74話 武辺者を追い出したあとの新都エラール・7 =幕間=
エラール王宮。
レピソフォンがいる政務室の空気は異様に重かった。その理由は執務机で不機嫌な表情を浮かべる男――レピソフォンのせいに他ならない。周りの政務官たちも困惑の表情を浮かべていた。
木製の分厚い執務机に投げ出されていたのはエラール日報の朝刊。一面には、硬質な筆致で社説記事が掲載されていた。
『被告は何を誤ったのか――エスカル家長男に懲役十五年判決』
記事は事実を淡々と列記しながらも、どこかで権力と社会秩序との距離を測ろうとするような論調だった。
『本件は、貴族階級に属する若年被告が引き起こした痛ましい交通致死事件である。被告は娼婦を伴い、友人らと共に酒に酔った状態で馬に跨り遠乗り中、路上にいた農民の少女(享年八歳)を轢過した』
『事故後は飲酒と娼婦帯同という事実を隠すため、救護措置を講じず逃走。その後、執事や友人を使い、一部証人に銀貨数枚を手渡して沈黙を促すよう工作を指示した事が裁判官により認定された』
『担当弁護士は最終弁論で、本人は深い反省を示しているとして、若年というのも考慮した判断を求む、と述べた』
『そして判決は、貴族の交通事件という事で裁判官三名による合議制で下され、法定刑の上限に近い十五年という実刑判決が科されている。担当裁判官は「個別の情状は考慮したが、既判例の範囲を大きく逸脱するには至らず、判例法に基づく判断」と説明している』
『刑罰の重軽を論ずる以前に、今後このような事件を再発させぬための社会制度の整備こそが急務ではなかろうか』
新聞を睨みつけたままレピソフォンは低く呟いていた。
「――たかが十五年か」
その声音には怒気が滲んでいた。レピソフォンにとってこの記事の内容、特に判決内容に不服だったのだ。そのため朝一番に法務担当の政務官たちを呼びつけている。
「おい、少女が死んでるんだぞ? 酒飲んで見殺しにしたんだぞ? もはや殺人だろ! この国で殺人は死刑もしくは無期懲役となってるんじゃなかったのか!?」
椅子を蹴り立ち上がったレピソフォンは、机の上の新聞を指さしながら怒鳴った。政務官たちは静かにこの嵐が過ぎ去るのを待つことにしたようだ。俯き、唇を真一文字に引き絞ったまま何も発しない。その態度にもレピソフォンは腹を立てていた。
「なんで死刑じゃねえんだよ!? 飲酒、逃亡、買収、そして殺人だろうが!」
政務官たちは黙っていた。そして誰もがレピソフォンの怒りの根が『純粋な正義感』だけではないことも察していた。
エスカル家――その男爵家の現当主夫妻は、かつて貴族の私的な晩餐会にてレピソフォンを「バカな王子」と皮肉ったり、「どうせ母親は聖心教の尼僧だったんでしょ?」と嘲っていたのだ。その話は、もちろん本人の耳に届いている。
レピソフォンは鼻で笑い、怒気を込めて呟いた。
「ま、エスカルの連中を潰すには、ちょうどいいスキャンダルだな!」
政務室に誰もその言葉に反論する者はいなかった。むしろ、何か気に障る事を言おうものなら自分も第二のエスカル家と同じ末路になると分かっていたのだ。
*
エラール・南市場。
エラールの庶民街である南区では様々な人達が行き交うなか、露天のパン屋台の前で、白髪の老婆が噛みしめるように呟いた。
「十五年──たった十五年かねぇ」
パン屋台には今朝の新聞が掲げられており、それを立ち読みしては庶民たちはパンを買い求めて行くのだ。中には議論に熱くなりすぎて店主から「討論は喫茶屋でやってくれ!」と怒鳴られるまでが様式美となっている。
その日の揚げパンを買いに来た若い母親が答えた。
「娘が殺されたのにたった十五年で済むんですか? おかしいですよ。しかも加害者、貴族の子どもなんでしょ」
通りがかりの魚売りが口を挟む。
「──『エラールの光』って新聞には裁判官たち、過去の判例がどうこうって判断で15年って決めたんだってさ。可哀想に、子ども死んでるのにさ」
