66話 武辺者の女家臣、農業改革に取り組む・前編
キュリクスの錬金術ギルド研究室。
朝の光が窓から差し込み、シャーレに入ったいくつもの鉱石サンプルをテルメの手によって並べられる。静かな室内にその音だけが規則正しく響いた。その中でも貝殻を粉にしたかのような粉末を彼女は手に取った。
「これらは間違いなくグアノ、つまり海鳥の糞が堆積してできた有機リン酸結晶です。採取場所によって差異はありますがアルカ島のサンプルは優秀です」
右手で眼鏡をずり上げながらギルド書式の成分分析表をクラーレに見せた。
「やっぱり!」
クラーレは息をのむ。彼女はアルカ島スケルトン騒動の時、上陸した時から気になっていたのだ。酸っぱい腐葉土のような動物の排泄物のような特異な臭い。さらさらというかカリカリしてるが、水に濡らすと泥とは違うベトベトした触感。そして木炭粉と混ぜて焚火に放り込むとパンパンと音を立てて燃える現象。
それが気になり、テルメに頼んで検査に回したのだ。
しかし横でマイリスが首をかしげる。
「すみません、これってどういうものなんでしょうか? なんか料理に使う新しいお塩ですか?」
クラーレは即座にくるりと振り向き、胸を張った。勢い余って思わず胸元が跳ねるように動く。
「農作物に革命を起こす肥料よ! これを鋤き込めば収量が倍になる可能性もあるの!」
「ば、倍ですかっ!?」
マイリスの目が丸くなった。彼女の実家は小作農だったため、小麦をどれだけ撒けばどれぐらい収穫できるのかは知ってるつもりだった。しかしクラーレが言うように本当に収量が倍になれば、両親や弟妹たちはどれだけ贅沢が出来るだろうかと思ってしまったのだ。テルメがやや苦笑いを浮かべながら補足を入れる。
「麦播前にこのグアノも一緒に鋤き込んでおくんですよ。そうすると麦の根っこが強化されて成長促進や倒伏防止、出穂時や登熟時にも利いて粒を太らせるんです──あ、撒き過ぎると枯れますけど」
「それです! それが言いたかったんです私!」
クラーレは拳を握り、喜びを爆発させている。
「ですが私の村は人糞を肥溜めで寝かしたのとか、鶏糞を撒いたりしてましたが、それよりも良いんですか?」
「えぇ。グアノは衛生懸念や病気リスク、施肥難易度が人糞などと比べて易しいんです──そして施肥収量ベースが段違いですので戦略物資といっても過言ではありません」
テルメは右手で眼鏡をくいっと持ち上げながら言った。確かに人糞や豚糞などの排泄物肥料は各地で古くから一般的に使われてきた。しかし肥溜めなどで数年単位で熟成させる必要があるし、排泄物由来の感染症リスクも低くはない。それに水分量の調整が難しく撒き過ぎれば根腐れの原因にもなる。ちなみに数年熟成した人糞は言うほど臭くはない。屎尿が混じると不快臭が残るが。
鶏糞に至っては養鶏をしてなければ安定的に入手も難しいし無計画に撒けば作物に重大な「肥料焼け」を起こすリスクもある。ただ人糞肥料などは、撒けば成果が比較的早く出るのも特徴ではある。
「あと石灰も合わせて撒けば、酸性の強い土壌でも麦や豆の発芽率が向上するはず! キュリクス南部のあの痩せた村にはうってつけです!」
勢いに乗って、クラーレは資料の束を机に叩きつけるように出した。自作の図解、かつて視察した際に採った土壌データ、そして実験区画の設計図である。
「この資料を持って、マイヅ村に提案しに行きましょう!」
「今からですか?」
「流石に今すぐは無理でしょうから、一旦このデータを持ち帰ってトマファ君たちと相談した上で提案してみましょう!」
クラーレの瞳は燃えていた。研究員時代に掴みかけていた農業の革新。忘れかけていた夢が今ふたたび手の届くところにあるように思えたのだ。マイリスはそんな彼女の背中を少しだけ心配そうに、しかし誇らしげに見つめていた。
(──クラーレさん、本当に突っ走りだしたら止まらない人ですよね──)
領主館へ戻った二人はトマファに事情を報告し、マイヅ村の代官へ農業説明会の実施についての書状をお願いする。
「確かにマイヅ村の過去十年の反別収量はキュリクス領内では下位です。ですがクラーレ殿の農業改革が成功したなら、相当なメリットですね!」
