはありません。しかし市場全体の流通が鈍ったことで、キュリクスへの打撃よりもむしろ我々の側のほうが──」
「黙れっ」
ロベルトは金の縁のカップを机に叩きつけた。
「やはりキュリクスの奴ら、裏で何かやっている! ならば奴らが次の一手を打つ前に詰みにしてやれ! ニョルマン、“買参権”を押さえろ」
「……は?」
ニョルマンは思わず耳を疑った。
「クモートの鉱物市場で集積されるだろ、そこの市場の買参権――つまりキュリクス系の連中が長年握っているその利権を召し上げるんだ。名目は“公益性の確保”。独占の解消だ」
「卿、それは……実質的な権利の剥奪では?」
「それに見合った金は払うさ。――帳簿の上では、な」
ニョルマンは口を閉ざした。ロベルトは満足げに続ける。
「その後の差配はコスラポリー商会に任せればいい。あそこは領内でも古株で懐も深い。文句は出まい」
「……ですが、『娘婿殿』は先物でやらかしているとの噂があります。かなり資金繰りに頭を抱えているとか」
「ふん、そんなもの鉱物市場を掌握してからキュリクスに高値で売りつければ回収できるだろう。ロバスティア系商会は文句言わんだろうし、真面目で手土産一つも寄越さんキュリクス系を一掃できるチャンスだぞ」
「……まあ、そうですね」
まさにロベルトの横暴とも言える政策である。しかしニョルマンにとってこれは愚策であることは理解していた。こんなことをすれば商会からの反発どころか、市場の信頼に疑義を与えかねない行動だからだ。
*
ロベルトの思惑は外部に漏れてはいなかった。だが市場の空気は変わり始めていた。経済の不安定さ、先行きの不透明感から、あちこちで憶測が飛び交うようになったのだ。
『そろそろキュリクス系商会が持たないのではないか』
『クモート領主ロベルトは、キュリクス系商会の追い落としに入るのでは』
『そうなればクモートの経済はもっと悪化するのではないか』
悪い噂ほど広がりが早い。疑念は商人の声を通して街の空気を重くしていき、冷えた市場をさらに冷やしてゆく。そうした中、ついに“それ”が活字になってしまったのだ。
『クモート領主館、鉱物市場買い上げか!?』
地元新聞が市場で広がる憶測をほぼ断定するかたちで報じたのだ。その見出しが街角の掲示板に貼られたとき、誰もが言葉を失った。噂や疑念が誰かから断定されると信じ込んでしまう。それが現実として突きつけられた時、疑念が疑惑へと変化してゆくのだ。
夕暮れの市場通り。とあるロバスティア系商会の帳場の陰で数人の商人たちが顔を寄せ合っていた。
「新聞のあれ、鉱物市場買参権を“公的に召し上げ”だとよ……まったく、冗談じゃねぇ」
低く絞った声に、もう一人が眉をひそめて答える。
「つまり、キュリクス系を名指しで潰すって話だろ? 俺たちロバスティア派の市場――野菜や穀物中心だが、次に狙われてもおかしくねぇ」
キュリクス系とロバスティア系の商人らは、出身が違うからといって対立していたわけではない。むしろ協力し合い、婚姻関係などで結びついた商会も多かった。互いに売り先を紹介し、助け合うことも珍しくない。 だからこそ今回の動きは、多くの商人にとって他人事ではなかったのだ。
「しかもあのコスラポリーのボンボンが鉱物市場を仕切る? できるもんかよ!」
コスラポリー商会もロバスティア系ではあるが、クモートでの評判はいまひとつだ。かつての放蕩ぶり、横柄な態度、甘やかされた育ち、誰もが「市場を任せられる器ではない」と思っていたのだ。
「それに領主ロベルトの肝煎りってことは、娘婿パワーじゃねぇか! 市場に私情を挟むなよ!」
その夜、クモートの市場は言葉を失ったように静まり返っていった。疑惑は確信に、確信は怒りと諦めに変わりつつあったのだった。




