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64話 武辺者を追い出したあとの新都エラール・6 =幕間=

 冬の始まりの頃。

 曇り空の下──エラール王宮の玉座の間には長らく途絶えていた人の気配が戻っていた。

 レピソフォン・ド・エラールと家族名を変えた男は白い儀礼衣に金の縁取りを施した外套を羽織り、自信満々に玉座へと進む。このド・エラールという家族名は直系王族が許されている名乗りである。傍流であるレピソフォンが名乗るには、少々大きい家族名ではある。


「さあ、始めるよう!」


 彼の声を受け、聖心教の司祭が壇上に進み出た。


 「人魔大戦」の終結と共に、かつて打ち立てられた統一王朝が『民の秩序と繁栄の象徴』となった時代。その時より即位の儀礼は必ず月心教の高司教の手で執り行われるのが慣わしであった。主神の加護を受けた王が冠を戴くことで国の正統性を示し、大陸諸邦に覇を号令する──それがこの王国における“冕冠式”の重みである。


 それは単なる宗教儀式ではない。王と国土、そして民を結ぶ政治と信仰の一点交差なのだ。しかし壇上に現れたのは月心教の高司教ではない。歴代王が頼ったその正統なる宗教を差し置いて今回呼ばれたのは聖心教だった。


 かつて月心教から分派したこの宗派は、同じ聖典を掲げ同じ主神を崇拝してはいるが教義は実に世俗的だ。そのため政治儀礼とは無縁の存在であった。それをわざわざ招いたのは、「新しさ」か、「逆張り」か、それとも彼の信仰なのか──どちらにせよ歴史や有職故実を知る者からすれば聖心教は完全に場違いなのだ。虚栄心が絶大な彼の事だから司教位を持つ聖職者を要求したのだろうが、この日、聖心教から王宮に現れたのは名もない市井の司祭だった。その司祭は静かに壇上を歩み、形式的な祈祷を唱えると淡々と冕冠(べんかん)を掲げた。


 冕冠──それは王位の象徴にしてかつて歴代の王たちが即位の際に戴いた神聖なる王冠だ。数多の血と誓いの記憶を刻むそれが、よりにもよってこのような児戯に持ち出されようとは。


「この冠を受ける者に、主の導きがあらんことを」


 司祭の祈りと共に冕冠が彼の頭上にそっと置かれた。その瞬間──名目上は「レピソフォン親政」が成立してしまう。


「本日をもって、我が手による親政を開始する!」


 レピソフォンは玉座に腰を下ろすと右手を突き出して高らかに宣言した。進行役を務めるカルビン・デュロックが、にこやかな笑みを浮かべつつ声を張り上げた。


「これぞ真の王政復古でございます! 殿下の治世に、祝福あれ!」


 他にもレピソフォンの息が掛かった者たちや仕込みの者たちが歓声を上げる。中には万歳三唱をしだす者たちまで現れたのだ。


 しかし列席していた殆どの高位貴族や生き残った官僚たちは、顔を引きつらせながらもとりあえずは拍手を送った。心からの祝福ではない、不興を買って誅伐されるのを防ぐためだ。中には、


「──あのバカ、ついに気が触れたか」

「月心教の司教が冠を授けて貰うにも歴史的背景があるのに、聖心教のいち司祭に冕冠だなんて正気じゃない」

「あのバカの母親は確か聖心教の尼僧だったからか?」


と声をひそめあう貴族たちも居た。


 その中には顔色ひとつ変えずに控えるブランデル・コールの姿もあった。──彼といえば、レピソフォンの政局のあとにカルビンから引き上げられた官僚の一人だ。生真面目すぎる性格が災いしてノクシィ一派で孤立し、閑職に追われた一人である。そんな『うだつの上がらない官僚』は、穿った見方をすれば合法的にノクシィ一派を飛ばし、投獄し、ついに潰した。そんな彼には冕冠を被ったレピソフォンを見てこう思ったのだ。『王冠を乗っけた猿』と。


 同じ事を思っていた者は他にも居た、長年王宮に出入りを許されていた新聞屋である。記者席に並ぶ新聞各社の目は様々だった。あからさまに困惑を滲ませる者、苦笑する者、それでも記録を止めない者。

 しかし長年取材を続けてきた彼らはよく知っていた──この“即位式”には現王の姿がなく、伝統的儀礼すら唾棄するような茶番であると。はたして市民にどう伝えるべきか、と。これは新聞各社の『色』が出るだろう。懐疑的、好意的、中立的と。


 ──その政道に正義はあるのか?  エラール日報の記者は眉をひそめながら、祭事の様子を素早く筆を走らせていた。


 一方、日刊エラールの若い記者は小声で隣に囁く。

「これは“王宮の夜明け”、ですね! ──この見出し、もらいました」



 この茶番はさらに続く。

「ノクシィ一派の膿を出し切る!」とレピソフォンは拳を振り上げたのだ。


「この国を腐らせていた膿はすでに出し切ったつもりだ。しかし甘言を弄し袖の下の軽重で政策が決まっていたのは事実。それならば官僚は総取っ替えだ! 本日付で以下の部署に新任命令を下す!」