トマファはそう言うとマイリスに「早馬でお願いします」と書状を手渡した。マイリスは「承知」と言うと窓枠に手を掛ける──プリスカのせいでメイドたちが窓から出入りするようになったのはどうにかならないのかな。トマファは肩をすくめ、そっと窓辺から目を逸らしたのだった。
※
マイヅ村の寄合所は高床に建てられた四阿であった。柱と屋根だけの風通しのよい小屋で、粗末ながらも清潔に整えられている。
集まった農民達は車座になっていた。若者たちは出稼ぎに出ているようで、腰を曲げた年寄りたちが目立ち、静かに煙草をくゆらせながら座っていた。
クラーレはその真ん中に立ち、グアノのサンプルと自作の説明図を広げた。側にはマイリスが控えている。視線が集まり、クラーレは無意識に喉を鳴らした。
「本日はお集まりいただきありがとうございます。これは先日アルカ島で採取したリン鉱石──“グアノ”です」
クラーレの声は明瞭で自信に満ちていた。しかし集まった年寄り達は胡乱げな目で彼女を見ていた。
「この白い粉は海鳥の糞が数万年単位で堆積してできたものですが、農業においては極めて優れた肥料です。麦の発芽率を上げ、根を強くし、粒を太らせる効果があります」
マイリスが横から説明図を掲げ、補足する。
「こちらをご覧ください。赤い線が普通の麦の根の広がり、青い線がグアノ施肥後の例です」
前列の一人だけの若い農民は目を輝かせて頷いたが、他の年配たちは腕を組んだまま無言である。二人でグアノと石灰の効果を必死に説明していたが、しばし沈黙が流れた後、後方の一人がぽつりと口を開いた。
「──とは言ってもなあ、儂らには儂らのやり方があるでの」
その一言で、場の空気が揺らぐ。別の老人が付け加える。
「毎年、冬前に草を燃やしてから鋤入れして、春先に麦を撒いとる。それで何十年もやってきた。急に変えろ言われても困るもんは困るでな」
クラーレは一瞬言葉を失った。頭では理解している。変化への抵抗、先祖代々のやり方を守りたいという気持ち──。しかしマイリスは車座の真ん中に立つと低く、穏やかに話す。
「このお話は、皆さまの農法を否定するものではありません。より良い方法の“選択肢”として、実験してみる価値があるのでは……と」
しかし別の年配農民が、少し棘のある声で言い放つ。
「そんなら役所でまず試してから来なされ。成果もないのに、話だけ持ってこられてもなあ」
クラーレは手元の資料を握りしめた。手がわずかに震えていた。
(理屈だけじゃ、誰も動かせないか)
そのうちに年寄りは一人また一人と席を立つ。集会はそのまま解散となり、農民たちは三々五々に出ていった。残された資料が風にめくれ、空虚な音だけが四阿に残った。若い農民一人が名残惜しそうに振り返っていたが、それ以上の声は上がらなかった。
クラーレはその場に立ち尽くしていた。マイリスがそっと横に並び、静かに肩に手を置いた。
「クラーレさん」
「実績。結局それが無ければ話にならないってことなんですね」
唇を噛むクラーレの目には、悔しさと決意が入り混じっていた。
※
陽が傾き始めた頃。
寄合所の裏手にある納屋の広場で、農民たちが集まって木箱や麻袋に腰を下ろしていた。誰からともなく酒瓶を回り始めると、今日の寄合について口々に感想を言い合い始める。
「──いやぁ、あの嬢ちゃん、えらい勢いやったな」
「悪かぁない話や、話だけ聞いとる分にはな」
「でも実際どうなんや? 本当にあれ撒いて麦が倍採れるようなるんか?」
年配の男たちが手酌で酒をつぎながら、渋い顔を見せる。
「儂ぁ知らん。そもそも糞が元やろ? 気持ちのええもんじゃねえわな」
「人糞や豚糞なら今でも使っとるだろ?」
「けどよ、あの嬢ちゃん何も実績がねぇだろ。ただの机上の空論じゃねぇか?」
「年貢は免除するって言われたってよ、次の年にペンペン草も生えんようになったら泣くしかねぇやろ」
黙って酒を飲んでいた白髪の老人が湯呑を置きながら口を開く。
「あの嬢ちゃん、エラールの研究員だったって言うてたな。熱意はあった。目も、声も──真っ直ぐやった。でもな、田んぼと畑は気持ちだけじゃ育たん」
