67話 武辺者の女家臣、農業改革に取り組む・中編
春の訪れには、まだ少し遠い朝。
実験農場の一角で私──クラーレは、額に汗を浮かべながら一頭の牛を睨んでいた。
「──進めってば、デボネア。前に! なんでこっち見てんのよ」
唐突だけど牛の視野ってどれくらいあるかご存知だろうか。
人間だと60〜70度くらいと言われているが、牛の場合は約320度。つまり彼女らは鼻先を前に向けていても、後ろだって見えてるはずなのだ。
なのに、私の前にいるこの牝牛のデボネアはなぜか私を不思議そうな目で見返してきて、ぬぼーっと立ち尽くしている。時々尻の穴からぼとぼとっとブツを放り出すくらいにはやる気がない。
「昨日までは、マイリスさんの指示には素直に従ってたじゃない!」
昨日と一昨日は、マイリスさんが「平日に公休日が来ると、旦那様が仕事なので家にいても暇なんです!」と言って実験農場の手伝いに来てくれていた。彼女から犂の使い方や牛の扱い方を一通り教わったはずだったのに、いざ私ひとりになった途端にこのザマだ。
「クラーレ殿。こいつ、さっきからう●こばっかりして全く動きませんよね」
デボネアの鼻先にいるロゼットが藁を振りながら言った。彼女に牛を誘導してもらっていたのだけどぼんやり立ち止まってばかり。
「マイリスさんってどうやってこの子を御してたんでしょうね――まさか鞭でシバきまくってたとか!?」
「それが、『ドゥードゥー』『ドードー』『エィッ』の三つだけしか使わないって言ってました」
なんでも農耕牛はその三語だけで事足りるそうだ、右・左・停止の合図だけ。それに引き綱があれば御せるはずなのに、麦畑に入ったとたんにデボネアは固まってこちらばかりちらちら見てくるのだ。
「――今からマイリスさん呼んできてもらうの、無理?」
「うーん無理ですね。今日はあたしが記録係です。マイリス副長はクイラちゃんたちの教育指導で領主館ですから。それに──馬の扱いは多少わかるんですが、牛はちょっと専門外でして」
ロゼットの実家は『安眠館』という小さな宿屋だ。中には荷馬車でやってくる客もいるため馬匹管理は出来るとマイリスから聞いているが、やはり牛と馬では勝手が違うらしい。
「だよね、ごめんねロゼットちゃん」
「いえいえ! この前やらかしてメイド業務一週間停止処分中ですから! ここでしっかりお勤めしないと!」
ちなみにその「やらかし」とは、プリスカと喧嘩したり暴漢に突っ込んでいったりしたことだ。その件でメイド長のオリゴにしっかり怒られたそうだ。プリスカはというと、ロゼットより重い処分で十日間のメイド業務停止のため通信隊の任務に入っていると聞いている。
「ていうかクラーレさん、牛ってもっと──言うこときくもんじゃないの?」
「聞くわけないでしょ。あんた、これが人間より重いって知ってる?」
渾身の力で手綱を引いてもデボネアは一歩も動かない。土埃と汗と疲労だけが着実に私の全身にまとわりついていく。作業を始めてまだ一時間も経ってないのに私たちはもう泥だらけだ。
「牛で耕すって、もっとこう――牧歌的というか乙女的な感じかと思ってましたよ。土と語る、みたいな」
「あなたの言う乙女の定義が、よくわからん」
ため息をつきかけたそのとき、ふと遠くに土煙が立ち上るのが見えた。ごとごとと何かが近づいてくる音が耳に届く。目を細めると数人の男たちが大きな木製の台車のようなものを押していた。その先頭には──あの、元錬金術ギルド長、レオダムの姿があった。
「待たせたな、クラーレのお嬢!」
妙に張り切った声が、畑に響く。
領主館の作務師ノーム爺さんに、機織ギルドの技師アンさん、そして時計技師でドワーフのホビリオさんも一緒だ。私は思わず眉を上げた。
「なんかでっかい荷馬車? でも牽く牛馬がいませんけど」とロゼットがぽつり。
レオダムはにやりと笑いながら、誇らしげに台車の横腹をぼんぼんと叩いた。
「魔導エンジンを組み込んだ鋤込車だ! 試作第一号、今日のために皆んなで仕上げてやったぞい!」
思わず私は手綱を手放して泥まみれの両手を見つめた。いや、もう笑うしかない。前々から話は聞いていたがついに試作機ができたんだと熱い気持ちが溢れてくる。
(──時代って、ほんとに急にやってくるのね!)