もう一人の老婆が鼻を鳴らす。
「農民の娘が被害者だったからだよ。轢き殺したのが庶民の子なら、死刑だったんじゃないかね」
人だかりの中から、「でもレピソフォン殿下が『死刑にすべき』って高官に言ってくれたらしいぞ!」という若者の声が上がる。すると庶民たちにざわめきが広がった。
「そりゃ、はっきり言ってくれる人がいてよかったわ」「あの王子、やるときはやるってことかね」
パン屋の老婆は小さく頷いた。「せめてもの救いだよ。せめてもの、ねぇ……」
市民たちの怒りは徐々に『正義の代弁者』となっているレピソフォンへ希望を重ね始めていたのだ。
*
裁判所の警吏団詰所前。
午後になると詰所の前には、手作りの札や布を掲げた市民が集まり始めていたた。一人、また一人と集まると、突然声を上げ始めたのだ。
「十五年じゃ足りねえ!」 「命を奪っておいて、のうのうとたった十五年でシャバかよ!」
叫ぶのは職人風の中年男や、顔を赤らめた若い石工、手をつないだ家族連れたち。周囲には「正義を!」「インチキ裁判反対!」と書かれた布が翻り、街の広場にまでざわめきが波及していく。
石工の若者が叫ぶ。
「レピソフォン殿下は言ってくれたんだぞ! “死刑にしろ”って! 庶民の味方だ!」
それに周囲が応じるように拍手が湧く。「殿下はわかってる!」「本当の王様はああじゃなくちゃな!」
詰所の門扉の奥では醒めた様子で若い警吏たちが人垣を見守っていた。なお吏長らしき人物が出てくる気配はない。
群衆の中にいた中年の婦人が大きな声をあげた。
「あの王子様が、正義を言ってくれた。それだけでも、救われる気がするよ!」
人々の不満と怒りはやがてレピソフォンという名の偶像へと収束しつつあった。
*
エラール東区。
この東区は王宮勤めの下級官吏や書記見習い、公文書整理係などの中流階級の者たちが多く住んでいる。
夕刻、表通りの喧騒から少し外れたこの老舗居酒屋の奥座敷には、仕事上がりの官吏たちが静かに酒を酌み交わしていたのだ。
「十五年という判決は法的に見て公正妥当かと思うかね?」
灰色の帽子を机に置いた若い書記官が問いかけると、対面の年配の文吏が鼻を鳴らした。
「感情論だけで量刑を決めれば、法は法じゃなくなる。だが、あれだけ市民が怒ってるとなると──無碍にはできん」
別の席では、帳簿係の男が苦笑しながら言う。「まるで見事なタイミングで“死刑にしろ”と民主たちが立ち上がったよな」
「おいおい、当たり前じゃないか。──裏で糸引いてるのが居るんだから」
小さく笑いが漏れるが、どこか笑いきれない空気が残る。
そうだ。レピソフォンは好機と見て司法に介入して民衆の人気取りに走るだけでなく、自身にとって不愉快な貴族たちの粛清を始めているのだ。それなりに事情が分かっていれば誰でも見抜けそうな事だが、情報が偏って伝わり易い民衆には『レピソフォン殿下の正義の御英断』と見えているのだ。そのため下級官吏たちにとっては茶番としか見えていない。
しかしやり方が杜撰で短絡的だった。金を使って民衆を扇動したのだろうが、やっていることはただの司法への介入だ。民衆の歓心は買えるだろうが、司法への信頼は失墜する。奥で沈黙していた背の高い男が低く呟いた。
「司法と民意が乖離しはじめると、政争の道具になる。法が“怒りを満たすための手段”になった時点で、もう手遅れだ」
誰もその意見に反論しなかった。ただ、酒の減りが少しだけ早くなった。
*
王宮のレピソフォン執務室。
分厚い書状が、机の上に音を立てて置かれる。
「これが弁護士ギルドからの正式抗議です」
冷静な声で報告したのは補佐官の一人だった。文面は公印入りで、『レピソフォン殿下の司法判断への直接的言及は、司法権の独立を脅かすもの』と断じられていた。その部屋には、レピソフォンと側近数名、そして筆頭法務官であるブランデル・コールが居並んでいた。