一同、静まり返る。誰も反論はしなかった。しばらくしてぽつりと若い農民がつぶやく。
「でももし、本当に効くんなら、一度ぐらい試してみても?」
すかさず別の男が首を振る。
「やるなら役所でやれ。こっちが喜んで実験台にされる謂れはねぇ」
白髪の老人が静かに頷く。
「悪くはないがうちの村じゃ冒険はできん。それが村の総意やろな」
誰かがため息をつき酒瓶を回す。麻袋の上に乗っていた酒肴が残り少なくなっていた。赤く染まり始めた夕焼けが、納屋の壁に長い影を落としていた。その影の一つの向こうでクラーレが拳を握りしめて立っていたことには誰も気づかなかった。
夕方。
領主館の裏手にある倉庫のそば、まだ陽の残る石畳の隅にクラーレの姿があった。しゃがみ込んで領主館に住み着く子猫を撫でているその背中は、いつになく小さく見えた。
「どうして、正しいことをしたいだけなのに、こんなに拒まれるんでしょうね」
マイリスがそっと近づき、日干し魚を子猫に渡す。座り込んだままのクラーレが小魚に必死な子猫を見つめて小さく息をつく。
「理屈は通ってるんです。グアノの成分も、実験例も、全部。でも、『それでもやらない』ってそんなのどうすればいいんですか」
マイリスは隣に腰を下ろし、静かに答えた。
「正しいことと受け入れられることは別なんですよ」
クラーレは眉をしかめ、唇をかんだ。
「じゃあ間違ってる側に合わせろっていうんですか?」
「いいえ。──実践した結果を見せることが交渉に必要なカードなのかもしれませんね」
その言葉にクラーレの手が止まる。さらに小魚をとせがむ子猫から顔を上げた、その瞬間に小魚を奪い取る。
「──見せる?」
「はい。誰かの畑じゃなく自分たちの手で──確かに育ったってはっきり分かる形で」
しばしの沈黙。クラーレの瞳に少しずつ光が戻っていく。
「それならやりましょう、試験農場で! ちゃんと育ててみせます。そうすればきっと、クラーレさんの言ってることが判るはずですから」
そう後押しするマイリスにゆっくりと立ち上がったクラーレの背中は先ほどとは違ってまっすぐだった。
「では私、行ってきます!」
マイリスも立ち上がり、微笑む。
「クラーレさん、もう夕方ですよ!」
西の空が赤く染まり始め、ふたりの影が倉庫の壁に長く伸びていた。
※
西の空が朱に染まりはじめた頃、領主館の執務室。
大窓のそばに立つヴァルトアは、クラーレとマイリスが話している様子を腕を組んで無言で見守っていた。背後で書類を整えていたトマファが静かに声をかける。
「──マイヅ村の代官より、書面にて通達が届いております。『ご要望の農事協力は見送らせていただきたく存じます』と」
ヴァルトアは返事をしない。ただ視線を外に向けたまま小さく息を吐いた。
「領主命令として代官に協力せよを命ずることも可能ではありますが」
「今はやめておこう。クラーレたちなら自分の力で証明すると言うはずだ。ならばその背を押してやるべきだと思う」
ヴァルトアはようやく窓から目を離し書架の方へとゆっくり歩く。そしてグラスを取り出すと火酒を静かに注いだ。
「御意。──ですが折角の提案を蹴るなんて。収量増加は領内基盤強化のためにも亥の一番に取り組みたいのですが」
「だが人の心とはそういうものだ、理屈でなく結果でしか動かん。想定年利よりも配当実績を見て債権を買うだろ?」
「ごもっともでございます」
トマファはうなずき、書類を一枚取り出した。
「ところで元ギルド長レオダム氏より、新造農機具の試運転についての申請が届いています。クラーレ殿と協力したいとのことです」
「おお、あの爺さんか。ヴェッサの森のエルフ達の木工旋盤の作成の時以来だな。まだ研究魂が冷めとらんか」
「あの人はそうそう老いぼれるような人ではないですよ、きっと──では試験農場にてクラーレ殿と連携してもらいましょう。若い芽には導き役も必要です」
ヴァルトアは肩を揺らし、低く笑った。
「お前に任すよ。あいつらならやってくれる、気持ちだけでも芽が伸びるよ、きっと」
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