*
親方衆がわらわらと動き出して鋤込車の準備を整えていく。どうやら真ん中の座席に乗り込んで操縦し、後部に取りつけられた大きな鋤が土を裂く構造らしい。牛も馬も不要な上に魔導エンジンで駆動するとは。
魔導エンジンの理論は完成している。現に魔素を圧縮減圧することで過熱や冷却の魔導スクロールが利用されているのだから。ただ、使用後には魔素の定期補充が必要だったり、その補充業務は国家錬金術師資格が必要だったりするのだが、何より燃費性能の悪さと錬金術ギルド内部の対立もあって、基礎研究はほとんど進んでこなかった技術分野だ。
しかし錬金術師資格を持つレオダムは、自ら組み立てた魔導エンジン理論をどうしても完成させたかった。その一心で定年退職後もギルドに残って研究を続けていたのだ。
「クラーレ殿、見ててください。これが実用化したら一大革命ですぞ!」
長年の研究成果がこの鋤込車。レオダムが誇らしげに胸を張る。しかしロゼットがそっと私の肩に顔を寄せてきた。
「あの荷馬車みたいなの、なんか煙出てません?」
確かに台車の横腹から細い白煙が立ち上っている。その件に関しては誰も何も言わなかった。私は排気ガスなのかなと思うことにした。
「さぁ、いざ試運転じゃ!」
レオダムの掛け声で、親方のひとりが前方に取り付けたハンドルを回し、魔導エンジンを起動する。
──ごおおおおおん、と低く唸る音が響き、鋤が地面に沈み込んだ。
ぐおおおっ、と土をえぐるように鋤が進んでいく。
「すげぇ! 牛より深く掘れてる!」 「これが、夢にまで見た魔導の力か!」
歓声があがる中、私は目を細めながら進行速度を見守る。
……遅い。
いや、耕しているには耕しているのだけれど、速度が牛犂より遅い。いや、明らかに遅い。
そして、十メートルほど進んだところで、
──ぼふんっ!
という情けない音を立てて、鋤込車が止まった。
「止まった!?」 「おかしいな、魔素燃料は満タンのはずじゃが」
レオダムがあわてて魔導炉の蓋を開け、中を覗き込む。
ロゼットが記録帳を抱えながらぼそっと呟いた。
「……燃費、めっちゃ悪くないですか、これ」
「まるでロゼット嬢の食欲みたいじゃな!」とノーム爺さんが笑った。
「違いねぇ! そこの安眠館の小娘はよぉ食べる娘やもんなぁ」
「うるっせぇ外野!!」
ロゼットが赤面して怒鳴り、記録帳を地面に叩きつける。
私は苦笑しながら、再び動き出そうとしている鋤込車の煙を見つめる。そして牛のデボネアは『もー』と牧歌的に鳴いていた。
*
親方衆が鋤込車の整備窓を開けてはあれやこれやと討論を始める。アンは魔素混合器のメイン番手を変えてみますねと言うし、ホビリオは圧縮が抜けてるのかもなと言う。結局レオダムたちは魔導エンジンの部品を外してはあれやこれやと論議を始めた。そのときだった。
「あのォ、そのメインハーネスの魔導回路ですが――ここ、リークしてません?」
誰かが指差しながら呟いた。皆が振り返ると旅人らしき男女が親方衆の輪の中にしれっと混じって立っていた。二人とも埃っぽく薄汚れた外套を身にまといペンとメモ帳を持っていたので、誰も気づかなかったらしい。
男は痩せぎすで丸眼鏡をかけた背の高い青年で、女は小柄で色白な肌と淡い茶髪が印象的だった。堂々とした雰囲気をまとっていてただの旅人には見えない。
「あと、ここの回路の閉じ方も雑ですよね。これじゃ魔素が逆流するから魔導エンジンがカブるんじゃないでしょうか」
男がつぶやくように言うと、女のほうも魔素カートリッジを眺めながら続けた。
「触媒として燃料にミスリル粉を2%混ぜればセルマーの法則に従って伝導効率が上がると思います」
