76話 武辺者の料理メイド、研修に出される・前編
聖夜祭に行われた「有鵞記念」。
そのレース中、私――ステアリンーーの叫び声でとんでもないことになってしまった。
「オースチン! コールマン! 来いッ!!」
二羽のガチョウが直線を駆け抜けているその瞬間、熱く、強く、思いを――願いを、希望を――乗せて私は叫んでいた。何度も、何度も叫んでいた。
しかしその時から観客席にどよめきが走り、警吏が飛んできた。そしてガチョウたちがゴールポールを過ぎた頃、観客たちの熱狂が興奮に変わっていた時、私の両脇に屈強な警吏たちが立っており、そこで現行犯逮捕が宣告された。逮捕理由は――公共の場で私は、女性として口にするにも憚れる言葉を連呼していたから。
なおどんな言葉を叫んでいたとされたかは、読者の想像と良心に委ねる。
※
数日後、領主館メイド長執務室。
厚めのカーテンから漏れる午後の光が、静かに執務室の中を照らしている。メイド長オリゴ様は無言のまま一枚の紙――懲戒辞令書――に視線を落とし、ため息をついてしばらくしてから顔を上げた。
「領主裁判によって有罪判決が下り、あなたは科料50シリンを即日支払って刑事手続きは終了しました。――ですがあなたの行為は領主館の品位を著しく落とした事、そして同様の騒動を繰り返し起こしている事も考慮した上で、懲戒処分となりました」
淡々とした口調だったが、その言葉には冷たさはなかった。もともと冷淡な印象の強いオリゴ様だが、長年部下として仕えてきた身としては、この人ほど部下思いの上司はいないと思っている。私は背筋を伸ばして直立して聞いていた。
何度も同じ失敗を繰り返したのだ。きっと降格処分の上、配置換えとなるのだろう。新しい所属隊ではうまく馴染めるかな、新兵いじめに遭わないかな、幼なじみのパルチ―とは離れ離れかと思い、オリゴ様の次の言葉を待っていた。
「ステアリン、あなたは翌週から一か月間の出仕停止処分とします」
「え? はっ、はい! 辞令、承ります!」
思っていたよりもずっと軽い処分だった。 降格も配置換えもなし。パルチーとも離れ離れにならずに済んだし、大好きな料理の仕事からも外されなかった。罰には違いないけれど安堵が広がった。
「その代わり、翌週から西区にある定食屋『麦の月』で働いてもらいます。働きながら、反省するように。──これはあくまでも社会奉仕の一環です」
「麦の月って、あのブラッスリーですよね!?」
その屋号を聞いて一瞬だけ私の目が輝いたと思う。だけどこれは一つの懲罰だ。笑みが思わず口元から漏れたかもが、すぐに引っ込めた。オリゴ様の事だからきっとそれを見逃していないだろうけど、視線は鋭くも優しかった。
「そうです。麦と月のご主人と奥様が、あなたの身請けを引き受けてくれたわ。一か月間、心して励みなさい」
「はい、オリゴ様」
私は一礼し、執務室を出た。そして扉を後ろ手に閉め、小さく息をついた。
※
その翌週、私はキュリクス西区にある定食屋、麦の月の厨房を訪れた。朝の一番鐘には来るようにと言われていたが、到着した時には店主のティチノ師と妻サーシャさんがすでに下ごしらえの最中だった。
店内からはちらりとしか見えなかったその厨房は、お店の規模に対して意外と広かった。壁には銅製の鍋やフライパンがいくつも吊り下げられており、石組みの竈にはふつふつ煮立つ寸胴鍋が三つ、すべて違うスープが仕込まれているようだ。ティチノ師は私をじっと見つめながら、手元を見ずにするするとイモの皮を剥いていた。
「君がステア嬢か――一か月頼むな?」
「あ、はい! よろしくお願いします!」