 彼の号令一下、侍従が人事令を次々と読み上げていった。しかし読み上げられる名のほとんどは無名の取り巻きや新興貴族ばかり。農政畑で永く務めていた官僚、外交関係で他国との強いパイプを持つ子爵位貴族、そして財務官僚は全て閑職へと左遷されたのだった。


 悦に浸る彼は満足げに微笑みながら玉座にもたれかかった。そしてあろうことか足を振り上げるとだらしなく足を組んだのだ。自身は民に寛容寛大さを示したつもりだろう。しかし玉座の間に居る者たちはだらしがないとしか映らなかったのだ。


 カルビンが「殿下のご英断に、我ら臣民一同、深甚なる感謝を――!」と声を張り上げると、列席者たちが渋々跪いた。ただ一人、ブランデルだけが静かに立ち尽くし、誰よりも遅く、そして最も丁寧に頭を下げた。その冷めた目はまっすぐ玉座を見据えたままだった。


 ※


 冕冠式の翌朝。

 エラール王宮の政務執務室には緊張感が一切感じられない、緩んだ空気が漂っていた。


 玉座の間の豪奢さとは異なり、旧ノクシィ一派の政務官が使っていた机と棚がそのまま残る質素な空間。そこに紫檀の椅子を深く腰かけてだらしなくするレピソフォンの姿があった。顔は赤く目は充血しており、吐息から酒気が如実に感じられた。ようは二日酔いである。そんな男の親政一日目。


「ふむ。これより朝議を始める。まずは親政の始まりにふさわしい『誠意』を民草に示す必要があるだろう”」


 レピソフォンは、前夜の『冕冠式』で得た高揚感、そしてその後の酒宴乱痴気騒ぎでの陽気さを引きずって手元の羊皮紙に走り書きしたアイデアを読み上げていった。


「大店を中心に祝いの矢銭を募る。あくまで自発的な名目で構わん。商家にとって誉であろう」

「次に税制の見直しだ。年貢も商業税も大幅に軽減する。民の笑顔は王の誇りだ」

「出入場税と酒税も、半減とせよ。……そのかわりと言っては何だが、関銭は少し上げてもよかろう」

「さらに、忠誠の詩だ。各領主に我が親政を称える詩文を献上させよう。格式あるものをな。吟遊詩人の手によるものでも良い」


 ひとつひとつ、本人なりに『改革』だと信じて口にされる命令。だがそれを正面から受け止める者は一人もいなかった。


「ははっ、さすが殿下。まさしく時代を導く御発案でございますな!」


 カルビン・デュロックが一歩前に出て機転の効いた翻訳と補足を始める。


「では矢銭の件ですが『自発的慶賀金』として商家に募りましょう。各商会はむしろ、殿下への忠誠を示す好機と捉えるはずです」

「税制に関しては、殿下の寛大さを印象づける意味で、一部災害地を対象とした『限定減免』から始めては──」


 くるくる回るカルビンの弁に彼の取り巻きたちが「ご明察」「実に慧眼」と相槌を打つ。その執務室の端ではただ一人、ブランデル・コールだけが書類を睨んでいた。彼の膝上にはすでに『アイディア修正版』の草案が数枚出来上がっていた。なんと前夜の酒宴の際に漏らしていたアイディアをカルビンとブランデルは聞き及び、宴の後に慌てて拵えたのだ。しかしレピソフォンは、カルビンの要約を聞きながら満足げに頷く。


「よろしい。余の親政はこうして始まり、民の心に届くのだ」


 空疎な命令と冷徹な現実が静かにひとつの形に収束していった。王が語らずとも政は回る──神輿は軽い方が良い――その皮肉を誰も口に出さぬまま書類だけが淡々と積み上がっていくのだった。


 ※


 深夜、王宮の北翼にある応接間。

 王宮内の一室にしてはかなり質素な応接間だが、掃除は行き届いており古臭さは感じない。それなりの格式を保っていた。エラールには小雨が降っており窓を軽く打ち立てる。遠くで夜警の鐘が鳴っていた。


 小さな丸卓を挟んでカルビン・デュロックとブランデル・コールが腰を下ろしていた。テーブルには簡素な陶器の杯と半分ほど減った琥珀色の酒瓶、そして山盛りの氷が入ったアイスペールが置かれている。


「いやはや、見事な親政でしたなあ。我らが“王子”殿下ったら」


 カルビンが薄く笑い杯を掲げた。ブランデルは何も言わず静かに杯を合わせる。


「忠誠の詩、ですよ? 最初聞いた時、思わず吹き出しそうになりましたよ! いやあ、あの“王子”殿下は本気だったんですな。――吟遊詩人を召し抱える気かと思いましたよ」