一同、ぽかんとする。とくにレオダムの顔が引きつった。
「セルマーの法則、じゃと?――お主ら何者じゃ」
「レオダム・ド・セルマー師ですよね? 私、ドリー・ハミロフと申します。隣は妻のマルシア、僕と同じく錬金術師です」
男は眼鏡を指で押し上げながら顔をしかめて名乗った。一息つけてから捲し立てるかのように男は続ける。
「ずっとレオダム師に会いたかったんですよ! 師はキュリクスのギルド長でしたからこの地にいけばいつかは会えると思ってたんです! たまたま朝風呂帰りに面白そうな畑とカラクリ機械が見かけたのでちょっと立ち寄ってみたんです!」
ドリー・ハミロフ。私はその名をどこかで聞いた覚えがあった。レオダムを師と呼ぶと言う事は――錬金術界隈の人だと思う。しかし私はピンとこなかった。
「あぁ! ハミロフって家族名、宰相を輩出していた子爵位ですよね!」
ロゼットが記録帳で口を隠しながら、小声で呟く。――そうだ思い出した、王宮のインチキ魔導具事件で子爵位のハミロフ家がお取り潰しになった件で聞いたことあったんだ。エラールやキュリクスの新聞で連日報道されていたっけ。
レオダムはドリーの名前を聞いて目を見開く。そして口をぱくぱくさせながら彼の手を取った。
「ど、ドリー・ハミロフって、あの加熱冷却のスクロール型魔導エンジンを実用化させた、国家魔導錬金術師の、ドリー殿か!?」
「ええ、まぁ、その通りです」
ドリーは困ったように笑って肩をすくめた。「ですがその魔導エンジンの成功って僕一人の成果ではありません。妻の助けもありましたが、最大の貢献者はレオダム師だと思っておりますから」
そこから語られるドリーのレオダム愛は尋常ではなかった。ゼロからイチを生み出すにはひたすらに試行錯誤を重ねるしかない。だがドリーは「レオダム師の“失敗論文”があったからこそ出来たんです!」と目を輝かせて語りだす。なんと彼はレオダムの発表したあらゆる実験論文をかき集め、読み込んで、なぜ失敗したのかを徹底的に分析し、逆にその“道筋の外れ方”から可能性を編み出していったという。成功の土台には失敗の山がある。それを築いたレオダムへの賛辞が止めどなく溢れ出していた。あまりの熱量に当のレオダムは「お、おう」とうろたえ目を泳がせていたほどだった。
「こんな面白そうな農場があるなら、是非ともここで滞在して研究助手として混ぜてもらいましょうよ」とマルシアが言う。
二人の目を見た、──技術者の目だった。誰よりも鋭く、誰よりも純粋で、そして誰よりも楽しんでいた。ロゼットが記録帳を抱えながら、ぼそりと漏らす。
「また変な夫婦が増えたねぇ」
*
――同日、実験農場近く。
工兵隊はオキサミルを先生として測量の訓練を行っていた。
新兵のネリスは、スタフ棒を持つ先輩をトランシットで覗き込みながら、ふと視界の端に映った畑の一角に目を留めた。
わいわいと集まって何かの部品を分解している親方たち。その真ん中で身振り手振りを交えて語っている祖父レオダムの姿。その様子を見てぽつりと呟いた。
「じいちゃん――楽しそうじゃん」
*
──なお後日談だが、牛のデボネアが動かなかった理由が判明した。
マイリスさん曰く、「クラーレさん、彼女は『ボルジア』ですよ? 名前を間違えられたから、きっと彼女、へそを曲げたんです」だった。
まさか牛にまで機嫌を取らねばならないとは思わなかった。
きちんと「ボルジアちゃんお願いね」と言うとすいすいと牛犂は動かせた。その件はロゼットにきっちり記録された。
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