「ねぇステアーちゃん。ここはただの料理屋なんだから、ガーターから下げてる物騒なものは片づけて欲しいかな?」
サーシャさんも笑顔で手元なんか見ずにイモの皮を剥きながら、顎で私の右太ももを差し示した。
「いやぁ、武闘メイドとは聞いていたけど、いつも太ももにナイフを隠し持ってるのかね?」
「すみません、癖みたいなもんで下げてきちゃいました」
私はスカートを手繰り上げると護身用のナイフを抜いた。そして持って来ていた包丁用のケースに仕舞う。そのケースには牛肉用、鳥肉用、魚用に野菜用と菜切り用とが数本並ぶ。
「ふむ、随分と使い込んでるんだな」
「あ、はい。俸禄を貯めてはコツコツと買い足していきました」
この包丁、一本一本に思い出がある。特に、初めての俸禄で買った野菜切り包丁は、手入れし研ぎ続けた結果、随分と短くなってしまった。しかし買い替えるのが惜しくて今も大事に使っている。
「じゃあ今からイモ剥きだ。頼む」
そう言われてイモを一個ぽんと渡されたので、野菜切り包丁を持つ。目の前に置かれた木箱一杯のイモやダイコンは一日で使い切ってしまうらしい。その後私たちはあれこれおしゃべりしながらイモを剥き、ダイコンやカブを刻み、鳥肉を解体した。
ティチノ師とサーシャさんは若い頃、「金麦傭兵団」を率いていたらしい。ヴァルトア様やユリカ様とは統一戦争で顔を合わせた仲で、竈の煙で喧嘩になったという話を下ごしらえしながらぽつりぽつりと聞かせてくれた。その後、恋に落ちた二人は地元キュリクスに戻り、今では麦の月を営んでいる。
下ごしらえを手伝って判ったのは、とにかく丁寧な仕事を心がけているのだ。イモ一個一個丁寧に皮を剥き、寸胴鍋のスープも丁寧にアク取りをする。包丁も手も毎回丁寧に洗うし、洗い場は水垢一つもない。
「さてと、今日は朝定食が無い日だから昼前まで休憩よ」
週明けは昼からの営業なので下ごしらえが終わればすることが無い。サーシャさんはそう言うとスツールに座った途端、寝息を立て始めた。ティチノ師はというと随分使い込んだ砥石を取り出すと洗い場で包丁を研ぎ始める。スッスッスッと小気味良い音が厨房に響く。
「お嬢の菜切りを貸しなさい。研いであげるよ」
そう言うと私は菜切り包丁を手渡した。ここ最近、菜切りの刃の具合が気に入らないため、そろそろ包丁鍛冶に調製をお願いしようと思ってたのだが、ティチノ師にお願いする事にした。私が研ぐよりもリズミカルで軽い音が鳴る。
「やはり菜切りがへそ曲げてるな」
「え、判るんですか? 最近どれだけ研いでも刃が立たないんです」
「まな板を替えてみなされ。――儂は檜が好きで長年使ってるぞ」
そういいながらティチノ師は菜切りと対話するかのようにしばらく研いでくれた。
「よし、これで葱を刻んでみなさい。ダメならまぁ――鍛冶屋行きだな」
そう言いながらティチノ師は包丁を私に返してくれた。左親指の爪を刃に軽く当ててみた瞬間、あ、違う。鋭さが戻ったのがはっきりとわかったのだ。私はおもむろに葱を手に取り、まな板の上で刻んでみる。刃が葱に当たった感触すらない。まな板に触れる音だけが小さく響く。
「ふむ、ご機嫌は少し治ったかな? ――研ぎは会話だよ」
そう言うとティチノ師は洗い場を丁寧に掃除するとスツールに腰掛けたとたんにいびきをかき始めた。やはり朝早かったせいか私も眠い。スツールに腰掛けたとたんに眠りについてしまった。
*
昼からの仕事はフライパンでの焼き方がメインだった。教えられた手順通りに油を入れ、下ごしらえした食材を投入し、調味料を振りかける。余計な事は考えず、とにかく手順通りに丁寧にと言われた。