レピソフォンは苦笑し、椅子にもたれて頭を乱暴に掻きながら応えた。
「脅かしてる? 俺が? ……むしろ、法で俺達を脅かすような正義しか持ってねぇじゃねぇかよ、あいつらが」
沈黙が流れる。その中でブランデルが一歩前に出た。
「殿下。司法の独立は、王国法制の根幹にございます。政治的人気取りや貴族家の粛清のために干渉なさることは、将来に禍根を残します」
レピソフォンはその言葉に、眉をぴくりと跳ねさせた。
「なんだ、ブランデル。──俺様の判断に文句があるのか? ただの人気取りや溜飲を下げるためにやってるとでも言いたいのか?」
「いえ。意見を述べたまでです。ですが我が王国は立憲主義、──法に従うべきは王族とて同じであるという原則を、今一度お考えいただきたい」
レピソフォンは、椅子から立ち上がり、ブランデルを指差した。
「クビだ」
部屋が静まり返った。
「君は明日から来なくていい。こんな杓子定規なやつに、俺の政治はついていけん」
ブランデルはわずかに瞼を伏せ、深く頭を下げてから静かに退室した。残された側近たちの間に、緊張が走る。レピソフォンはカルビン・デュロックに目を向けた。
「お前は──お前さんは俺の味方だよな、カルビン?」
カルビンは無表情のまま一歩前に出て、微笑を浮かべる。
「もちろんです、殿下」
その笑みの裏にあるものを、誰も読み取ることはできなかった。
*
翌朝、エラール日報は速報号を出した。一面には大きく飾られた王太子の署名入り令書の写しとともに、こう綴られていた。
『ガズバール・エスカル被告(17)に対する懲役十五年の判決について、王太子レピソフォン殿下の裁可により、死刑へと変更され、抗告の禁止及び即時執行の命令が下された』
『また、殿下のご判断により、エスカル家の家財は三代にさかのぼって接収され、国庫に徴収。これを原資として被害者少女の遺族へ見舞金と葬儀支援金が支払われることとなった』
『そして法を捻じ曲げて詭弁を振り回す弁護士ギルドは解散命令、判決を支持した判事はエラールへの追放命令に関する命令書にも署名にも模様』
『民衆の声に耳を傾け、正義の実現を貫いた殿下のご決断に、多くの市民が安堵と称賛を寄せている』
社説欄には、次のような文言があった。
『私たちは法と正義のあり方を見つめ直す転換点に立たされている。今回のご決断は、単なる“怒りへの迎合”ではなく、あらゆる階級において命の価値が等しくあるという原則を再確認させるものであった』
『レピソフォン殿下の英断が、我が王国の新たな道しるべとなることを、心から願ってやまない』
*
カルビン・デュロックは、微笑を浮かべたまま自身の執務室へと戻った。その顔はレピソフォンへの変わらぬ忠誠を湛えていたが、胸の内では別の声が静かにささやいていた。
――忠誠は武器だ。しかし過剰な主張は自分の首を飛ばす。
レピソフォンは正義を掲げたふりをして自分自身を王冠のごとく飾り立てようとしている。だが後先考えない行動は後に歪となるだろう。ブランデルは正論を言った。そして、排された。
カルビン自身もあの判決には不服だった。罪なき少女を轢き殺したくせに、金でもみ消そうとしたのは唾棄すべき事案だ。それはレピソフォンも同じ感想だったのだろう。しかしその思いを法の厳格化に舵を切るのではなく司法の介入に手を入れたのだ。反発が多いほうを選んだのだ。──相変わらず、あいつは馬鹿だと思った。
カルビンは執務室の書架の上に置かれた王国法典にちらと目をやった。背表紙の革装が古び、角がすり減っている。
次に落ちる首は誰かな。いや、まだ誰が誰を落とすかが決まっていないだけかもしれない。
微笑のまま、カルビンは静かに視線を伏せた。
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