「詩文に実害はないさ、形だけでも提出させれば政治の文書に変わる」


 ブランデルは淡々と告げ酒に口をつける。カルビンがにこにこ笑いながらまったく笑っていない目で言った。


「ふふ、なるほど。それが『政務統括管理官』のお仕事と。――ところでブランデル殿、今の“王子”殿下に手綱を握らせる価値はあると思うかね?」

「――握ったつもりで満足していれば、政は回りますよ」


 先ほどから声色を変えず淡々と答えるブランデルを見て、カルビンは声を立てて笑った。だがその笑いには乾いた響きがある。


「いやぁ愉快! あいつは昔っから馬鹿だったんです。とにかくヨイショしていれば実害はありませんからね! 良いことがあればおこぼれに預かり、旗色が悪くなればあの“王子”殿下に押し付ける。これぞ王政の真髄ですね」

「貴方、良い死に方しませんよ?」

「大丈夫です、あなたも一蓮托生ですから」


 カルビンは卓に肘をついてブランデルを見た。少し酔いが回っているのか目が座っている。ブランデルはそのカルビンの目を睨みつけるように見つめる。


「私たちも足元を掬われぬように。この船も――ノクシオス丸のように穴が空くかもしれません」

「なぁに、穴が開いても塞げばいいさ」


 沈黙が落ちた。蝋燭の火が揺らぎ、壁の肖像画が一瞬、誰かの影に見えた。カルビンがぼそりと言った。


「お互い、長生きしましょう。ブランデル殿」

「そう願いたいですね」


 ふたりは席を立ち、杯を持ったまま背を向ける。この夜に交わされた密談が王都を揺らす導火線になるか、それともただのガス抜きで終わるのか。まだ誰も知らない。そしてこの政は既に王を自称する者の手には、無い。


 *


 翌朝。

 エラール王宮のレピソフォンの私室には柔らかな朝日が差し込んでいた。

 この私室も元は王太子の執務室であった。しかしその王太子が王宮から姿を消した今、レピソフォンがまるで当然のようにこの部屋を支配している。

 その彼の執務机には豪奢な朝食と積み上げられた報告書の束、そして日刊エラールという新聞が置かれていた。その執務机の前にはカルビン・デュロックとブランデル・コールが控えている。


「ふむ――で、民の反応はどうだ? 市井ではさぞ祭り騒ぎでも起きているのだろう?」


 レピソフォンは満足げに椅子に腰を下ろしだらしなく足を組んでいた。そして砂糖漬けの苺を一粒つまみながら尋ねる。


「はい、殿下!」――カルビンが即座に応じ、手にした文書を広げる。


「“財務大臣の任命”と“衛兵団再整備”が特に好評でございますね。市民の声としては──『新しい風を感じる』『税制改革に期待』『統一された兵装で治安が安定した気になる』等々、反応は上々です!」


「うむ。余の親政が早くも民に届いたというわけだな」


 レピソフォンは高らかに頷き、机の上に置かれた新聞を手に取る。


『王宮の夜明け──レピソフォン親政が始動』──日刊エラール朝刊の見出しが、彼の目に飛び込んできた。


「ふふ、やはり余は正しかった! 現王や元・王太子の沈黙を越え、ついに我が治世が始まったのだ」


 紙面を読みながらレピソフォンは絶好調だ。しかし彼の視線が一瞬止まる。


「――『政治経験の不足を懸念する声もある』、だと?」


 一瞬だけ眉をひそめたがすぐに笑い飛ばす。


「ふん! ブン屋って輩は心配性なもんだ。結果がすべてを語る、そうだろう?」


「まさに、殿下のお言葉の通りでございます」


 カルビンが笑顔でうなずく。誌面でレピソフォンの冕冠式や政策について好意的に書かれていたのは日刊エラールだけであった。他誌は冷淡だったり批判的だったりと、レピソフォンが不機嫌になってもあとあと面倒くさいので、その新聞しか置かなかったのだ。


 そしてブランデルは何も言わず次の報告書を差し出した。それは書式がきちんと整えられた命令書類だった。昨日の思い付きに近いような『政策アイディア』が、すべて現実的に改訂された状態で並んでいた。


署名欄には──

「王政執行責任者:レピソフォン・ド・エラール」

「政務統括管理官:ブランデル・コール」

――と書かれていた。つまりは名ばかりの王が政を語る一方で、現実は政務統括管理官と呼ばれた男の一存により動いている証左だった。


 レピソフォンが渡されたすべての書類に署名して次の果物に手を伸ばしたとき、ブランデルは静かに下がった。カルビンも机の上の書類を手にすると静かに下がる。そして二人はレピソフォンを背にして微笑を浮かべていた。


 ──王が何を語ろうが政はうまく動く。そしてその歯車を回しているのは、もう既に“彼”ではなかった

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