「あの、どうして同じ手順通りなのでしょうか?」
と尋ねたところ、「昨日は濃かったのに今日は薄い。来るたびに味がころころ変わってたら客も困るだろ? それなら同じ味を出す方が良い。――まぁ、『いつも変わんない味だよね』って言って贔屓にしてくれるなら嬉しいからね」と教えてくれた。
「まァ、実は夏場は濃く、冬は薄めに仕上げてるんだがな」
とティチノ師なりの工夫を教えてくれた。そういう話をいろいろ聞かせてくれたから、この「麦の月」は弟子志願者が多いというのも頷ける。でもティチノさんは笑いながら言うのだ。
「教えられるような料理なんて、俺ァ作ってねぇよ。毎日丁寧にやる、ただそれだけ」
ここへは懲罰、社会奉仕で来てるはずなのに、私はここで料理を学び直したいと思った。私は自分が思っている以上に料理が好きで、食材に真摯に向き合うティチノ夫妻とさらなる高みへ勉強したいと思ったのだ。
夜からの営業もフライパンや小鍋を使った焼き方だった。寸胴鍋のスープを隠し味に鳥や魚を焼いたり、卵を包み焼いたりがメインだった。ちなみにこの麦の月では、卵専用のフライパンが用意されているというのが面白かった。卵という食材は、ちょっとした油の残り香や調味料の染み付きで味が変わってしまう。そのためフライパンを使い分けているのだと教えてくれた。
そして夜は酒を飲む方ばかりなので味はほんの少し濃いめで出してほしいと言われた。そのほんの少しの差は耳かき一杯分程度の差でいいらしい。『濃く出して』って言われたら塩をたくさん振りかけたくなるけど、それは我慢してと言われてしまった。
ようやく長い一日は終わった。拘束時間は16時間、うち休憩は8時間以上もあった。特に朝営業が無かったため休憩時間はもっと長かったと思う。領主館での仕事より――楽だった。
*
麦の月で働くようになって二週間が経った。
相変わらず朝一番鐘までに厨房へ行き、城門が閉まる夜鐘まで働くのだけど、毎日が学びに満ちていた。ティチノ師は料理のワンポイントや簡単で美味しい賄いまで惜しげもなく教えてくれ、サーシャさんからも酒に合うピクルスの漬け方や野菜の端材を使った工夫料理を教えてもらえた。
毎日が新しい発見で夢中になってたせいか、つい心がふわっと緩んでしまったのかもしれない。 ほんのちょっとしたミスをやらかしてしまった。
「ステアー嬢、野菜スープ、押し濾しをしといてくれ」
「はーい!」
いつものように寸胴から木枠に『晒し』をかけてスープを濾し、晒しに残った食材を棒で突いて濃いところも絞り出す。――この作業がけっこう大変なのだ。熱気が手元や顔に上がってくるし、木枠は不安定で、なにより晒しが滑る。慣れたティチノさんはうまく押し濾しするのだが私には難しい。
ミトンをして寸胴を持ち、その晒しにスープを流し込む。そのはずだった。しかし木枠が遊び、晒しが滑り、持っていた寸胴鍋があらぬ方向へ傾いていった。ものすごい音と湯気が厨房に立つ。
「大丈夫かステアー嬢!」「あら大変、ケガしてない?」
「――あちっ」
寸胴鍋から飛び散ったスープが手の甲にかかってしまい、赤く腫れてしまったのだ。
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※作者註
『卵専用のフライパン』
アニメ化もされている某料理漫画の影響で、中の人もフライパンを使い分けるようになった。
しかし中の人は卵料理が苦手。ちなみに和平フレイズのUFUFUを愛用している。ずしりと重いのが良き良き。




